5時53分。
目覚まし時計をながめはじめてから27分経過。目を覚ましてからはたぶん、40分くらい経過。
今日という日になにか特別なイベントがあるわけでもない。わたしの朝はおおむね、30分以上先にセットされた目覚まし時計をながめることからはじまる。
5時55分。
頭はすでにばっちりクリア。生まれてこのかた寝坊やら二度寝やらには縁がない。もちろん遅刻にも、通学路の全力疾走にも。
わたしは眠るのがきらいだ。
夢が甘すぎるから。
夢が甘いのに、現実がかさかさに乾いてるから。
5時58分。
毎晩現実から逃れるように目をつむって、毎朝夢から逃れるように目を覚ます。
また何もない一日が始まるまでの透明な時間がすこしでも長く続くように。
無慈悲に時を刻む機械を見つめる。
5時59分。
せめて、苦痛の始まりを告げる音を聞かないように。
5時59分59秒で、スイッチを切った。
闇原のぞみ、14歳。
今日も生まれてきたことを後悔しています。
『ひとりでプリキュア!』
#1「友達なし? わたしがプリキュア!」
下駄箱を開けたら、左の上履きだけがあった。
これはちょっと新しい。上履きがなくなるのは珍しくないけど、片方残ってるのは初めてじゃないだろうか。くだらない連中にも少しは考える頭があったということか。
とはいえ、隠し場所がゴミ箱の中というのはあまりにも進歩がない。焼却炉の中とか屋根の上とか、他にいくらでも思いつくところはあるだろうに……いや、わたしが見つけ出せなかったらかえって面白くないのか。汚れた上履きをはいて過ごすはめになるところまで含めた嫌がらせなんだし。
ほとんど自動的に下駄箱に残された上履きの中をのぞいてみると、案の定、画鋲が入っていた。古典的というかなんというか、いまどきこんなイジメが存在していいんだろうか。
登校ラッシュの前の閑散とした昇降口で日課を済ませ、誰もいない廊下を歩いて教室に向かう。あとは朝練の様子をぼんやり見ているほかにすることがないけど、毎日飽きもせず下駄箱に放り込まれている虫やらなにやらを騒々しい登校風景の中で始末するうっとうしさに比べたらはるかにマシだ。
(中略)
いつの間にか人気のない路地にいた。
見慣れたはずのれんが造りの街並みが、初めて来た場所みたいによそよそしく見える。
ざわめきひとつない、耳に痛いほどの静けさ。
人だけじゃない。犬も猫も鳥も、生き物の気配がぜんぜんない。
まるで、命あるものだけが残らず連れ去られてしまったよう。ホラー映画に出てくるゴーストタウンみたいな、そのへんの建物に入ったらまだあたたかいコーヒーだけが残っていそうな。
そして、消えた人たちの鏡写しみたいな唐突さで、男の子がひとり立っていた。
「どうやって入ってきたの」
まだ声変わり前のボーイソプラノだった。声もきれいだけど顔もものすごく可愛い。ふわふわで茶色っぽい黒髪で、ちょっとシックなパンツルックに小さなポーチを下げている。年下の男の子に見えるけど、実は小柄な女の子だって言われても信じるかも。思わず状況も忘れて見とれそうになったけど、男の子は似合わない固い口調で続けた。
「ここは危ないんだ。ぼくの力じゃ君を守りきれない。早くここを離れて」
「なにを言ってるのよ、あなた。そっちこそひとりでなにしてるの」
「説明してる時間もないんだ! はやく――」
男の子の声が緊張から焦燥に変わった瞬間、路地の奥からそれが来た。
はじめは、沼が動いてる、と思った。
それだけで思わず「ひっ」という声が漏れたけど、よく見るとそれは沼ですらなかった。空気との間に境界はあるのに、その面に波ひとつ立っていない。色も泥なんかじゃなく、もっと暗い、黒というより闇そのものだった。しかも、なにもかも吸い込んでしまいそうに暗いのに、闇色の光としか言いようがないものをじわじわとあふれさせている。
説明されなくてもわかった。あれはものすごくよくないものだ。心の底から恐怖がわきあがってくる。
「なによ、あれ……」
「<絶望の闇>だよ! ぼくから離れないで!」
さっきと言ってることが違うけど、反論する気はしなかった。背を向けたとたんにうしろから丸のみにされそうで、いまさら逃げることも目をそらすこともできない。
自分より小さい男の子のかげに隠れるようにしてずるずる迫ってくる<絶望の闇>をうかがっていると、それはわたしたちの10メートルくらい前でいきなり立ち止まり、こんどは大きく広がりはじめた。
マンホールくらいの大きさだったのがあっという間に両手の幅に広がり、と思うと、中心部がずぶりと盛り上がる。
わかった。あれはどこかにつながっている穴なんだ。そこからなにかが出てこようとしているんだ。
コールタールの膜をふくらませたみたいな「なにか」は穴をどんどん広げながらはいずり出てきて、25メートルプールくらいの広さ、4階建ての校舎くらいの高さになって止まった。
怪物だ。
表面に闇色の光をどろどろと流動させながら、怪物の体の左右から腕が生えた。顔にあたる部分には、裂けたような笑顔の不気味な仮面が貼りついている。
「コワイナ――――――――!!!」
怪物――コワイナーがほえた。肌が震えるほどのおそろしい大声なのに、怒りや憎しみの感情がこもっていない。そんなものはとっくに通り越した、絶望。わたしは自分がしりもちをついていることにも気付かなかった。
「ぼくの名はココア! 希望の力よ、ぼくの声に答えよ!」
男の子が、びっくりするような強い声で叫んだ。すると、蝶のリンプンみたいな色とりどりの光の粒が両手の間に集まってくる。
コワイナーが右腕を振りかぶった!
「きゃあ―――」
「守れ!」
かすむほどの速さで振り下ろされたコワイナーの腕と、一瞬早く現れた光の壁がぶつかりあった。見上げるほど大きいコワイナーの体重を支えるように、ココアは光の壁を両手で押し込んでいる。
「くうううううっ!」
押し合う力がつりあって、頭の一部が安心しそうになったとき――――
コワイナーの左腕が、壁に打ちこまれた!
「立って!」
ココアの声にあやつられるようによろけながら立ち上がった瞬間、光の壁はこなごなに砕かれ、はじきとばされたココアに押し倒されるように飛びのいて――――わたしたちがいた場所に、直径5メートルはありそうなクレーターができていた。もう悲鳴も出ない。
「走って! はやく!」
生まれてから一番必死に走った。となりを走るココアが後ろに壁を生み出して足止めしているけど、コワイナーの腕のひと振りで次々に壊されてしまう。
「追い付かれちゃうわ!」
「わかってるけど、ぼくじゃこれが限界なんだ! やつを倒すには、ほんものの戦士でないと――」
そのとき、わたしのつま先が敷石の隙間につっかかった。
時間がゆっくりと流れる。
後ろでコワイナーの影のような体がふくれ上がった気がした。
ココアが振り返って、コワイナーに両手を突き出した。
光のリンプンがまばゆいほど集まって、大きな壁を作った。
真っ暗な両腕が同時に壁を叩いて、光が爆発した。
コワイナーがはじき飛ばされてあとずさり、ココアは鉄砲の弾のように壁に激突した。
予測を裏切って、ぽん、という妙に軽い音。
「ココア! って、あれ……」
壁の破片かなにかわからない煙幕の中から出てきたのは、さっきの美少年じゃなかった。
ブラウンがかった黒い毛色の、ハムスター? というか、耳の短いウサギ? ポーチ……というか、この大きさだとバッグだけど、それだけはそのまま。ひょっとして、これがほんとうの姿?
「逃げる……ココ……」
コワイナーの真っ暗な影を浴びせられて、今度こそわたしの思考は凍りついた。
あの腕が振り下ろされたらわたしは死ぬ。ああ、短い人生だったわ。
走馬灯が流れそうな場面だけど、今このときに再生される思い出はなにもなかった。その代わりに浮かぶのは抽象的で、でも確かなイメージ。
なにも変わらなかった過去。なにも変わらない未来。なんてつまらない、くだらない一生だったろう。
(こんなはずじゃなかった)
振り下ろされた腕が迫ってくる。ぜんまいが切れる前にわたしは壊されようとしている。でもそれのなにがいけないだろう? わたしが変われないのなら、いま終わっても、100年後に終わっても、そこになんの違いがあるだろう?
(こんなはずじゃなかった)
人の魂は、天国の近くにある「控え室」に集められて生を受けるのを待つというけれど、わたしはきっとそこで期待しすぎたんだ。
世界には楽しいことがたくさんある。
世界には素敵な人がたくさんいる。
苦しいこともあるけど、乗り越える力がある。
わたしはそこで、笑ったり怒ったりときどき泣いたりして、そんな思い出が積み重なって水晶みたいになって、キラキラ光ってゆけるんだって。
(こんなはずじゃなかった)
だからわたしは、こんなふうに当たり前のことに失望して、鈍感にもなれなくて、かなうことのない夢ばかり見ている。
なんでもない、なんにもなれないわたしを見つけて、認めて、わたしの知らないなにかに変えてくれる、そんなだれかが現れる夢を。
知らないからどうやって願えばいいのかもわからない。だれを求めているのかもわからない。そのくせ生まれる前からそこにあったみたいにわたしの心の中に居座りつづけて、「こんなはずじゃなかった」なんてつぶやきばかりを垂れ流している、願望ですらないおぼろげなかたち。
(こんなはずじゃなかった)
ほんとうに?
心のもっともっと深いところから声がした。
あなたは、ほんとうにここで終わって満足? ほんとうにあきらめられる? 夢はどうせかなわないと思っている?
(こんなはずじゃなかった)
ほんとうになんの願いも持てないでいる? 夢をかなえる力を持てないでいる?
あなたが、ほんとうに変わりたいと願うなら。
それは、あなたの心になるはずだから。
心からの願いには、夢はきっとこたえてくれるよ。
願いは、希望を育てる力になる。
(わたしは、変わりたい!)
光が舞い降りた。
一羽の蝶が。
まばゆい光の粉を散らしながら。
<絶望の闇>が退いた。
絶望は希望を恐れる。
それが、生まれたばかりの心に伝わった。
「そうか……君が……そうだったココ……」
ココアが、ポーチからなにかを取り出した。はかなく舞う蝶の、けれど力強い光に共鳴するように輝く、ブレスレット。
それがわたしのためのものだということがわかった。
「これを使って戦うココ! 強く願えば、希望の力は君にこたえるココ!」
うなずいて、ブレスレットを受け取る。
腕に巻くと。ブレスレットはいっそう強く輝いた。
産声を上げる。
「メタモルフォ――――――――――――――ゼ!!!!!」