ネタバレ注意……必要かなあ。
エロゲーの主人公はヒロインのために戦う。
というのは、当然チャンバラやドンパチを意味するのではない。なにがしかの障害を乗り越えることを指す。
障害を乗り越えるとは、ゲームシステム上においてはフラグを立てることに他ならず、それはヒロインの物語における「変数」を動かすことを意味する。
つまり、主人公がヒロインにコミットする。
エロゲーのシナリオにおいて、主人公がヒロインにコミットすることは多いが、ヒロインが主人公にコミットすることは少ない。
コミットするとは、好意を向けることとは異なる。相手固有の物語の変数に対して影響を与えることである。エロゲーの主人公の多くは、固有の物語をそもそも持たない。
陵辱ゲームの主人公は、固有の物語を持っている場合が多いようである。簡単に言って、各ヒロインのルートによって、辿る運命が変化することが少ないから、そのように解釈できる。
陵辱ゲームの主人公は、自らの物語にヒロインを巻き込む。描写としてのエロさとは別に、物語としてのエロさが、そんなところにあるのかもしれない。
しかしながら、ヒロインの物語に巻き込まれることにもまた、受動的なエロスがある。両面を満たそうとするのが現在の流れだと俺は考えている。
『バルバロイ』に不満があるのはそういう面においてで、自らの身勝手な復讐にヒロインを巻き込むのみならず、アスカもまた詩織の物語に巻き込まれるべきだった、ということ。
Fateセイバールートの名シーンのいくつかが、上記を踏まえて説明できると思う。
例えば、ライダー戦におけるセイバー召喚シーン。セイバーを使役する士郎の立場からすれば、セイバーを戦わせることは、セイバーの物語に自分が付き合うのみならず、自らの道にセイバーを付き合わせることをも意味する。雑な言い方をすれば、意味合いとしてはセイバー純愛ルートとセイバー陵辱ルートのフラグを同時に立てたようなことになる。すごいアクロバットだ。
そして実際、セイバールートにおいてはセイバーと士郎の物語が同時並行的に進行する。夢を通じて両者の過去は交雑していき[1]、ギルガメッシュ戦の後、ついに二人の道の交点、そこから伸びる一本の道が見出されることになる。正直、感傷的なわりにいまいち意味のわからんシーンだと思っていたのだが、言峰教会での士郎のトラウマほじくりを経て、二人の物語の相克が解消され、真に同じ道を歩み始めるシーンだと思うと納得がいく。
2回あるエロシーンの意味合いの違いも分かる。2回目のエロシーンは恋物語の結末であり、エロゲーにおいてはクリア報酬であるご褒美エッチ的なニュアンスがある。対して1回目のエロシーンは、抜きゲー的な、物語・ゲームシステム上の意味の薄いシーンである。(魔力補給は正義か悪か?/魔力補給は正義か悪か?(2))
つまり、1回目は士郎の物語上の、2回目はセイバーの物語上のエロシーンだという解釈になる。まさか士郎がセイバーを陵辱するわけにもいかないので、そう考えると合理的なような気がする。(聖女陵辱は「士郎から引き離されたセイバー」というより「セイバーを奪われた士郎」の軸上に存在するシーンだろう。)
話を少々戻す。主人公とヒロインの相互コミットメントという観点で見ると、士郎がセイバーを救ったようには、セイバーは士郎を救っていないようである。まあなんせセイバーは成仏しそこなった幽霊なので、あんま士郎の生き方に影響を与えていない。セイバーの道は途切れ、士郎の道は……あるいはアーチャーに続くのかもしれない。
凛は、士郎をアーチャーに向かわせないようにする。凛ルートで攻略されているのは、実は凛ではない。(だから魔力補給エッチしかない。)士郎が攻略してるのは誰かというと、アーチャーである。凛ルートがほとんどアーチャールートであるのは明白だが、凛にしてみれば士郎ルートだということになる。で、士郎=アーチャーなので、ややこしい。
桜ルートは分かりやすい。士郎は桜を(一応)救い、桜は士郎を捻じ曲げた。あくまで士郎が主人公であり、桜の意思が介在しないため、一見普通のエロゲーのように見えるかもしれないが、ここでは双方向的な、主人公とヒロインの対立と相互コミットメントが描かれている。(そして、主人公の物語を描く上ではヒロインにも選択肢を与えるべきだということに気付いた人が『あやかしびと』を作っている。(『Fate/stay night』はセカイ系か))
Fate以前とFate以後を分ける決定的な要素は、このヒロインからのコミットメントであろう。
- [1]『Kanon』などを見れば、二人の夢の交雑は、士郎がセイバールートを、セイバーが士郎ルートを辿ろうとする過程だと解釈できそう。というか、セイバーにとって聖杯戦争自体がまさに「夢の中」の出来事であるわけだけど。「ルート分岐後に思い出が生成されている説」も面白い。
相方向性と相互関係の時代というのを書いたが、当然博物士 - 美少女ゲームのパラダイムは4年で交代する〔仮説〕は踏まえている。
いくらか見解の相違はあるが、頷ける分析だ。
して。
友人の栖哩さんから、『PRINCESS WALTZ』の話を聞いた。
以下は聞いた話からの印象だけで書く。
『Fate/stay night』と『PRINCESS WALTZ』は、対照的な形で主人公の復権を果たしているような気がした。
何が対照的か。Fateはキモさの極地であり、プリワルは爽やかさの極地であろう。
それは、具体的には、戦うメインヒロインであるセイバーとクリスへの対応の違いに表れているようである。
士郎はセイバーを傷付けまいとし、新はクリスと共に戦おうとする(合体もする)。
Fateでは女の子はエロスだけど、プリワルでは女の子はエロスではないのだろう。
多くのエロゲーは、ヒロインを選択することによって物語が分岐する構造を持つ。そして、それぞれの物語は選択されたヒロインのものとなる。全ての分岐する物語がそうであるから、主人公は自らの物語を持たない存在となる。これが、いわゆるエロゲー的無個性な主人公である。
自らの物語を持たない主人公が何を目的とするかというと、ヒロインを救ったり、幸せにしたり、モノにしたりすることとなる。その結果がどんな事象として描かれるかというと、セックスである。全てのエロゲー主人公が、ヒロインとあんなことやこんなことをするために行動するわけではないが、少なくとも、「ゲームクリア報酬」がそのようなものである以上、プレイヤーの意識もまたそのようなものになる。
こうして、主人公はエロスに規定される。
ヒロインのエロスに拮抗しうる物語を主人公に持たせることが、初期の「主人公の復権」だった。『斬魔大聖デモンベイン』の主人公が、ヒロインに伍する大きな運命を背負った人物として描かれたのはそれがためであり、両者を並立して描くことが「萌えと燃えの融合」だったのだ。
Fateの主人公である衛宮士郎は、自らも重い宿命とトラウマを背負った人物として描写されている。そして、士郎自身の物語が、各ヒロインの物語と併走し、あるいは巻き込み、最後には潰し合うことになる。
時にヒロインの意思より自分の主義を押し通そうとするのが士郎のエゴであり、そのように主人公とヒロインを対立的な存在として描いていることがFateから溢れ出るキモさの原因であろう。通常のエロゲーの文脈からすれば、士郎のエゴは異物でしかないからである。
しかし、「怪物」と称される士郎の異様さを以てしなければ、確かに存在するエロスを相対化することは難しい。
エロスを相対化した上でその侵略を受け入れた桜ルートは、そういう視点から見ればなかなかにポリティカル・コレクトであり、TYPE-MOONの勉強の成果が見えるようではある。
しかるに、プリワルのアプローチは、エロスを相対化するのではなく無効化することだったようである。
プリワルのシナリオは一本道でなければならなかった。セックスしたヒロインを助けなければならないとなると、自らの物語を持たない新は容易にヒロインの物語に飲み込まれてしまうだろう。
他のプリンセスとエッチをしても肩入れはせず、クリスと体の関係を持ちつつも友情を以てつきあうことで、基本的にクリスの物語に乗りつつも、新はヒロインからの自主性を得ているのではないだろうか。
同時に、これは「あるヒロインを助けるには他のヒロインを見捨てなければならない」問題への解法ともなっている。もはやエッチできることはそのままそのヒロインに介入できるということを意味せず、新はクリスへの(極めて健全な)好意に基づいて彼女に肩入れするのみとなる。ぶっちゃけていえば、彼は本質的に女の子にキョーミがないのだろう。
そんな子供っぽい奴をあえてエロゲーの主人公にする意味があるのかというと、あえてするから意味があるのである。ヤることはヤるがそこに引きずられず、あえてエロゲーで友情物語をやることに気持ちよさがあるのだろう。引きずられないだけならランスでもいいじゃん、という向きもあるかもしれないが、ランスは基本的に恋のできない男であろう。女の子と仲良くしたいという需要はあくまで強いと見るべきである。
ちなみに、男女で合体というと、『ウルトラマンA』とか『VANDREAD』、最近では『創世のアクエリオン』あたりがある。これらはいずれも、対立する異質な性の合一をモチーフとしており、特にヴァンドレッドの合体はまんまセックスのメタファになっている。
しかし、プリワルの合体にはそのような含みはなさそうである。どちらかといえば『ドラゴンボール』のフュージョンのほうが近いかもしれない。(プリーティアや魔法少女アイは違う気がする。)これは一つの意思を持つことの表現であって、クリスと新は同質のキャラクターであると見るべきだろう。キャラまるかぶりの主人公とヒロインというとやはり『プリンセスうぃっちぃず』が連想される。プリっちは同質化を激しく批判する作品である。男女ボーイズラブであるプリワルと比較してみるのも面白そうだ。
『謎の村雨くん』が面白いことを説明する理屈を思いついたような気がしたのだが、W杯を見てる間に見事忘却した。
ライトノベルの感想を日記からサルベージしてみました。Lightnovelに一覧。
これもやってました。シナリオとCG以外はクソだけど面白かった。
以前畏友Kくんが『凌辱看護婦~地獄責め~』をスポ根と評していたのが少し印象に残っていたんだけれども、和姦調教ということで、これにもそんなニュアンスはある。
そう思ってみると、サブヒロイン遥の理不尽な天才がなかなか魅力的に見えてきたりもする。あまりに順応し過ぎるのも調教ものとしては味気なくなりがちなんだけど、非陵辱を前提にしてみると面白いキャラなんだよなあ。全く萌えは感じないけど。
どこまでも仮面ライダーリスペクトな作品でしたな。というより、ライダーだと思ってないと全然面白くない。
ライダーとエロゲーを繋ぐ要素がなんだったかというと、「原罪」。そこだけ抑えてれば読み取れるんじゃないだろうか。
しっかしまあ、見事に読み違えたなあ。
ロスチャはどこまでもライダーに忠実で、真摯だった。願望のために原則を捻じ曲げるようなことはしなかった。まさにそれが不満点でもあるんだけども。
2003年から2004年にかけては、エロゲーに大きなパラダイムシフトが起こったように思う。
それは一言で表せば「ポスト葉鍵時代の終焉」であって、具体的には『Fate/stay night』と『CLANAD』が区切りだったと。
で、現状を読み解くキーワードが「双方向性」と「相互関係」。
前者は主人公とヒロインの関係を指し、後者はヒロイン同士の関係を指す。
双方向性を持つ作品の一例が『シンシア~Sincerely to you~』だと思う。『シンシア』は「原罪の双方向性」を持つ。主人公がヒロインに対して原罪を持つと同時に、ヒロインもまた主人公に大して原罪を背負う。ハッピーエンドにはヒロインの原罪と主人公のトラウマの解消もまた必要とされる。
そのへん、ToHeart2 X-RATED:姫百合姉妹とちょっと絡むところだ。
『ロストチャイルド』が仮面ライダーにレイリアという存在を導入する必要があり、またそうすることができたのも恐らくはその新たなパラダイムによる。原罪を背負うのは主人公だけではない、そこを俺は読みきれなかった。十字架が自分ひとりのものではないのなら、投げ出すことなどできはしない。一心同体のパートナーがいるからこそ、自分のためだけに生きられない。そこを誤解していた。見誤った。
で、そのどこへともなく消え去るときにおにゃのこ連れてきたいってのが、ロスチャのコンセプトじゃねーかと、こー僕は思ってるわけですよぶっちゃけ。そのために実に徹底的な仕込みがなされています。命を助けられる出会い。化け物と化す肉体。契約(バインド)。恐らくは守らなければならない、逃亡を余儀なくされるであろう少女の秘密。なんかもう、「駆け落ち駆け落ち駆け落ち駆け落ち駆け落ち」とゆー囁きが聞こえてくるようです。その上、わざわざ身軽な身の上(秋子さんばりに了承しそうな母上だものなあ)にした上で由良というイカリを用意しておくあたりがニクいねえ。狙っているとしか思えません。
だがだからこそ、だからこそこれをやって欲しかったんだよ! それやるともうライダーじゃなくなっちゃうんだけどさあ!
いや、あるいはこれこそがヒロインの意思を問うことができぬエロゲーの限界か……? 否! 否! デモンベインはちゃんとやったじゃねーか! ああもう、幸せになれよバカヤロー!(錯乱気味)