Diary/2006-03-28
「引越しにつき活動停止中。」とか書いておきながら今日中に出発できなくなったよ! そしてしばらく書けなくなると思うと色々書いておきたくて仕方ないよ!
魔法少女としてのネギ
『ネギま!』連続更新第三弾。
ネギが魔法少女っぽいポイントはいくつかある。
- 平凡(?)な少年の面と、悪と戦う戦士としての面を併せ持つ。(変身ヒロイン系)
- 正体がバレると罰を受けなければならない。(魔女っ娘系)
- 定型の呪文がある。(魔女っ娘系)
- 小動物マスコットがいる。(全般)
まあわりと今更というか、殊更に言い立てるようなことではない。しかし、『ネギま!』を魔法少女モノの変形として捉えると納得できることが少なくない。
魔法少女の世界観/ネギまの世界観
これは一言で表せる。すなわち、「魔法が全てを解決する」世界観である。
魔法は往々にしてアイテムに宿るものであり、習得するための努力を必要としない。それでいて万能の解決法である。変身ヒロイン系――セーラームーン系の作品でも、おおよそ最終的に倒せない敵はいず、解消されない悲劇は(イイモノに限れば)ない。と思う。
魔法少女を内包する世界は、その存在によって必ずハッピーエンドに回帰する。それが前回述べた「魔法少女」という箱庭である、と。
『カードキャプターさくら』『リリカルなのは』における「魔法少女空間」の扱いも非常に面白いが、ここでは話題を『ネギま!』に絞ろう。
魔法は全てを解決してくれるのか? そんなことはもちろんない。『ネギま!』の魔法は万能無限の力ではなく、理論と技術の上に成り立つものだ。ゆえに何もかもを都合よく解決してくれることはありえない。どころか、作中での「魔法」は危険で暴力的な力として描かれることがしばしばだ。「魔法は何も解決しない」のだ。
なぜか? 魔法は『ネギま!』の物語と世界を支配している法則とは別のものだからだ。そう、「わずかな勇気が真の魔法」なのだ。『ネギま!』の世界観は「わずかな勇気が全てを解決する」箱庭に他ならない。ゆえに、この箱庭に参加するのに魔術体系としての魔法に関わる必要はないわけだ。
逆に、「わずかな勇気」を持たないものは、世界の法則によって何も解決できない。それは必ずしも臆病者とは限らない。怒り・憎しみ・欲望・執着によって動く者も容赦なく世界に裁かれる。それは主人公たるネギも例外ではない。箱庭は箱に入っているから箱庭なのであって、その外側に世界があれば、中とは全く違う地獄かもしれないのだ。
そして、ナギ・スプリングフィールドは箱庭の外に取り残されている……いや、ネギやエヴァは、箱庭の中に取り残されているのだ。
※余談めくが、コタロー・白い少年・ヘルマンと、ネギがマジギレした相手はことごとく人外さんである。ネギにとっての怒り憎しみは「外」のものであり、箱庭の外部から持ち込まれるものであるわけだ。この伝でいくと、修学旅行先の京都はやっぱり箱庭の中ということになる。俺が麻帆良学園という場所に拘らない理由の一つ。
※リョウメンスクナにマジギレしなかったのはスクナが天ヶ崎千草に操られていたせいだろう。千草はどこまでも人間的な小悪党だからね。あ、これはネギの感情の話ではなく、物語展開上の合理性をいっている。
※エヴァ様はコタローよりよっぽど人外だが、箱庭に囚われている都合上「内部」のキャラとして扱われているのだろう。エヴァンジェリンのキャラクター像を考えるに、この内部性と外部性の葛藤は非常に興味深い。
期間限定の魔法少女/魔法先生
魔法少女は生モノである。違うか。とにかく魔法少女は少女であるから魔法少女なのであって年増の魔法少女はもはやただの魔女であり、要するに魔法少女というものは期間限定なのである。(少し関連:ときどきパクっちゃおについて )
なぜ期間限定なのか。マジックアイテムにはやたらとコスメが多い。化粧道具は少女を女にする道具である。つまり、「少女」が「女」へと飛躍することが、魔法なのである。背伸びを後押しする力が魔法なのである。
「魔法先生」であるネギは、10歳の少年でありながら年上の生徒を教えている。その背伸びを後押しする力が、魔法なのである。だからこそ「ネギ先生」には魔法が与えられている。ふつうに年下の生徒を教えるようになったら、象徴的な意味での「魔法」は失われてしまう。だから連中はガン首揃えて役立たずなのだ。
ゆえに、ネギの修行期間がどうこうとかはさておいても、「魔法先生」は期間限定の存在なのである。ということは、形としての麻帆良学園はともかく、「魔法先生」によって維持される箱庭もまた、期間限定ということになる。卒業までもつとも限らないのである。恐らくこのあたりが『ネギま!』のヌルい雰囲気と裏腹のスパルタンさの原因だろう。
箱庭系としての特異性
このように、魔法少女という切り口から捉えることで『ネギま!』の特異性も見えてくる。あちこちに仕込まれた箱庭崩壊の芽。この手のハーレムもので学校を舞台にした作品は案外少ないはずである。なぜならそれは期間限定だからだ。空から落ちてくるとか女神さまが願いを叶えてとかメイドとか奴隷宇宙人とか、キャラクターの相互関係のありようが殊更に意味不明になりがちなのは、そうすれば箱庭が終わる理由も見付からなくなるためであろうが、フツーに中学生フツーに先生。これだけでもけっこう危険な設定じゃないか? そして「魔法先生」の期間限定性は先に述べたとおりである。
その上ネギは箱庭の外への強烈な志向性を持っている。というより、彼自身本来は「外」の人間と言っていいくらいな気もするが、そもそもその箱庭はネギが器としての麻帆良学園に入ったことで発生しているわけで、実にややっこしい。その複雑なキャラクター性がネギの魅力には違いないが、そのために『ネギま!』の幸せ世界は極めて不安定な砂上の楼閣となっている。結果、『ネギま!』はハーレム漫画のくせにやたらとスリリングで心休まらない作品になっていると思う。
※またも余談。俺は藤島康介が苦手で『ああっ女神さまっ』をちゃんと読んでいないんだが、どうもアフタヌーンをチラチラ見る限りではバトル漫画化が進んでいるようだ。なぜまったりできないのか。恐らくは、螢一とベルダンディーの関係が、恋人同士という普通の、わかりやすい、ゆえに壊れやすい関係になったため、安定を保てなくなっているんじゃなかろうか。
補足:エヴァンジェリンは内部/外部に葛藤する
エヴァは10歳のときに吸血鬼となって以降、ほとんどの時間を人外の化け物として過ごしてきたことになる。「人外=箱庭の外」の見立てを取るまでもなく、その修羅の人生の一端は本人の口から語られている。「わずかな勇気」などと口にするもはばかられる不幸っぷりだが、そこに変化をもたらしたのがナギである。
襲い来るハンターをことごとく返り討ちにし、生き血を啜り命を喰らう魔女として悪名を轟かせたエヴァを、ナギは子供のようにあしらう。幻影魔法も解けてしまう。
ここで重要なのは、エヴァにとっての幼少時代は、人として生きたほんの僅かな時間でもあったということである。ナギがエヴァを子供扱いするのは、エヴァを内部の人間として扱うこととほぼ同義である。エヴァはナギによって人間性と「わずかな勇気」を取り戻したのだろう。
この上で、現在のエヴァの立場を複雑極まるものにしているのが登校地獄の呪いだ。エヴァは箱庭の器である麻帆良学園に閉じ込められ、ナギは行方をくらました。
エヴァは本来が学園の外=人外の存在であり、ましてナギが外にいる以上、外部への志向性は強い。しかしここで重要なのは、エヴァにとってナギの側は「内側」だったという点である。エヴァは外に出たいのではなく、中に帰りたいのだ。
そもそもが今までロクな人生を送ってきていないエヴァのこと、穏やかな学園生活は退屈でこそあれイヤなはずがないのだ。実際茶ァしばきつつじじいと碁を打つエヴァ様はけっこう楽しそうに見える。にもかかわらず、以前のエヴァはなぜあれほどまでに鬱屈していたのだろうか。
それは、エヴァが麻帆良学園から疎外されていたからに他ならない。悪の魔法使いとしての己、吸血鬼として修羅の年輪を積み重ねた己、外部の存在である己を自覚するがゆえに学園に溶け込めずにいたエヴァが「内部性」を回復できたのは、いうまでもなくネギの功績である。これが、『ネギま!』の箱庭は学園ではなくネギなのだと主張する所以である。
外敵を屠るためだけに蓄えられた力、外部性の象徴たる魔力を、丸ごとネギに受け入れられる師匠業にエヴァがハマってしまったのも当然といえる。
がしかし、現状、エヴァにとってのネギがナギの代替品を超えないことも事実だろう。一方で他に寄る辺がないのもまた事実。代用品として確実に機能しているのも紛れもない事実だ。エヴァがナギに再会する前に、ネギのほうが箱庭を捨てたらエヴァはどうするのだろう。再び内部に受け入れられることの味を覚えた今、はじかれ者として生きていけるのだろうか。まさか皆の卒業後もネギと学校に居残るような特別扱いが許されるはずもない。
エヴァがネギの成長を素直に認められないのは単なるツンデレじゃないよ。極めてシリアスな不安だと思う。
補足2:カードキャプターさくらとリリカルなのはの魔法少女空間
前述の通り、魔法少女の存在する世界はある種の楽園である。しかし、魔法の根源を少女性に求めたために、楽園には賞味期限が付いてしまった。取り得る手段は時間の流れない世界か、期間限定の夢しかない。
『カードキャプターさくら』は根本的な解決策を示した。箱庭を維持する力を魔法に求めなければいいのだ。『さくら』におけるマジックアイテムであるクロウカードは、さくらカードとしてさくらに取り込まれる。しかしそれすらも結局は同じカードを狩るだけで、単なるオモチャに過ぎない。全く象徴的な力は持っていず、本質的な問題は何も解決できない。(そういう点で劇場版はかなり異質かもしれない。)
またクロウ・リードの真の力はさくらに継承されるが、希代の大魔術師の人生を歪めたその力すらさくらは平然と受け入れてしまう。それにはクロウの配慮も働いているのだが、何度も書いたように、そのように愛されることそのものがさくらの力だ。魔法の究極すら飲み込む愛、それが『さくら』の楽園を支えている。
さくらの持つ愛の力は少女性とは関係ないのか? もちろんある。そうでなければ魔法少女モノの体裁を取る意味がない。さくらが皆に愛され、愛することができるのは、その純粋無垢な少女性に負うところが大きい。それが一番分かりやすい描き方だ。少なくとも初期はそうだった。撫子という天寿をまっとうできなかった大人の女性が存在することも無意味とは思えない。
しかし、雪兎への失恋、恋のライバル(笑)だった小狼との恋、撫子との関係を含めた桃矢の葛藤などを描く過程で登場人物の感情を整理し、変化を続けステップアップしていく中でも変わらない愛のあり方を描き出した。それは愛し方の多様性を受け入れることに他ならない。そうした物語全体の構成によって、さくらを中心とする箱庭的世界観は強固に維持された。「魔法少女」の終わったあとも続く楽園だ。そう、「絶対だいじょうぶ!」なのだ。
んで、『魔法少女リリカルなのは』の場合、これまたいつものように色眼鏡がかかってしまうんだが、とりあえず魔法は単純に攻撃魔法なんで、全くもって物語的に何かを成す力はない。ここで箱庭的魔法少女空間を支える論理は「相互理解と信頼」ってとこだろうか。だからまず箱庭のプロトタイプとして提示される高町家では9歳の少女が全幅の信頼を受けているわけだし、なのはが「わたしの話を聞いて!」と叫ぶのはまさにその信念の吐露に他ならない。拳で語り合ったなのはとフェイトが誰より強い絆を結ぶのは、互いの心も力も理解し信頼しているためだろう。
しかし、そこには理解できない異物への愛はない。異なる気持ちを抱きあうさくらと知世がそれでも愛し合う論理がない。何も語らないクロウ・リードの愛を何も知らずに受けるさくらの存在としての度量がない。
なんて、脳内で傑作認定してる『さくら』と引き比べるのはちと卑怯かもしれんが、そうやってプレシアを排除しつつ限りなく同質化を志向するかに見えるとこが個人的にスゲー気持ち悪くてダメっていい加減しつこいけど、どこがイヤなのか考えると好きな作品のどこが好きなのか分かりやすいんじゃよー。ていうか君たちそんな短いスカートで戦うなはしたないパンツ見えちゃうでしょ!! ごめんもっとやって! 主にフェイト!