Diary/2007-02-15
後編執筆中。
プリワルやっぱスゲェ
なんかもう全然萌えない。ひたすら燃え。あの絵でカケラも勃起しないのはさすがにすごいぞ。
サクッと終わらせて何か書きたい。Diary/2006-06-11・Diary/2006-08-12の時点ではプレイしてなかったので、さすがに見えてなかったことが色々あった。
後編執筆中。
なんかもう全然萌えない。ひたすら燃え。あの絵でカケラも勃起しないのはさすがにすごいぞ。
サクッと終わらせて何か書きたい。Diary/2006-06-11・Diary/2006-08-12の時点ではプレイしてなかったので、さすがに見えてなかったことが色々あった。
妹属性というのがエロゲーにおいて非常に流行った時期がある。これが終わった時期を決めるのは難しいが、始まった時期に関しては『With You ~みつめていたい~』をその端緒とする説が一般的であると認識している。
『With You』において、サブキャラにも関わらず断トツの人気を誇ったのが主人公の実妹である伊藤乃絵美だった。 乃絵美はいわゆる救済ヒロイン(攻略失敗した際の救済措置的なEDで登場するヒロイン)であった。これは「他の女はさておいても、妹だけは俺を見捨てない」という、妹キャラに求められる基本的役割に見事に合致している。乃絵美の人気には、この配役の妙が(偶発的にしろ)作用していたと思われる。
一方で、この実妹設定のゆえに専用ルートもエロシーンも存在しえず、悶々としたファンも多かったという。
乃絵美の人気によって下地の作られていた妹キャラ需要に積極的に答えるべく導入されたのが、義妹設定である。血が繋がってなければエッチしてもOKという理屈で、妹キャラを攻略対象ヒロインとして採用することが可能になった。
ここで改めて、エロゲーにおける妹キャラの魅力を考えてみると、以下のようなものが考えられる。
このうち1については、血縁関係がなくなることで大部分がスポイルされる。よって、義妹キャラには2~4の要素が強く求められることになる。自然、父母の再婚等による縁戚関係に加えて、長期に渡る同居状態が多く設定された。
義妹設定の導入によって妹ブームは大きく広がったのだが、義妹キャラが粗製濫造される中でその意味合いも徐々に変化していった。妹キャラの役割を「最初から主人公に好意を抱いているヒロイン」といったように単純化して捉える作品が増えていったのである。
このような妹像を完全に成立させたのは『Sister Princess』だろう。以下、基本的に原作及び原作に準拠するゲーム版1・2について言及する。まず、主人公と妹たちは過去も現在も同居していない。また、ゲーム版血縁ルートにおいてのみ血縁関係が明示されるものの、同居もしておらず両親も登場しないため(そもそも12人もいるし)縁戚関係の意識は極めて薄い。いわゆる海外組に至っては過去における主人公との関わりが皆無である。一方で、12人全員が「お兄ちゃん大好き!」であり、恋愛(的)関係になることが可能とされている。
このような「縁戚関係」も「同居状態」も重要視されない妹像は、実のところ妹である必要がほとんどない。
それを明確に示していたのが『みずいろ』である。この作品においては幼なじみの日和と義妹の雪希が2大ヒロイン的な扱いを受けているが、いずれのシナリオにおいても強調されるのは「思い出」であり、実のところ役割においては大差がない。主人公と同居している雪希が食事等の世話をしているのが唯一違いらしい違いだが、物語上重要とは言えない設定であるし、本来エロゲー的に重要なはずの「年頃の女性と同居している」状況については全く強調されない。
当時、いわゆる萌えゲー・シナリオゲーでは、妹キャラはいて当然という状況であった。雪希が支持されたのは、「理想の妹」としてであっただろう。「ふつうのギャルゲーを目指して」という『みずいろ』のコンセプトからしても、「なぜ妹なのか」という問いは一切ない。妹はただ妹であればよく、さしたる特異性は求められなかったのだ。
無印→A’s→StrikerSの流れをよく見てよく考えたら、これって無印からずっと家族の話だったのじゃないかしらん……?
なのはとフェイトの友情ってのは、あくまでもお互いの家庭が正常に機能していることを前提としたものであって、究極的には家族の話。そのような価値観を根底においたストーリーテリングがなされていると考えると、だいぶ納得できることが多い。
家族として云々ではなく、アリシアへの「個人的な愛情」を基盤として行動するプレシアが一顧だにされず完全否定されるのに対して、リンディの母親あるいは艦長としての共同体論理がほとんど無批判といっていいほど肯定的に描かれるのは極めて象徴的な話で、『なのは』シリーズ全体に共同体論理が貫かれている。
リンディは、ある個人と良好な関係を築くためには、まずその属する共同体との関係を良好に保つ必要がある……というかそれだけで充分だと考えているフシがある。
例えば、フェイトの取り扱いについて明らかに方向性の違いがあるなのはと積極的に話し合おうとはせず、それよりもなのはの家庭と学校での生活のケアに気を遣い、母親にはキッチリ話を通そうとする。重大な確執があるはずのフェイトの心情には特に配慮せず、それよりも家族としての関係を結ぼうとする。そして、結果として二人とも時空管理局に取り込むことに成功する。
なのはとフェイトの友人関係は、「高町家」と「ハラオウン家」という正常な家庭があって初めて成立する。なのは・アリサ・すずかの関係がいかにも小学生的な家単位での交流であることからソッコーで思い至るべきだったが、無印であまりになのはとフェイトの個人間の関係が強調されていたので見誤ってしまったようだ。
ヴォルケンリッターとなのはらの間に何らわだかまりが残らないのも当然で、共同体同士が手打ちになったら争う理由がないのだ。ていうか、そもそも何の対立も発生してなかった。相変わらず。
最近よそごとにかまってて更新してなかったけど、色々溜まってきたので出していきます。
一昨年の記事だけど、いらん心配だったなこりゃ。いまだに蛹蟲の章の頭までしかやってないけど、これは大変に賢い。
そもそも上掲記事の要旨は、ぶっちゃければ「闇の声はキャラが立たないからダメ」っていうことだったわけだけれども、そんなこと言ったらいじり方次第でヒロインのキャラが変わる調教ゲーは全部ダメってことになる。実際全然売れてないし作られてもいないんだが、それはそれでエロいのでもったいない。
つまり、『闇の声』シリーズや調教ゲーの魅力は、同じヒロインがシーンによって全く違う顔を見せるところにある。しかし、それではそもそも一貫したキャラクター性自体が成立しない。ジレンマだ。じゃあどうするか。
年齢ごとに立ち絵用意すればいいんじゃないですかね、というのが『EXTRAVAGANZA』の解答だったわけだ。当たり前だが、同一人物でも年齢が違えば異なる顔を持ちうるわけで、これは盲点だった。「一貫したキャラクター性」と「多様な顔」というのを、時間軸をずらすことによって成立させている。実に賢い。
個人的には、ロリ→少女→オバサンを一直線に並べるより、分岐で選択できたほうが(それが見かけ上だけで、実際にはプレイ順が固定だとしても)面白かったように思うが、有意義な挑戦と評価したい。
実現しないと踏んでいた千雨と茶々丸の直接対決が今週にもありそうな按配なので、再度この二人が戦う意味を確認してみたい。
ネギを子供扱いしないという点においては似た者同士の二人だが、ネギのどういう面を見ているかがまったく違う。
茶々丸は、精神年齢の低さから、10歳のネギに自然と視線が合っている。また、ネギの秘蔵動画集を眺めてハァハァすることはあっても、自分が歳取らないせいか成長したネギを妄想してハァハァすることはない。ネギと過ごす未来に想いを馳せることもなさそうだ。茶々丸が見ているのは子供であり、少年のネギである。
一方の千雨は、年齢や立場によって人を高くも低くも見ることはなく、ただ何を成すかによってフラットに評価しようとする。(そのへん、事情はどうあろうが悪人は悪人という超への見方にも通じる。)当初ネギを侮っていたのはネギが年下だからではなく本当に子供だからであり、その強靭な意志力を目にしては一定の敬意を払う。こう言うとバカピンクあたりの認識とあんま変わらないような気もするが、いいんちょを初めとするクラスメイトはネギの背伸びに対して微笑ましさ、あるいはトキメキを感じているのだが、千雨は年齢のギャップに萌えていない。精神年齢の伴わない大人ネギにもまったく反応していない。千雨が見ているのは大人であり、男としてのネギである。
この違いが、超編の決戦における両者の立ち位置を象徴的に分けている。ここに至るまでの超側とネギ側の対立点を探ってみると、それがかなりの部分二人の差異に重ねられることが分かる。
| 超サイド | ネギサイド |
|---|---|
| 未来からの干渉 | 自らの未来の防衛 |
| ネギを極力戦いに巻き込まない | ネギのために決戦場をしつらえる |
| 世の中の不条理は私が解決してやるネ | てめーがなんとかすんだよボケが! |
| ネギとくっつけない[1] | ネギとくっつける |
では、この構図にはどういう意味があるのだろうか。チャチャゼロと茶々丸がエヴァの二面性の象徴であるように、千雨と茶々丸もまたネギの二面性を象徴している。そして、常に超の有利に展開していた戦いは、最後には必ずネギの勝利に終わる。現在子供と大人の間で揺れているネギも、いつかは必ず大人になるのである。
というあたりを念頭において千雨と茶々丸の戦いを見てみようと思う。
茶々丸とチャチャゼロはエヴァンジェリンの二面性を表していると書いたが、それは具体的には何を指すのだろうか。
この対照はひとまず違和感なく受け入れられるものと思う。加えて俺が指摘したいのは、前述の通り茶々丸はあくまで子供だということだ。
ここで話は前掲の記事に繋がるのだが、麻帆良学園(正確にはネギの幸せ結界内)におけるエヴァは、ある意味において、まだ人間だった子供時代に立ち戻っている。茶々丸のキャラクター性は、現在のエヴァンジェリン=子供であることの傍証になっているわけだ。
もう一本補助線を引いてみよう。いいんちょさんが激しく癒し系なわけにまとめてあるが、『ネギま!』世界の根本的原理として以下の3条が挙げられる。
3番目が極めて重要なのだが、これは言い換えると、今まさに急激に成長し大人になりつつあるネギについていくためには女の子も成長せねばならないということになる。集結したネギ・パーティーが学園祭においてそれぞれに試練を乗り越えてきているのはそのためだ。
しかし、茶々丸は、そしてエヴァンジェリンも、成長しない。茶々丸と千雨が宿命的に対決し、茶々丸が敗れるのは、そういうことだ。
この問題が難しいのは、エヴァンジェリンの人間性(=ネギのハーレムにいる権利)が「子供であること」と不可分だからだ。なんとなれば、冒頭でリンクした記事で書いたように、エヴァが人間だったときは子供でもあったためである。エヴァは、大人であるためには人間であれず、人間であるためには大人であれない。
エヴァがナギに置き去りにされ……箱庭の中に取り残されたのは当然で、エヴァを人間扱いするナギにとってはエヴァはどこまでもお子様でしかないからだ。この問題は仮に登校地獄の呪いが解かれても解決しない。麻帆良学園で平穏に暮らしてはネギにもナギにも付いて行けないし、学園結界の外に出れば魔物として狩られる運命からは逃れられない。
悲劇である。この悲劇から脱出するには、どうやったらそんなことが可能なのかわからないが、エヴァ自身が「わずかな勇気」を奮って「人間的に」成長しなければならない。茶々丸も同様だ。それができない限り、茶々丸は永遠に千雨に勝てないだろう。
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