きゃっと・ふぃすと

2006/7/26 水曜日

Diary/2006-07-26

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調教ゲーの美しさ

 補記:ゲーム性とインタラクティビティで、調教ゲーを取り上げるのをすっかり忘れていた。仕事中に気がついてうあんっとなった。

 調教ゲーの美しさとは、インタラクティビティとゲーム性の調和に他ならない。
 調教ゲーのゲームシステムは、一般ゲームでいう育成ゲームを基本的に踏襲する。ステータスを操作することで、キャラクターの変化と、最終的な完成形の出来栄えを楽しむものである。
 「フラグを立てる」ことによって、ルートがぱっくりと分岐するノベルゲームと異なり、調教ゲーにおいてはキャラクターとシナリオの大変動はなく、それらは徐々に徐々に変化してゆく。ゲームの進行が漸進的なものであることで、プレイヤーがインプットを行う機会は多くなり、アクションに対する多様なリアクション、育成(調教)に対する多様な成長(堕落)段階が提示される。この際、プレイヤーの取りうるアクション、つまりインプットの種類がそれほど多くなくてもよいことに留意すべきだ。むしろ多様なアウトプットこそが鍵となる。『ワンダープロジェクトJ』がいい例である。こうして、シンプルなシステムの上にも高いインタラクティビティを成立させることが可能になる。
 そして、いかなる完成形を目指すのかがゲーム性に相当する要素になる。これがインタラクティブな要素と滑らかに繋がっていることはいうまでもない。リアクションを楽しむうちにキャラクターが意外な成長を遂げるのも、育成ゲームの楽しみの一つである。ゲームの進行が漸進的であることによって、一つ一つのアクションが持つ意味は希釈され、完成形へと至る道は曖昧模糊としたものになる。成功の要因も、失敗の原因も、一つではないからだ。これによってインタラクティブな楽しみを提供する入力・出力行為の総体が攻略の対象となる。ミクロなインタラクティビティが、スムーズにマクロなゲーム性へ連鎖するのである。

 そして、調教ゲーにあって育成ゲーにない、極めて重要な要素が一つ存在する。すなわちエロである。俺が見るに、いつものごとくあんまりプレイしないで言うのだが、多くの育成ゲーの失敗は、ミクロ要素とマクロ要素が、システム上はともかく、プレイヤーの感情の上でうまく接合しない点にある。ダビスタなんか見てて思うのだが、どこかに目指すべき到達点があるようには見えない。ダービー馬を生み出すというゲームの大元の目的に対して、果たしてどれだけのプレイヤーが真剣になっているのだろうか。なっているのかなあ。
 ところが、調教ゲーにおいてはエロという大目的が両者を完全に統合する。調教の過程でヒロインを踏んで縛って叩いて蹴ってじらして吊してするのも、調教し尽くして目からハイライトを消すのも、つまりはエロのためである。ここに調教ゲーの美しさがある。ゲームとしての美しさが。そしてそれがまたポルノとしての質の高さに直結するのがさらに美しい。
 欠点は、ゲームメディア作品として濃すぎるがゆえに果てしなくめんどいということであろう。


 考えてみたのだが、『Sexyビーチ』で、揉むほどに乳がでかくなり、しゃぶるほどに乳首がでかくなったら面白いような気がする。

2006/7/25 火曜日

Diary/2006-07-25

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抜きゲーとエロシーンの役割

 エロゲーがコンシューマ移植される際にしばしば取りざたされるのが、エロシーンを抜くだけでほとんど問題なく移植できるような作品の存在である。古くは『輝く季節へ』としてPSへ移植された『ONE』に始まるこの手のエロ薄ゲームは、「そのエロシーン要らないじゃん」という文脈で批判されてきた。つまりは、エロを期待されない作品を18禁で販売することの意義である。
 一方で、いわゆる抜きゲーと呼ばれるジャンルの作品はまさに「抜き」への期待に基づいて制作されている。あるいは、ドロドロのグチョグチョのエロエロというほどではなくても、ゲーム性や物語よりもエロシーンに重きを置いた作品もある。(カラフルピュアガールのレビューで「やるゲー」に分類されるような。)当然この手の作品はエロ抜きのコンシューマ移植をすることが難しく、これぞエロゲー、として賞賛されることも多いわけだ。

 何の問題もなくコンシューマ移植されてしまうエロゲーに対しては、抜けないエロゲーに対する保守主義的批判ともあいまって、エロシーンの必要性、あるいは蓋然性の視点から厳しい評価を下されることが少なくなかった。このような評価基準は、相当のエロゲーマーに採用されているであろう。なんとなれば、エロゲーはただのゲームではなく、エロゲームであるのだから。
 そう。逆に言えば、エロゲーはただのポルノグラフィではなく、ゲームなのである。

 ポルノグラフィとしての観点からは、プレイヤーにゲームがクリアされたことを説明するためだけに存在するようなエロシーン、いわゆるご褒美エッチは否定される。同様に、ゲームとしての観点からは、プレイヤーにチンコをしごかせるためだけに存在するようなエロシーンは否定される。
 エンディングに挿入されるエロシーンがいまいち抜けない抜きゲーはよくあるが、これだってエロシーンのエロゲーにおける役割を正しく果たしているとはいえないのである。

 エロゲーのゲーム性とは、概ね「ヒロインを攻略する」ということに集約される。
 昔の俺はヒロインが全然萌えない感じのエロゲー(BISHOPのとか)を「AVゲー」と呼んで忌み嫌ったものだが、ひっかかりの根本は本質的なゲーム性の薄さにあったのだろう。ヒロインとセックスすることとヒロインを攻略することは異なる。

補記:ゲーム性とインタラクティビティ

 アカデミックなコンピュータゲーム論に踏み込むと大変なのでおおざっぱに定義するが、インタラクティビティとは双方向性のことであり、ゲーム性とは攻略性のことである。インタラクティビティが高いとは入力に対して多様な出力が返ることであり、ゲーム性が高いとはゲームの攻略に対して多様な障害が用意されていることといっていいのではないだろうか。

 話をエロゲーに適用してみよう。例えば、いわゆる「おさわりエッチ」に類するシステムはインタラクティブである。ライアーソフトやアリスソフトなど、狭義の「ゲーム」に拘りを見せるメーカーの作品もその傾向が強い。膨大な選択肢に対して膨大な分岐を返してくるTYPE-MOON作品もインタラクティビティが高いといえるかもしれない。
 逆に、推理系の作品は総じて高いゲーム性を持つといえるだろう。また、狭義の「ゲーム」の成績がヒロイン攻略に直結する『こみっくパーティー』なども攻略性は高い。『ToHeart2』も近年では珍しく、フラグ立てがわりと複雑である。

 このように実際の例を考えてみればわかると思うんだけれども、インタラクティビティは比較的ミクロなレベルの要素であり、ゲーム性はマクロなレベルで語られるべき問題である。俺はより「ゲーム」の本質に近いのはインタラクティビティではなくゲーム性だと考えている。ある作品がゲームとして成立しているかどうかを考えるには、ゲーム性の方を問題にすべきということだ。
 つまり、インタラクティビティとは、ゲームの領域においてポルノをやることの利点であり(イリュージョン作品など)、ゲーム性とは、ポルノの領域におけるゲーム(未プレイだがLost Script『蝿声の王』などは適切な例だろう)の武器だといえる。

2006/7/24 月曜日

Diary/2006-07-24

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エロゲーにおけるラブコメ

 ところでこの動画を見てくれ。こいつをどう思う?

 言おう。『スクールデイズ』とは、ラブコメなのだ。エロゲーにおいて極めて稀有なラブコメ作品なのだ。
 かの有名なシーンが「オチ」であることを理解しなければ、スクデイは楽しめない。俺がせっちゃんに殊更注目するのは、登場人物が全員揃ってボケ倒す中でせっちゃんが唯一のツッコミだからだ。ゆえに、プレイヤーの視点に最も近いキャラクターなのだ。
 で、せっちゃんまでがボケに回ると、ナンセンスギャグになる。ひたすらにボケ倒すしかなくなるのだ。

2006/7/19 水曜日

Diary/2006-07-19

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エロゲー「主人公」一覧

(この記事はまだ書きかけですの)

 いくつかのエロゲーについて、

  • 物語の主人公
  • 物語の視点人物(語り手)
  • ゲームのプレイヤーキャラクター

を一覧表にしてみた。明確に一人に絞り込めない場合は主に担当するキャラクターとした。

タイトル 主人公 視点人物 PC
CROSS†CHANNEL 黒須太一 黒須太一 黒須太一
アトラク=ナクア 比良坂初音 比良坂初音 比良坂初音
陵辱ファミレス 神崎紗耶香 神崎紗耶香 黒木慎一
汚された夏 仲根美帆 仲根美帆 仲根美帆
Natural Another One 湖川水緒 風早薫(変更可) 風早薫(変更可)
Natural Another One 2 風早草平 風早草平 風早草平
Temptation 神明悠 神明悠/桐原舞奈(Hシーン) 神明悠
Temptaition2 阿形誠 阿形誠 阿形誠
こんなアタシでも・・・ アツノリ アツノリ アツノリ
真冬外伝 東雲真冬 東雲真冬 東雲真冬
愛慾のエプロン 五十嵐愛・嘉納久美子 五十嵐愛・嘉納久美子 (なし)
巫女~みにょっ!~ 生田政和 生田政和 真納水那由華

2006/7/18 火曜日

Diary/2006-07-18

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主人公の心情

 ヒロイン選択型のエロゲーにおいて、主人公があるヒロインに抱く好意は、プレイの結果でしかない。
 そのように操作したのだから、当然そうなる。それでは感動することはできない。

 主人公からヒロインへの好意にカタルシスを得るには、主人公をプレイヤーが操作しているという事実が最大の障壁となる。プレイヤーキャラクター(PC)であることが問題なのである。
 逆に言えば、物語の主役であることや、視点人物であることや、絵や声がないことは、主人公キャラクターへの感情移入を妨げる要因とはならない。

 「主人公」についての思考を整理するため、『陵辱ファミレス 調教メニュー』について考察する。
 この作品は三人称視点で描かれているが、主たる視点人物はメインヒロイン・紗耶香である。また、物語の主人公は、紗耶香だと考えるのが適切であろう。
 問題はPCである。本作は基本的に調教メニューを選択することによってゲームが進行する。選択肢を選んでいるPCは、ED直前の選択肢を除き存在自体が自明でないが、黒木であるとはいえるだろう。また、物語のレベルにおいて、「紗耶香をエッチな女の子にしたい」というプレイヤーの欲望に最も同調しているキャラクターも黒木である。
 つまり、PCと主人公が別個に存在しているのである。PC黒木によって陵辱調教モノとしての――ヒロインを能動的に犯すゲーム性を、主人公紗耶香によってヒロインへの明確な感情移入を、それぞれ可能にしている。
 『汚された夏』がエロゲーとして『陵辱ファミレス』に劣るのは、PCをヒロインに設定してしまっている点だといえようか。いわば汚夏はヒロインの自滅の物語なのである。それはそれでエロいが。

  • 物語の主人公
  • 物語の視点人物(語り手)
  • ゲームのプレイヤーキャラクター

 これらは全て別個の概念であることに留意せねばならない。

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