Diary/2006-08-19
ロストチャイルド試論
ヒーローはなぜ悪と戦うのか?
この問いを真剣に考える必要は、実はない。「正義の心によって」で充分だ。なぜならば、ヒーローものの主な受容層である子供が欲しているのは、まさにそのような存在だからだ。むしろ理由などないほうがいい。モノクロ時代の特撮ヒーローがみなマスクマンなのは、その理由を、正体を隠すために他ならない。サンタさんの中の人がウチのパパであることなど子供は知りたくないし、ヒーローの孤独な戦いの裏にある、恋人を殺された過去や、持て余しそうな巨大な力や、バイトで糊口を凌ぐ生活のことなど、知りたくはないのだ。
しかし、隠匿されてきたがゆえに、ヒーローの裏を知りたい、描きたいという欲求もまた存在した。仮面ライダーはそうして生まれた。不気味で悲しい、新たなヒーロー像の誕生だ。石森章太郎の手になる漫画版『仮面ライダー』は、ヒーローの戦いの裏にある残酷さを抉るように描き出した。異形と化した肉体に、破壊された平穏な生活。そして、必然的な死と、そこからも逃れられぬ運命。
しかし、こりゃ当然ながら子供向けには暗すぎた。骸骨顔のモンスターとしてデザインされた「スカルマン」は「仮面ライダー」になり、テレビ版はシリーズを重ねる毎に悲劇の色を薄れさせた。やっぱり人間見たくないもんは見たくないのである。
それでもこの問いかけは残った。ヒーローよ、なぜ戦う。繰り返すが、ヒーローであるだけならば理由などは必要ないのだ。しかし、何の理由もきっかけもなく、命を懸けて戦える人間が果たしているのだろうか。いはしない。仮面ライダーとは、ヒーローの人間宣言であったのだ。生まれつきの超人ではない、改造人間としての「自己」の獲得である。
悪を憎んで人を憎まないのは、純粋なヒーローの精神だ。人間であるヒーローは、悪も憎むが人も憎む。ショッカーに改造された初代ライダーの動機に復讐を見出さないのはいくらか不自然な見方といっていいだろう。つまりそれは、悪と戦うに際する、公的でない、私的な動機である。ある意味では、本郷猛はショッカーを「愛している」。そしてショッカーも、己がいとし子である仮面ライダーを憎みつつ愛しているのだ。(『D.Gray-man』で最近あった、アレンのアクマへの愛の告白と関連付けてもいいかもしれない。)
『仮面ライダーBLACK』におけるブラック・南光太郎とゴルゴムの関係は、明らかにこの仮面ライダーー・本郷猛とショッカーの関係を模倣している。ゴルゴム次代の支配者「世紀王」として生み出されたブラックサン=仮面ライダーブラックはゴルゴムに祝福された存在であるし、同じく世紀王であるシャドームーンはかつて秋月信彦として南光太郎と親友の間柄だった。仮面ライダーブラックというヒーローは、ブラックサンとして、南光太郎として、仮面に託すことのできない苦悩と決意を持って戦った。これもまたヒーローの手に戦いを取り戻さんとする運動の一環と位置づけることができる。
『ロストチャイルド』がここに加えたものはふたつある。ひとつは、諸悪の根源としての自己、瀧村研三。これによってヒーローは最も愛すべき「敵」を得る。実際には草薙が噛んでくるからそう単純ではないけれど、ライダーたちが「改造された」という形で持っていた原罪が、元を辿れば自分自身に帰る形で提示されているのは極めて重要だといっていい。
もうひとつは、当然愛すべき女性、藍だ。これによってヒーローは平和を享受すべき存在を得る。その点において娘であり恋人でもある藍はピッタリの役どころだろう。一心同体であるからこそ自分自身のためだけには戦えず、一心同体であるからこそ他人のために身を捨てられる。時任将路は藍のために瀧村研三を全うし、瀧村研三は自らの罪を償って乃亜に未来を与えた。研三と忍の罪深い交わりによって産まれた乃亜が人外の存在として転生したのが藍であることを考えれば、藍が人性を得ることの意味は明白だ。そして、そして、将路と藍が結ばれる未来と、藍の平穏な生が両立しないことも。
つまり、倒すべきは悪ではなく、罪。罪を憎んで人を憎まず。
悲しみに、憎しみに負け、悪を敵として戦うことは、倒すべき敵によって自己を縛られることを意味する。そうではなく、己が罪を敵とし、自らを清算することこそが自由。ヒーローの解放である。