きゃっと・ふぃすと

2006/8/30 水曜日

Diary/2006-08-30

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3Dエロゲーの可能性/「獲得」「選択」

 君望との比較で御三家(エルフ・アリス・F&C)時代以前の作品を持ち出してきてはいけない理由を説明しようとしてるうちに思いついたのだが、3Dゲーの可能性はエロシーンとそれ以外を同じフォーマットの上に作れることにあるんじゃないかな。
 と、いきなり結論から始めるとよくないので、最初から話そう。

獲得と選択

 俺は2002年からのエロゲーマーなので、エロゲーの黎明期には詳しくない。が、あえて無知を晒して言うなら、エロゲーはポルノから始まったはずだと思う。以下、似たようなことはエロゲの欲望史(超未完)で書いたけど、まあもっかい書く。
 ここで「ポルノ」という言葉が想定しているのは、「女の子の裸を見ることがモチベーションのゲーム作品」だ。女の子の裸を見ることがモチベーションなので、過程がストレスであっても構わない。プレイヤーは女の子の裸を見るために必死で障害を突破しようとする。「難しい」エロゲーが作りやすかった時代だ。
 エロゲーの登場によって、エロゲーマーたちは二次元の女の子の裸を見ることができるようになった。彼らが次に望んだのは、「もっとかわいい女の子の裸が見たい」だったのだと俺は思う。幸いというべきか、当時はハードの性能限界が絵描きの性能限界より遥かに低く、従ってハードの性能が上昇するに従って女の子はどんどんかわいくなっていった。さらに、メディアに収納できるデータ容量限界も非常に低かったため、ボイスを収録するといった伸び代がまだまだあったのだ。
 ハードの性能限界が絵描きの性能限界に近づいてきたことが認識され始めたのは、256色表示が可能になったころだろうと俺は想像する。Windows95が普及し始めるころだ。また、現在にも通じる一流エロゲンガーたちの登場によって、絵描き自身の性能も限界に近付いていたはずだ。
 「よりかわいい女の子」の追求路線が伸び悩みを見せ始めたことで、性能限界に近付いた極大的にかわいい女の子に「何をするか」の追求が始まるわけだが、それはいったんおいておく。この、御三家が台頭するくらいまでの時期は、エロゲ史において「獲得すること」が重視された時代と位置付けられると考える。獲得できること、ご褒美、戦利品、功利主義。同時攻略と脱衣の価値観。獲得できる快楽の増大。

 ここからは、「選択の時代」だ。
 Windowsフルカラーで描かれた女の子に何をするか。あるいは、女の子と一緒に何をするか。陵辱ゲーと泣きゲーはいずれもその回答だ。増大した快楽に慣らされたプレイヤーは、もはやかわいい女の子の裸が見られるだけでは満足しない。どんなセックスを、どんな物語を、どんな女の子を楽しむか。追求が始まる。極端に過ぎる選択肢が許容される。考慮しうる選択肢として、スカトロ、SM、調教、陵辱、ロリ・血縁・障害の女の子。あるいは男の子。恋愛と泣きと萌えの価値観。自由主義。取捨しうる選択肢の増大。
 「選択すること」が重視される。選択の自由がモチベーションとなる。よりどりみどりが前提になる。選択の自由度、あるいは選択可能性。快楽の最大化は必須の要件ではなくなるが、選択可能性を担保するために少なくとも女の子がかわいいことが――萌えることが要請される。そして、過大なストレスは受け入れられない。「難しい」ゲームが作りにくい時代。
 重要なのは、「選択の自由」がもはや、一つの作品に備えられるべき最低限の要素とみなされていることだ。つまり「ピンもの」ではヒットは見込みにくいということになる。基本的には一つの作品に対して複数の、方向性の異なるヒロイン。もしくは、多様なプレイ。ヒロインがほぼ一人の作品がコスプレ・フェチネタに走りがちになるのはそのためだ。アリステイルしかり憂ちゃんしかり。

 話を戻そう。わかりやすく説明してみよう:『君が望む永遠』とはどういう作品なのかで、君望からToHeart以前に遡らないのは、俺が知らないせいももちろんあるけど、なにより時代が違うからだ。パラダイムが違う。
 ToHeartは「選択」の時代、その初期の作品だ。作品の土台、根底から、数あるものの中の一つを選び取るシステムが組み込まれている。逆算すれば「選ばれなかったことによって消滅するマルチ」が導き出される世界観で「仲良し空間」の特異性は立ち現れる。ToHeartのヒロインたちは全員が高度に独立していて、それなのにあの4人だけが一つの空間にくくられてるのがオカシイ。君望の世界では、仲良し4人組がツルんだり破局したりしてるのは全然関係ないところで天川さんが死にかけたりしてる。これがToHeart的なんだ。

選択とフォーマット

 さて。ようやく3Dにこじつけた話に入れる。

 一つ。「選択」の時代では選択可能性が最大のモチベーションである。そして、選択可能性を担保するには、フォーマットが共通であるほうがよい。Mac専用のソフトウェアはWindowsユーザにとって選びうる選択肢ではない。目指してもらうのではなく、選択してもらうのであれば、最も普及したフォーマットにのっとって製作するほうが、合理的である。

 二つ。「獲得」の時代では、「何を獲得できるか」がもっとも重要なことであり、その過程は重視されない。脈絡のない脱衣麻雀でもなんでもよろしい。最後に裸が拝めればよい。
 しかし、現在、「選択」の時代では、「何を獲得できるか」は重視されない。過程のほうが重要になる。課程が重要だということは、エロシーンまたはゲームクリアまでのプロセスが、楽しく、ストレスが少なく、クリア報酬と乖離していないことが望ましい。つまり、エロシーンとそこに至るまでのプロセスは、同じ材料で作られているほうが望ましいということになる。

 これが、現在テキストベース(ノベル・AVG形式)の作品が圧倒的なシェアを握っている原因だ。一つ、最もメジャーなフォーマットであったこと。二つ、エロシーンとそれ以外のシーンが、同じように楽しめること。エロシーンをテキストベースの紙芝居形式でしか作れないのであれば(Littlewitchが結局エロシーンだけはFFDで作らなかったように)、テキストベースでエロゲーを製作することは圧倒的に合理的である。
 しかし、エロシーンも日常シーンもゲーム部分もすべて同じように記述できるフォーマットがあれば、少なくとも二つめの問題点はクリアできる。そして、ポリゴンキャラクターによる人形劇フォーマットは、この要件をかなりの度合いで満たしている。これはデッドオアアライブとかイリュージョンの格ゲーを見れば一目瞭然だろう。いや、もうぶっちゃけ言うと、FF12とかにエロシーンがあったら買うだろお前ら! 俺は買うぞ! ポリゴンゲーの可能性はこれだろが!

 RPGとかアクションとかの要素があるゲームやると思うけど、ちゃんとゲームであることで深まる思い入れってやっぱあるわけ。キャラへのね。ところが、チップキャラによるゲーム部分への作り込みとエロシーンの作り込みってどうしても乖離してしまう。同じフォーマットで記述できるのが一番いいんだ。今はポリゴンの技術力で勝負してる段階だろうけど(局地的に「獲得」の時代にとどまっているともいえる)、早く手段として使いこなせるようになってほしいなあ。

 というような視点で以下言いたい放題。

  • めいでん☆ブリーダー
    • 最低。ゲーム部分をちまいキャラで作ってどうしますか?
  • メイデン☆ブリーダー2
    • そうそう、そゆこと。
  • セイクリッド・プルーム
    • これじゃね? かなり興味がある。
  • バトルレイパー
    • 考えてみたら相当偉大な作品だ、これは。オヤジくせえけど。
  • A-GA
    • こっちのほうがゲームとエロシーンがシームレスな感じかも。
  • おさわり系のインタラクティブなエロシーンは、まあ、こだわりはあるんだろうけど、本当に大事なことではないと思う。ていうか俺は嫌いだからやめてほしい。

2006/8/27 日曜日

Diary/2006-08-27

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今週のネギま!:ちうと夕映の相克に見る赤松の良心

 先週というべきか。16巻以降の展開は話としてもダウナーだし正直そこまで必死に読んでいたわけでもない。掲載順位も順当に下がっていて侘しさを感じる。が、今週は久しぶりにとてもよかった。いいんちょとか……いやいいんちょはいつもヨイので、ちうと夕映がよかった。

「リーダーなんだから迷うな! 言って聞かない奴はぶっ飛ばせ!」
「迷うことは間違ってはいない。心ゆくまで悩め。」

 どちらも正しい。どちらも一面の真実を言い当てている。そして、どちらかを選ぶ必要はない。ハーレムの素晴らしさだよね。ちうもかわいい、夕映もかわいい、そしてどちらかを選ぶ必要はない。
 非常に理性的で、良心的だと思う。

 これ、武闘会からの流れが活きているね。剣も幸せも、どちらも選んではいけませんか? とか、いずれ来る未来において全てを後戻りできない方向に押し流そうとするであろうアスナの存在とか。マイルストーンとしてのナギとの遭遇とか。
 あとね、ここは、何か一つしか選べない先生たちの姿とも対比すべきところです。タカミチもガンドルフィーニ先生も、グラサンとおばさんもね。そういう意味ではタカミチとアスナのデートも流れの一環だねー。魔法とは、決定されていない状態のことです。「不安定な勝算に賭け、不確定な未来へと自らを投げ込める自己への信頼・一瞬の内面的跳躍」です。

 大人の魔法先生たちが今回に限っては全くの役立たずであることがはっきり示されたのも、俺としては非常に満足なところ。そのへんは前掲記事でもちょろっと書いた。
 なぜなら、超鈴音は未来からの使者だから。彼らは、「未来」には決して太刀打ちできない。「未来」に立ち向かえるのは子供だけ。図書館探検部がフルメンバーで参加してる意味は大きいよー。「わずかな勇気」出したもんね。のどかと夕映。あと、アスナがバンバン刃物出してるのは当然タカミチにコクったからです。

 しかしこの、ネギはわりと自分の目的のためにハーレムを作ってるのに、そのせいで目的意識そのものが揺らいでるっていう構図は非常に面白い。赤松はかなりエロゲギャルゲを研究したんじゃないかとエロゲーマーの俺は妄想するね。

2006/8/25 金曜日

Diary/2006-08-25

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『School Days』アニメ化は成功するのか?

 今回はいつも通りわかりにくいぜ!

 放送コードとか表現規制とかの問題(あんなドス黒い話をテレビアニメでやれるのか? ていうかエロ必須だろう)は誰が見ても明らかなので、あえて違う観点からアニメ化の障害を語ってみようと思う。

 単純に、ゲームをアニメ化するという問題である。
 スクデイの核が三角関係の描写にあることは既に述べた。では、三角関係の描写をゲーム媒体でやることのメリットはなんだろうか。それは、恋の綱引きそのものを表現できるという点にある。
 画面上部のゲージが「綱引き」の直接的な表現であることは疑いないし、「言葉寄りルートから、世界寄りルートにも分岐できる」ことは、スクデイの明らかな特色である。綱引きの醍醐味は一進一退の攻防にある。これは、あるヒロインのルートに入ったが最後、他のヒロインのルートに「引き戻される」ことのない、一般的なエロゲーにおいては表現することが難しい。[1]
 何より決定的に重要なのは、この「綱引き」の勝敗がプレイヤーによって変動しうることである。これはインタラクティブなメディアであるゲームだからこそできる表現だ。例えば、TVアニメ版『君が望む永遠』における遙と水月の「綱引き」の結果は、いかにそれらしい描写をしたところでどこまでも決定されている。「遙ルートもありうるが、しかし水月ルートもありうる」という、ゲーム版にあったシュレディンガーの猫的な不確定性は全く、失われているのだ。そこには事実だけがあり、可能性は存在しない。そして、数ある可能性のひとつだからこそ存在を許された爆笑もののエンディング(緑色の悪魔!)も、存在しない。[2]
 つまり、原作未プレイ組のTVアニメ『School Days』視聴者は、原作にある極悪な展開の数々を「あるかもしれない」と想像することはあっても、それが本当に「ありうる」ということは知りえない。言葉と世界のどちらも選びうるということは知りえない。本当に清浦とエッチできることは知りえない。どころか、清浦がメインヒロインな世界観があることも知りえないだろう。これらは全てエロゲーのメディアミックスにつきまとう問題だが、ある特定のエンディングに対してすら複数の「過程」がありうるスクデイにおいてはより顕在化しやすいだろう。
 TVアニメ版が言葉EDになるか世界EDになるか、あるいはハーレムEDになるのか現時点ではわからないが、それが唯一の結末だなどという誤解は厳に謹んで欲しいものである。

  • [1]『君が望む永遠』では、「引き戻される」展開は遙ルートの最後のほうにちょろっとあるだけのようだ。かように、君望は三角関係を描いた作品とは言いがたいのである。
  • [2]考えてみれば、君望以降のageはずっと「ありうるアナザーな可能性」を描いた作品ばかりを作り続けているような気がする。あるいはそれが君望とマブラヴの共通テーマ?

『プリンセスうぃっちぃず』のエラいところ

 いろいろある。が、ここでひとつ挙げるとするなら、三角関係におけるヒロイン同士の闘争に主人公が絡んでる点。いずれか一方に加勢するという形ではあるが。これはね、あんまり記憶にないね……浅学にして……。『月姫』くらいかな……。

 以下プリっちと月姫ネタバレ。

 まだ途中なんで当てずっぽうなこと言ってるんだけども、アスラーナはたぶんソルも斬れるんじゃないかな……。斬れるべきなんだけどね。どうかな……。代理戦争っていうのはわりと有効なモチーフだしね。月姫琥珀ルートでも、実は超能力者VS妖怪の構図だったしね。そこでの主人公の両義性は大事だと思う。

2006/8/20 日曜日

Diary/2006-08-20

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20060819の返信

>ヒーローはなぜ悪と戦うのか?
そんなもん,「ヒーロー」という言葉の定義を明確にすれば自明なのではないか?

 その通りです。
 俺が想定していた定義は「私心なく無辜の民衆を庇護し、悪と戦い、勝つ存在」というようなものですが、だとすればこの問いの答えはすでに明白です。「正義の心によって」。
 しかし、この「すでに成ってしまった」ヒーロー像は、彼がそこに至る過程を隠匿しています。彼はいかにして戦うべき悪と出会い、それに立ち向かうことを決意し、目的に足る力を手にしたのか。ショッカーに誘拐され、改造される以前の本郷猛は、正義漢ではあってもヒーローではありませんでした。いわんやその少年時代においてをや、です。まさにその言葉の定義からしての自明さを疑ったのが仮面ライダーであり、その後に続いたヒーローもの作品たちなのですから。

2006/8/19 土曜日

Diary/2006-08-19

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ロストチャイルド試論

 ヒーローはなぜ悪と戦うのか?

 この問いを真剣に考える必要は、実はない。「正義の心によって」で充分だ。なぜならば、ヒーローものの主な受容層である子供が欲しているのは、まさにそのような存在だからだ。むしろ理由などないほうがいい。モノクロ時代の特撮ヒーローがみなマスクマンなのは、その理由を、正体を隠すために他ならない。サンタさんの中の人がウチのパパであることなど子供は知りたくないし、ヒーローの孤独な戦いの裏にある、恋人を殺された過去や、持て余しそうな巨大な力や、バイトで糊口を凌ぐ生活のことなど、知りたくはないのだ。

 しかし、隠匿されてきたがゆえに、ヒーローの裏を知りたい、描きたいという欲求もまた存在した。仮面ライダーはそうして生まれた。不気味で悲しい、新たなヒーロー像の誕生だ。石森章太郎の手になる漫画版『仮面ライダー』は、ヒーローの戦いの裏にある残酷さを抉るように描き出した。異形と化した肉体に、破壊された平穏な生活。そして、必然的な死と、そこからも逃れられぬ運命。
 しかし、こりゃ当然ながら子供向けには暗すぎた。骸骨顔のモンスターとしてデザインされた「スカルマン」は「仮面ライダー」になり、テレビ版はシリーズを重ねる毎に悲劇の色を薄れさせた。やっぱり人間見たくないもんは見たくないのである。

 それでもこの問いかけは残った。ヒーローよ、なぜ戦う。繰り返すが、ヒーローであるだけならば理由などは必要ないのだ。しかし、何の理由もきっかけもなく、命を懸けて戦える人間が果たしているのだろうか。いはしない。仮面ライダーとは、ヒーローの人間宣言であったのだ。生まれつきの超人ではない、改造人間としての「自己」の獲得である。
 悪を憎んで人を憎まないのは、純粋なヒーローの精神だ。人間であるヒーローは、悪も憎むが人も憎む。ショッカーに改造された初代ライダーの動機に復讐を見出さないのはいくらか不自然な見方といっていいだろう。つまりそれは、悪と戦うに際する、公的でない、私的な動機である。ある意味では、本郷猛はショッカーを「愛している」。そしてショッカーも、己がいとし子である仮面ライダーを憎みつつ愛しているのだ。(『D.Gray-man』で最近あった、アレンのアクマへの愛の告白と関連付けてもいいかもしれない。)
 『仮面ライダーBLACK』におけるブラック・南光太郎とゴルゴムの関係は、明らかにこの仮面ライダーー・本郷猛とショッカーの関係を模倣している。ゴルゴム次代の支配者「世紀王」として生み出されたブラックサン=仮面ライダーブラックはゴルゴムに祝福された存在であるし、同じく世紀王であるシャドームーンはかつて秋月信彦として南光太郎と親友の間柄だった。仮面ライダーブラックというヒーローは、ブラックサンとして、南光太郎として、仮面に託すことのできない苦悩と決意を持って戦った。これもまたヒーローの手に戦いを取り戻さんとする運動の一環と位置づけることができる。

 『ロストチャイルド』がここに加えたものはふたつある。ひとつは、諸悪の根源としての自己、瀧村研三。これによってヒーローは最も愛すべき「敵」を得る。実際には草薙が噛んでくるからそう単純ではないけれど、ライダーたちが「改造された」という形で持っていた原罪が、元を辿れば自分自身に帰る形で提示されているのは極めて重要だといっていい。
 もうひとつは、当然愛すべき女性、藍だ。これによってヒーローは平和を享受すべき存在を得る。その点において娘であり恋人でもある藍はピッタリの役どころだろう。一心同体であるからこそ自分自身のためだけには戦えず、一心同体であるからこそ他人のために身を捨てられる。時任将路は藍のために瀧村研三を全うし、瀧村研三は自らの罪を償って乃亜に未来を与えた。研三と忍の罪深い交わりによって産まれた乃亜が人外の存在として転生したのが藍であることを考えれば、藍が人性を得ることの意味は明白だ。そして、そして、将路と藍が結ばれる未来と、藍の平穏な生が両立しないことも。

 つまり、倒すべきは悪ではなく、罪。罪を憎んで人を憎まず。
 悲しみに、憎しみに負け、悪を敵として戦うことは、倒すべき敵によって自己を縛られることを意味する。そうではなく、己が罪を敵とし、自らを清算することこそが自由。ヒーローの解放である。

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