きゃっと・ふぃすと

2006/3/29 水曜日

Diary/2006-03-29

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 やばいやばい! 確変きてる! 止まんない! しつこくネギまネタいくよ!

いいんちょさんが激しく癒し系なわけ

 前提になる主張は以下。

  • 『ネギま!』はネギを中心とした箱庭的世界観を持つ
  • その箱庭は「わずかな勇気」を原理として幸せに保たれている
  • だから「わずかな勇気」を出せない者には不幸が訪れるよ!

 ということで、ネギまにはハーレム漫画でありながら強迫的なところがある。ネギは周囲に絶対幸せ時空を作っているが、それは皆が「わずかな勇気」を出すことで成り立っている。
 特に最近の連載分ではそれが分かりやすい。亜子編・図書館探検部編と悩める女子の出番が続いたわけだが、いずれも最終的に問題を解決したのは女の子の「わずかな勇気」だ。亜子編でネギは亜子が勇気を出すためのお膳立てをしたに過ぎない。探検部編では事態に参加すらできなかった。しかし、亜子が立ったその舞台を用意することこそネギの役割なのだし、夕映の恋を受け入れた本屋ちゃんの精神的成長がネギに拠っていることは言うまでもないのだが、しかしそこで夕映が泣くのもまたネギま。
 ネギが常に試練にぶち当たっているように、女の子たちもまた常にストレスにさらされている。ハーレムを遠巻きに眺めている超・ハカセ・龍宮の悪党トリオや、すでに期間限定の魔法に頼る必要もないほど成熟している五月などの例外を除き、ネギを取り巻く女の子たちは自分の試練を「わずかな勇気」で乗り越えつつネギに関わっている。それゆえに女の子の側の成長物語としても読めるわけだが、とかくストレスフルな漫画であることには違いない。

 それを緩和しているのがハーレムにおけるリーダー格の役割を持つあやかだろう。彼女はネギをベタベタに甘やかし、その好意に一点の曇りも見せることはなく、嫉妬するときもオチ担当の立場を崩さない。基本的に完璧超人ゆえに妙なコンプレックスに悩まされることもないし、その上裏の事情は一切ご存じない。実のところ極めて例外的なおきらくごくらくキャラだったりする。
 しかし、ネギま的に正しいことに、彼女にもネギへのストレス要因がある。過去に弟を亡くしたことがネギへの関わり方に影響していないはずがない。にもかかわらず彼女はそのことについて悩まない。勇気もクソもなく燃え上がる愛のままに突っ走り、しかもネギへの接し方を外さない。ネギ先生の勇姿を一目見たいの一心でクラスメイトを引き連れ武闘会場に乗り込んだその行動の完璧な正しさよ。別にネギを支えることを意図したわけでもなかろうに。
 これはどうも、単に彼女がそういうキャラだというよりは、ハーレムの中で特権的に悩まない役割を与えられているような気がする。バカレンジャーの古や楓にしても強敵と当たってボロボロにされたりしてるわけで、いいんちょさんはストレスなしでネギに向かっていける唯一の女の子なわけだ。これが学園祭でも影響して、唯一さしたるイベントもないただのデートを謳歌することになったんだろうけど、いやあれは実に和んだ。こうやってけっこういい思いしてるあたりも実に見ていて癒される。

mixiより転載 今週のネギま(小太郎vsクウネル)

赤松の野郎は本当にすごい。小太郎あっさり負けたくせにキャラ立ちすぎ。妙に人に恵まれているネギと違って、小太郎にとっては唯一の友人たるネギを失う恐怖は極めてシリアスかつリアルな問題だったのだ。こうしてみるとあれこれとネギの世話を焼いていた小太郎が、単なるお人好しだとか、ライバルの成長を願うだとか、そういうありふれた意味付けと全く異なる様相を見せてくることになる。あれは要するにネギの気を惹きたかったんじゃないか。そりゃそうだよ。あの年頃の友達付き合いってのは少なからずそういうものだと思うし、小太郎のキャラクターに非常にリアリティと深みが出てくるよね。とても共感できる。ネギVSタカミチ、小太郎VSクウネルの二試合を通して描かれたのは、あまりにも輝きすぎるネギが照らし出す陰影だ。クウネルとの絡みでエヴァがクローズアップされてたのもそうで、これはナギだね。エヴァンジェリンというのは、ナギという太陽が作った影でもある。そこいくと、エヴァにとってネギは当然にナギの代償という面が多分にあるんだけど、二度目の喪失というものを経験することにもなるかもしれない。ネギの成長をエヴァが素直に認められないのは単なる照れ隠しじゃないね。エヴァは明らかに師匠としてネギに関われることを喜んでいる。でも、ネギはいつか必ずエヴァを越えていく。明日菜VS刹那戦のエヴァの置いてけぼりっぷりが痛い。明日菜はいつか『ネギま!』の物語のキーパーソンとしてネギを連れ去ってしまうかもしれないからだ。学園祭というモラトリアムそのものの明るい舞台で、その影は一層濃い。

mixiより転載 今週のネギま(準決勝)

 もうね……。
 俺はまほら武闘会通してのテーマは「ネギ君の光と闇」だったと思うんですよ。タカミチ戦ではネギの父親への真っ直ぐな思いを描き、くーふぇvs龍宮・小太郎vsクウネル・刹那vsエヴァではネギの輝きに照らし出される周囲の影を、そして明日菜とクウネルの試合を通しては「父親を追う」というネギの目的そのものの危うさを描いてきた。

 そもそもネギの暗黒面(とカッコいいところ)はバトルパートにおいて描かれてきたんだけど、なんせバトルパートは常に非常事態なんで、その場の勢いで押し切ってしまうことが多かった。それゆえに明日菜との関係の進展なんかも得られたわけなんだけどね。
 けど、それはやっぱりちゃんと自分と向き合ってないんだよね。それに喉元過ぎればなんとやらで、ネギも生徒たちも自分の問題を忘れちゃってる面がなきにしもあらずだった。

 その点、この日常でありながら非日常という文化祭、そしてまほら武闘会は極めて優れた舞台だった。刹那の精神的成長には、エヴァのちょっかいという偶発的要因もあったけど、この真剣でありつつもどこか余裕のある状況と物語全体の流れが影響していると思う。

 さてここで今週のネギvs刹那戦ですよ。父親の影に押し潰されかけるネギが、対戦相手からの励ましと、吊り橋効果的な絆ではない、生徒たちみんなの応援で自分を取り戻す。まさにまほら武闘会というシチュエーションなくしては決して不可能だった熱血展開、ついでにカッコいいネギ君を学園サイドで初披露。もうね、もうね! 赤松マジ天才。

2006/3/28 火曜日

Diary/2006-03-28

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 「引越しにつき活動停止中。」とか書いておきながら今日中に出発できなくなったよ! そしてしばらく書けなくなると思うと色々書いておきたくて仕方ないよ!

魔法少女としてのネギ

 『ネギま!』連続更新第三弾。

 ネギが魔法少女っぽいポイントはいくつかある。

  • 平凡(?)な少年の面と、悪と戦う戦士としての面を併せ持つ。(変身ヒロイン系)
  • 正体がバレると罰を受けなければならない。(魔女っ娘系)
  • 定型の呪文がある。(魔女っ娘系)
  • 小動物マスコットがいる。(全般)

 まあわりと今更というか、殊更に言い立てるようなことではない。しかし、『ネギま!』を魔法少女モノの変形として捉えると納得できることが少なくない。

魔法少女の世界観/ネギまの世界観

 これは一言で表せる。すなわち、「魔法が全てを解決する」世界観である。
 魔法は往々にしてアイテムに宿るものであり、習得するための努力を必要としない。それでいて万能の解決法である。変身ヒロイン系――セーラームーン系の作品でも、おおよそ最終的に倒せない敵はいず、解消されない悲劇は(イイモノに限れば)ない。と思う。
 魔法少女を内包する世界は、その存在によって必ずハッピーエンドに回帰する。それが前回述べた「魔法少女」という箱庭である、と。

 『カードキャプターさくら』『リリカルなのは』における「魔法少女空間」の扱いも非常に面白いが、ここでは話題を『ネギま!』に絞ろう。
 魔法は全てを解決してくれるのか? そんなことはもちろんない。『ネギま!』の魔法は万能無限の力ではなく、理論と技術の上に成り立つものだ。ゆえに何もかもを都合よく解決してくれることはありえない。どころか、作中での「魔法」は危険で暴力的な力として描かれることがしばしばだ。「魔法は何も解決しない」のだ。

 なぜか? 魔法は『ネギま!』の物語と世界を支配している法則とは別のものだからだ。そう、「わずかな勇気が真の魔法」なのだ。『ネギま!』の世界観は「わずかな勇気が全てを解決する」箱庭に他ならない。ゆえに、この箱庭に参加するのに魔術体系としての魔法に関わる必要はないわけだ。
 逆に、「わずかな勇気」を持たないものは、世界の法則によって何も解決できない。それは必ずしも臆病者とは限らない。怒り・憎しみ・欲望・執着によって動く者も容赦なく世界に裁かれる。それは主人公たるネギも例外ではない。箱庭は箱に入っているから箱庭なのであって、その外側に世界があれば、中とは全く違う地獄かもしれないのだ。
 そして、ナギ・スプリングフィールドは箱庭の外に取り残されている……いや、ネギやエヴァは、箱庭の中に取り残されているのだ。

※余談めくが、コタロー・白い少年・ヘルマンと、ネギがマジギレした相手はことごとく人外さんである。ネギにとっての怒り憎しみは「外」のものであり、箱庭の外部から持ち込まれるものであるわけだ。この伝でいくと、修学旅行先の京都はやっぱり箱庭の中ということになる。俺が麻帆良学園という場所に拘らない理由の一つ。
※リョウメンスクナにマジギレしなかったのはスクナが天ヶ崎千草に操られていたせいだろう。千草はどこまでも人間的な小悪党だからね。あ、これはネギの感情の話ではなく、物語展開上の合理性をいっている。
※エヴァ様はコタローよりよっぽど人外だが、箱庭に囚われている都合上「内部」のキャラとして扱われているのだろう。エヴァンジェリンのキャラクター像を考えるに、この内部性と外部性の葛藤は非常に興味深い。

期間限定の魔法少女/魔法先生

 魔法少女は生モノである。違うか。とにかく魔法少女は少女であるから魔法少女なのであって年増の魔法少女はもはやただの魔女であり、要するに魔法少女というものは期間限定なのである。(少し関連:ときどきパクっちゃおについて

 なぜ期間限定なのか。マジックアイテムにはやたらとコスメが多い。化粧道具は少女を女にする道具である。つまり、「少女」が「女」へと飛躍することが、魔法なのである。背伸びを後押しする力が魔法なのである。

 「魔法先生」であるネギは、10歳の少年でありながら年上の生徒を教えている。その背伸びを後押しする力が、魔法なのである。だからこそ「ネギ先生」には魔法が与えられている。ふつうに年下の生徒を教えるようになったら、象徴的な意味での「魔法」は失われてしまう。だから連中はガン首揃えて役立たずなのだ。
 ゆえに、ネギの修行期間がどうこうとかはさておいても、「魔法先生」は期間限定の存在なのである。ということは、形としての麻帆良学園はともかく、「魔法先生」によって維持される箱庭もまた、期間限定ということになる。卒業までもつとも限らないのである。恐らくこのあたりが『ネギま!』のヌルい雰囲気と裏腹のスパルタンさの原因だろう。

箱庭系としての特異性

 このように、魔法少女という切り口から捉えることで『ネギま!』の特異性も見えてくる。あちこちに仕込まれた箱庭崩壊の芽。この手のハーレムもので学校を舞台にした作品は案外少ないはずである。なぜならそれは期間限定だからだ。空から落ちてくるとか女神さまが願いを叶えてとかメイドとか奴隷宇宙人とか、キャラクターの相互関係のありようが殊更に意味不明になりがちなのは、そうすれば箱庭が終わる理由も見付からなくなるためであろうが、フツーに中学生フツーに先生。これだけでもけっこう危険な設定じゃないか? そして「魔法先生」の期間限定性は先に述べたとおりである。
 その上ネギは箱庭の外への強烈な志向性を持っている。というより、彼自身本来は「外」の人間と言っていいくらいな気もするが、そもそもその箱庭はネギが器としての麻帆良学園に入ったことで発生しているわけで、実にややっこしい。その複雑なキャラクター性がネギの魅力には違いないが、そのために『ネギま!』の幸せ世界は極めて不安定な砂上の楼閣となっている。結果、『ネギま!』はハーレム漫画のくせにやたらとスリリングで心休まらない作品になっていると思う。

※またも余談。俺は藤島康介が苦手で『ああっ女神さまっ』をちゃんと読んでいないんだが、どうもアフタヌーンをチラチラ見る限りではバトル漫画化が進んでいるようだ。なぜまったりできないのか。恐らくは、螢一とベルダンディーの関係が、恋人同士という普通の、わかりやすい、ゆえに壊れやすい関係になったため、安定を保てなくなっているんじゃなかろうか。

補足:エヴァンジェリンは内部/外部に葛藤する

 エヴァは10歳のときに吸血鬼となって以降、ほとんどの時間を人外の化け物として過ごしてきたことになる。「人外=箱庭の外」の見立てを取るまでもなく、その修羅の人生の一端は本人の口から語られている。「わずかな勇気」などと口にするもはばかられる不幸っぷりだが、そこに変化をもたらしたのがナギである。
 襲い来るハンターをことごとく返り討ちにし、生き血を啜り命を喰らう魔女として悪名を轟かせたエヴァを、ナギは子供のようにあしらう。幻影魔法も解けてしまう。
 ここで重要なのは、エヴァにとっての幼少時代は、人として生きたほんの僅かな時間でもあったということである。ナギがエヴァを子供扱いするのは、エヴァを内部の人間として扱うこととほぼ同義である。エヴァはナギによって人間性と「わずかな勇気」を取り戻したのだろう。

 この上で、現在のエヴァの立場を複雑極まるものにしているのが登校地獄の呪いだ。エヴァは箱庭の器である麻帆良学園に閉じ込められ、ナギは行方をくらました。
 エヴァは本来が学園の外=人外の存在であり、ましてナギが外にいる以上、外部への志向性は強い。しかしここで重要なのは、エヴァにとってナギの側は「内側」だったという点である。エヴァは外に出たいのではなく、中に帰りたいのだ。
 そもそもが今までロクな人生を送ってきていないエヴァのこと、穏やかな学園生活は退屈でこそあれイヤなはずがないのだ。実際茶ァしばきつつじじいと碁を打つエヴァ様はけっこう楽しそうに見える。にもかかわらず、以前のエヴァはなぜあれほどまでに鬱屈していたのだろうか。
 それは、エヴァが麻帆良学園から疎外されていたからに他ならない。悪の魔法使いとしての己、吸血鬼として修羅の年輪を積み重ねた己、外部の存在である己を自覚するがゆえに学園に溶け込めずにいたエヴァが「内部性」を回復できたのは、いうまでもなくネギの功績である。これが、『ネギま!』の箱庭は学園ではなくネギなのだと主張する所以である。
 外敵を屠るためだけに蓄えられた力、外部性の象徴たる魔力を、丸ごとネギに受け入れられる師匠業にエヴァがハマってしまったのも当然といえる。

 がしかし、現状、エヴァにとってのネギがナギの代替品を超えないことも事実だろう。一方で他に寄る辺がないのもまた事実。代用品として確実に機能しているのも紛れもない事実だ。エヴァがナギに再会する前に、ネギのほうが箱庭を捨てたらエヴァはどうするのだろう。再び内部に受け入れられることの味を覚えた今、はじかれ者として生きていけるのだろうか。まさか皆の卒業後もネギと学校に居残るような特別扱いが許されるはずもない。
 エヴァがネギの成長を素直に認められないのは単なるツンデレじゃないよ。極めてシリアスな不安だと思う。

補足2:カードキャプターさくらとリリカルなのはの魔法少女空間

 前述の通り、魔法少女の存在する世界はある種の楽園である。しかし、魔法の根源を少女性に求めたために、楽園には賞味期限が付いてしまった。取り得る手段は時間の流れない世界か、期間限定の夢しかない。
 『カードキャプターさくら』は根本的な解決策を示した。箱庭を維持する力を魔法に求めなければいいのだ。『さくら』におけるマジックアイテムであるクロウカードは、さくらカードとしてさくらに取り込まれる。しかしそれすらも結局は同じカードを狩るだけで、単なるオモチャに過ぎない。全く象徴的な力は持っていず、本質的な問題は何も解決できない。(そういう点で劇場版はかなり異質かもしれない。)
 またクロウ・リードの真の力はさくらに継承されるが、希代の大魔術師の人生を歪めたその力すらさくらは平然と受け入れてしまう。それにはクロウの配慮も働いているのだが、何度も書いたように、そのように愛されることそのものがさくらの力だ。魔法の究極すら飲み込む愛、それが『さくら』の楽園を支えている。

 さくらの持つ愛の力は少女性とは関係ないのか? もちろんある。そうでなければ魔法少女モノの体裁を取る意味がない。さくらが皆に愛され、愛することができるのは、その純粋無垢な少女性に負うところが大きい。それが一番分かりやすい描き方だ。少なくとも初期はそうだった。撫子という天寿をまっとうできなかった大人の女性が存在することも無意味とは思えない。
 しかし、雪兎への失恋、恋のライバル(笑)だった小狼との恋、撫子との関係を含めた桃矢の葛藤などを描く過程で登場人物の感情を整理し、変化を続けステップアップしていく中でも変わらない愛のあり方を描き出した。それは愛し方の多様性を受け入れることに他ならない。そうした物語全体の構成によって、さくらを中心とする箱庭的世界観は強固に維持された。「魔法少女」の終わったあとも続く楽園だ。そう、「絶対だいじょうぶ!」なのだ。

 んで、『魔法少女リリカルなのは』の場合、これまたいつものように色眼鏡がかかってしまうんだが、とりあえず魔法は単純に攻撃魔法なんで、全くもって物語的に何かを成す力はない。ここで箱庭的魔法少女空間を支える論理は「相互理解と信頼」ってとこだろうか。だからまず箱庭のプロトタイプとして提示される高町家では9歳の少女が全幅の信頼を受けているわけだし、なのはが「わたしの話を聞いて!」と叫ぶのはまさにその信念の吐露に他ならない。拳で語り合ったなのはとフェイトが誰より強い絆を結ぶのは、互いの心も力も理解し信頼しているためだろう。

 しかし、そこには理解できない異物への愛はない。異なる気持ちを抱きあうさくらと知世がそれでも愛し合う論理がない。何も語らないクロウ・リードの愛を何も知らずに受けるさくらの存在としての度量がない。
 なんて、脳内で傑作認定してる『さくら』と引き比べるのはちと卑怯かもしれんが、そうやってプレシアを排除しつつ限りなく同質化を志向するかに見えるとこが個人的にスゲー気持ち悪くてダメっていい加減しつこいけど、どこがイヤなのか考えると好きな作品のどこが好きなのか分かりやすいんじゃよー。ていうか君たちそんな短いスカートで戦うなはしたないパンツ見えちゃうでしょ!! ごめんもっとやって! 主にフェイト!

2006/3/27 月曜日

Diary/2006-03-27

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ラブひなとネギまの箱庭の違い

 ネギま!はラブひなよりカードキャプターさくらかもしれない の補足。全体的に猫とネギま!と声優さん 3月26日へのレス。

 『ネギま!』も『ラブひな』も『カードキャプターさくら』も箱庭系には違いないと思う。ここで対置した『ラブひな』/『さくら』の対立点は、

  • ひなた荘に来て幸せになれた景太郎
  • 周囲を幸せに巻き込むさくら

という主人公の違いである。

 ネギは麻帆良学園に来たことによって成長の機会を得ているし、幸せにもなっているのだが、単純な話ネギは外でも女作れるよね、っていう。景太郎も終盤では外に女作れそうな雰囲気を出しているし、女子寮でウハウハというのを超えてキツネさんとか含めて皆に愛され必要とされるようになっているので、これは赤松健ワールドの段階的変化だと思う。
 終盤の景太郎がひなた荘に依存していないように、ネギは麻帆良学園に依存していない。麻帆良学園も壮大な箱庭装置には違いないが、『ネギま!』の箱庭はネギを中心とした結界だと考えたほうが近いように思う。だからネギはコタロー君と仲良くなれるわけだし、生徒たちはネギを通じて学校では得られなかった絆を深めることもできる。パクティオーというネギ中心のハーレムシステムが用意されていることにも注目すべき。(あるいは師匠たちによる梁山泊。参照:ケンイチハーレム漫画説

 とはいえ、ネギの展開する幸せフィールドの拠点が麻帆良学園であることは間違いない。だから『ネギま!』における箱庭とは麻帆良学園そのものではなく、象徴される何かであり、それがつまり「魔法先生」なんだろう。
 これは個人的印象では『リリカルなのは』のそれに極めて近い。『なのは』の箱庭とは「魔法少女」と名のつく何かであり、ともすればそこからアリサ・すずかが排除されることを俺は批判した。その点『ネギま!』においては「魔法先生」から誰も排除しないよう細心の注意が払われていて、それがひたすらに高純度な善意道徳で箱庭を作るなのはとは違う、ネギの豊穣なキャラクター性を生み出している。学園祭編亜子パートにおいて、実に巧緻な手際によってド脇役の亜子を「魔法先生」の力場に受け入れてみせたのがいい例だ。

 そんなわけで、作者本人の言と対立するようではあるけれど、『ネギま!』の箱庭の正体が麻帆良学園だと考えていると、主人公の自ら箱庭幻想を破壊する志向性と、そこから生まれる緊張感を理解しにくいのではないかと思う。

2006/3/26 日曜日

Diary/2006-03-26

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ネギまはラブひなよりカードキャプターさくらかもしれない

 『カードキャプターさくら』の面白さは決定的に主人公の木之本桜だと思うんだけど、それは本人の魅力がどうとかより彼女の持つ幸せフィールドが世界観の中心から作品を支えているのだー、みたいな話を『リリカルなのは』叩きに絡めて書いたことがある。

 ハーレムものの作品を表現するときに「箱庭的」という言葉が使われることがままあると思うんだけど、これはその理屈に近いんじゃないだろうか。誰か一人を絶対的中心に置いた世界観は閉じて安定する。
 当然『ラブひな』も景太郎を中心とした世界には違いないんだけど、アレの場合ひなた荘という物理的な結界があるからねえ。だからこそ「景太郎が(成瀬川らを残して)ひなた荘を出て行って、戻ってくる」という展開が可能になるわけで、景太郎の求心力はさほど強いものではなく、物語を破綻させずに引っ張る力は彼にはないように思われる。
 『魔法先生ネギま!』の場合、景太郎がひなた荘の管理人であるようにネギは3-Aの担任であり、教室という中心地が存在することはする。しかし、ネギとクラスの面々は、先生と生徒という関係でありながら、むしろ教室の外において関係を進展させるケースが多い。これはネギの持つ中学校教師/魔法使いという二面性に関係している。

 『さくら』においても、主人公のさくらには昼と夜で別の顔がある。昼には普通に小学校に通い、夜にはカードキャプターとして怪事件を追う。しかし、物語の終盤にはわかることだが、さくらは昼でも夜でも万人に愛されていて、全方向からの愛を受けて成長していく物語的方向性に差異はない。あんまりにもみんなに愛されているもんで、さくらは自身が世界の中心と化していて、物理的中心地すら存在しない。
 『ネギま!』においてはやや事情が異なる。ネギもまた中学校教師という昼の顔、魔法使いという夜の顔を持つが、(そうか、こいつ魔法少女だったのか)夜のネギには敵が多い。もちろん味方も多いのだが、打倒すべき壁として存在するキャラクターがあまりに多い。しかしそれゆえに、そこには葛藤と超克のドラマがあり、そこで生み出される物語がネギと生徒たちの関係をも動かすことになる。

 両者の違いを整理するなら、『さくら』の物語が究極さくらが愛されていることそのものであるのに対し、『ネギま!』においてはネギ自身が背負い突き進む道が物語となっている、ということだろうか。
 つまり、『さくら』には「みんなさくらが大好き さくらもみんなが大好き」という作品全体の維持のために絶対必要な真実を破綻させる要素が基本的に存在しないことになる。ゆえに、桃矢が兄としてさくらを愛していさえすれば、他の女と寝ようが男と寝ようが問題は顕在化しない。
 しかし、『ネギま!』においてはネギ自身に固有のドラマがあるため、極端な話、ハーレムが崩壊してもストーリーは作れるだろう。ネギは教室に依存していないわけだ。本編中で明日菜がしばしば覚える不安はまさに、ネギが自ら中心となって形成している幸せフィールドをほっぽって飛んでいってしまうことへの不安である。しかも、この世界にはナギというもう一つの中心核があり、その両方を知るエヴァなどの人物もいて、ネギ・スプリングフィールドだけが幸福の世界ではないことが示されてしまっている。
 そうした危険因子があるために、ネギの周りの女の子たちはあらん限りの愛情をネギにぶつけ、『ネギま!』世界の神が民を捨てないよう、縛り付けておく必要があるのだ。
 そういうわけで、ネギと無関係なところでのカップリングは、この作品においてはちと難しいと思う。

なのはハーレムアニメとしてのリリカルなのは

 以上のような観点から、『魔法少女リリカルなのは』のなのはは世界の中心として出来が悪いというようなことを以前書いた。
 なのはの結界力の弱さは世界設定にも現れていて、あの世界にはなのはが決定的に属せない異次元世界がある。
 もしなのはがさくらだったら、知り合いは皆友達+友達の友達は皆友達コンボによって外道かーちゃんプレシアとすら愛し合ってみせただろう。それがさくら的に正しい世界観であり、さくらの巨大な固有結界幸せフィールドの持つべき威力というもの。
 しかし、なのははプレシアと愛し合えず、プレシアを救えず、プレシアを幸せフィールドに引き込めなかった。俺はハッピーエンド至上主義者ではないんで、それ自体悪いことだとは思わないが、なのはにしろフェイトにしろ、プレシアの悲劇について葛藤し、そこに物語を見出しうるようには描かれていないと思う。それじゃあんま意味なくね?

 というふうに考えたのかどうか知らないが、続編である『魔法少女リリカルなのはA’s』においては、所詮元がサブキャラであるなのはに登場人物全員を虜にするほどの求心力はないことを前提した上でこの問題の解決を試みたように見える。
 要するに、敵キャラ全員を直接身内と接触させちまえばいいわけだ。この際、フェイトをネットワークに加えて結界を拡大する処置は必要だったといえるだろう(ほんとはなのはがピンチのときだけ颯爽と現れたほうがカッコいい気がするけど)。天涯孤独ゆえに自由な身の上のフェイトは、なのは・小学校・時空管理局の三者を結ぶリンクとして機能するかもしれない。序盤しか観てねっからわかんねっけど!
 でも、基本が裏社会の人間であるフェイトがアリサ・すずかと接触することで、無印で感じた、なのはの幸せ結界から弾かれるアリサ・すずかの構図は如実に緩和されているように感じた。ほら、俺はよく知らないけど、高町家の人って妖怪退治とかやるんでしょ? あれ、古流剣術? ともかく、わりと裏社会に引きこもりがちな素養はあるんと思うんだよね、なのはさん。
 ちなみに、『さくら』においては、知世ちゃんがさくらのトンデモ魔法にロクに興味を示さずにひたすらエロ魔女っ娘コスをカメコしてみたり、さくらの魔法的素養にライバル心を燃やしていたはずの小狼がさくらに骨抜きにされたりすることによって、「世界の裏を知る特別」といったようなものの臭みを巧妙に消している。本当によくできてる。これがなのはだと秘密の特訓をしてしまうんだなー。それはそれで一つのやり方ではあるけど。

 というか、そもそもフェイトとラブラブしてんのはハーレムアニメ的にアウトだよなあ。フェイトED後かい。

通りすがり - (2006年03月28日 01時54分08秒)

なのはは少女漫画ではなく(往年の)ジャンプ漫画ですよ。
ですから、ラスボスは倒すべき敵であり、中ボスは将来の味方ですw
ラスボスが救われるなんて展開はジャンプでは少数派かと?
似たような設定(と言うか、元々さくらのパクり)ですが、熱血漫画と
少女漫画を比較して、少女漫画的な要素で優劣付けられても……

さくらは戦闘シーンが燃えないから駄作とか言われたらどう思います?

もりやん - (2006年03月28日 02時23分15秒)

なのはをどういう文脈に位置づけるかというのは、生理的忌避感が影響してしまって俺にはとても難しいんですが、あれは少年漫画ではないと考えます。ジャンプ的な敵の強さのインフレ機構にフェイト&プレシアを組み込むのは無理だと思うんですね。
アニメ第一期のオチは「フェイトちゃんとお友達になれた」でしょう。「大魔女プレシアを打ち倒した」ではない。ジャンプ漫画に結び付けるよりは、「大ボス」クロウ・リードと和解するさくらに引っ掛けるほうが自然に感じます。
であれば、強敵と書いてともと読むフェイトの母親であり、また根っからの悪人でもないプレシアをなぜ「大ボス」と切り捨てられるのか。それは高町家の無邪気なほど強固な信頼関係と表裏であると思います。

どうしても救われない人間がいることは、物語的には欠点でもなんでもありません。しかし『リリカルなのは』は「身内」と「それ以外」の線引きが不用意すぎるように思われるんです。いやまあ戦闘シーンのテンポが悪くて嫌いとか色々個人的嗜好なアレはあるんですけど!

通りすがり - (2006年03月29日 03時22分42秒)

プレシアを切り捨てたとありますけど、なのは達が切り捨てたのではなく、彼女自身が現実を切り捨てたと考えるべきかと?
なのはの世界は「魔法」はあるけど万能ではありません。
奇跡なんて欠片もなく、辛い現実に直面した時は正面から受け止めて、乗り越えるしかありません。
それができなかったプレシアは最後まで現実から逃避したわけで、そんな彼女を救う術が無かったのも、あの世界の現実です。
もし、安っぽい奇跡が起こって、みんな仲良くハッピーエンドとかやられたら世界観ブチ壊しなだけかと?
こういうとこが少年漫画っぽいと思うわけです(るろ剣とか幽白っぽい感じ?)。
つか、意見が対立した時にガチバトルで白黒付けるって時点で、少年漫画というかジャンプ黄金パターン。

もりやん - (2006年03月29日 09時48分16秒)

切り捨てたというのは、なのはがというのもあるんですけど、作品全体としてということでもあります。目の前にいるフェイトを認められない許せないプレシアに対し、そんなプレシアを認められない許せないというところに簡単に落ち着きすぎるんですよね。

ていうか、それがドラマツルギーとして正しいことは分かるんですよ。ただ、異物に対して同質化しか選択肢を持たない了見の狭さを批判しているわけです。だからA’sのフェイトはほとんど普通の小学生みたいになっちゃってるわけでしょ。例えばフェイトが、母の贖罪のため、更なる悲劇を防ぐため、かつての仇敵・時空管理局に飼われ戦い続けるハードボイルド魔道士になったらなのははちゃんと友達やってやれるのか、そこに対する想像力の欠如がある。そういう範囲の狭い「みんないい人」センスが全体を貫いていて、それが結局プレシアの最期に分かりやすく象徴されてると思います。
まあ結局、俺がどうしても好きになれないっていう話なんですけどね。

通りすがり - (2006年03月30日 00時51分21秒)

>まあ結局、俺がどうしても好きになれないっていう話なんですけどね。
好き嫌いは誰にでもあると思いますし、それが悪いとは思いません。
ですが、嫌いだからとは言え、安易に酷評するのはどうかと思ったわけです。
とりあえず、これ以上の議論は平行線でしょうから、今回で失礼します。
お騒がせして申し訳ありませんでした。

もりやん - (2006年04月06日 13時57分06秒)

基本的に、ここがおかしい!という批判はしていないので、話がまとまらないのは致し方ありますまいな。どうしても嫌悪感が先に立って、冷静な分析ができず、ここがキライ!という話になってしまっているので。
俺の中できっちり決着を付けたい作品ではあるので、A’s全部観たらまたなんか書くと思います。

2006/3/24 金曜日

Diary/2006-03-24

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 帰ってキター。
 でもまたすぐいなくなる。

人口無能・無限世界のMMORPG

 面白げなのでBloglinesしている。今後を見守りたい。

 以下雑談。

 MMORPGの資源の無限性。「トッププレイヤー」が、比率としてはともかくも、絶対数として多すぎる感はあるげ。かも。よくわからん。
 効率の良い狩場を独占することはマナーの悪い行為とされる。が、ひたすらポリン叩いてるだけでも資源はいちおう増える。
 ここにおいて有限の資源とされているものは時間。時間はPKの存在しないMMORPGにおいて日常的に「奪い合われる」唯一の資源であり(もちっと具体的なモノを奪い合うにはGM側が限定イベント等の形で介入する必要があろう)、それゆえにRMTの対象とされる。そして、時間を投資することで得られるのはプレイヤー間の比較優位であり、比較優位の競争が全体として資源インフレを引き起こす、ちゅうこと?

 Sword Art Onlineが設定的にややヌルいと感じたのは、結局のとこアインクラッドも資源無限の世界に過ぎないところなんだよね。ましてゲームプレイ時間と引き換えられるリアル生活時間も存在しないわけで、PKが可能なわりにプレイヤー間の闘争状態が「ゲームシステム」的に存在していないことになる。ゆえに、「苦労もせずに掻っ攫った膨大なリソース」(外伝1.3)との表現にやや迫真性が欠けるのコト。ある意味じゃーSAOってALOやGGOよりヌルゲーだ。
 ま、それでも殺し合うのが人間でありーだし、戦わなければ生き残れないだとテーマ違ってきちゃうだろうけど。詳しくは小説を嫁。

 MMORPGで全員が金持ちになれちゃうのが何かの観点からマズいのは確かだろうけど、労働-蓄積はMMORPGの重要な要素だと俺は思うし、万人の万人に対する競争状態を作りたかったら既存のMMORPGを近づけるよりTRPGから発展させたほうが楽な気がする。そしてそれは社会じゃなくてただのゲームな気がする。うむ、このへんちゃんと考えずに書くとすごい方向に口走りそうだからやめよう。

 結局何が言いたいかというと、ファンタズマゴリアオンラインとかどーすかXUSEさん、ということ。そして戦場でアセリアに遭遇。ラキオスの青い牙だ! 逃げろー! バカ逃げんな戦え! んで結局斬殺される。どきどき。あと、エトランジェとかマジ勘弁しろな感じを味わってみたくもある。スピリット20体くらいで一斉にかかってみたらオルファが出てきて一網打尽にされるとか。単なる殺されゲーじゃねえか。楽しそうだけど。んで、月に発生するスピリットが何体まで、とか。エトランジェぬっ殺すと歴史が変わったり…ってそりゃ大絢爛舞踏祭だ。うーん、なんとかなんないかなこれ。プレイしたいなあ。アセリアにぬっ殺されたい。
 んー、元々はファンタズマゴリア=有限世界っていうただそれだけだったんだけど……。

キャラクターの死亡を前提するゲーム

 要するに、MMORPGの問題点はリセットを許容してない点なのかもしれない。と思いついた。
 MMORPGのいくつかの特質。

  • 時間こそが資源である
  • PCはプレイヤーの代行である
  • PCにゲームシステム上の資源は蓄積される

 つまり、蓄積した資源を放棄することはプレイヤーの時間資源に直接のダメージとなる。
 プレイヤー同士の交流を目的の一つとするオンラインゲームにおいてはPCはプレイヤーの投影となる。ゆえに、基本的に同一性を保ったキャラクターが期待されると考えられる。とすれば、PCに資源を蓄積するゲームデザインは合理的となる。
 トライアンドエラーは失敗によるリスクが無視できる程度に小さいから可能なわけで、プレイヤー間の比較優位が重要なゲームの動機であり(ふつうのRPGでは攻略において他のプレイヤーに先んじることにあまり意味はない)、時間が最重要のリソースとなるMMORPGにおいてそれは合理的でない。

 現実にはリセットボタンはない、なんていうけど、逆に言えばゲームが簡単にリセットできることは重要だろう。リセットが容易なPCを持つ多人数ゲームを考えるなら、上記のMMORPGの特質を逆転させることが簡単な解になる。すなわち

  • 時間は重要な資源ではない
  • プレイヤーはキャラクターを演じる
  • 単一のPCにゲームシステム上の資源が蓄積されることは基本的にない

 このようなゲームデザインであれば、ゲームをリセットすることは容易になる。PCの死亡という形での完全なゲームオーバーに対するプレイヤーのリスクも低い。そしてこれは原理的なロールプレイングゲーム、具体的にはTRPGに極めて近いと思われる。

 もうここまで書いてオンラインセッションでもやってろハゲって結論出そうだけど、っていうかこれ『三国志大戦』? ノリは近いよなあ。敗北には300円のリスク、でも確実にカード1枚の見返り。ワンプレイなんぼの料金システムの上に成り立つ時間リソースの重要性低下。ただ、プレイヤー同士のオンラインでの交流を眼目に置いたゲームではない、と。

 やりやすいネタはやっぱ戦争に参加、っぽい。んでわりとすぐ死ぬけど、補充もされる感じで。というのが、『永遠のアセリア』におけるスピリットの戦争にかなり合致してるんだよねえ。誰か作ってくんねえかなファンタズマゴリアオンライン。チャキチャキ転送されてガスガス死にてェー。

死の一回性

 というのが、単に難易度高いRPGなんかと違うのは、その死に方はその時の1回しかないっつーとこ。1回ごとに特別な戦闘、特別な死亡。キャラクターをとっかえひっかえするのはベタRPGでは『俺の屍を越えてゆけ』があった。あのゲームだとキャラクターが最終目的を達せないうちに(討ち死にをリセット回避しても時間切れで)死にまくるけど、その1人1人が別人であるがゆえに緊張感を途切れさせる恐れが少ない。
 もちろん、予定された死までモチベーションを切らさない仕掛けもある。俺屍では、生きてる間に頑張って一族に貢献すれば子孫が強くなる。ていうかそうしないとゲームが進まない。まあ、単にあっさり死ぬとあんまりゲームそのものを楽しめないってだけでもよさげな気がするけど。

 話が逸れた。要するに、普通のRPGみたいに死亡→巻き戻しにならない死に方できると面白いなあという話。んでもって、その一回性を担保するのに多人数プレイヤーの作り出すカオスがあるといいので、MMOで死にまくりなゲームがやりてえなあという話でした。

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