ベイビープリンセスの次女・霙さんが深い心の平安をもたらしてくれる件について
じわじわきてます、霙さん。
あまりに落ち着くので、画像をでっち上げてあちこちに掲示してます。お札みたいな。
この世に何かの
爪痕を残そうなどと――
悪あがきは、
しなくていい。
は名言だと思う。心が乱れたときに口中で唱えると安心します。おすすめ。
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爪痕を残そうなどと――
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SLGをリソースが有限なゲームと定義するなら、『永遠のアセリア』ほどSLGらしいSLGもない。
“有限世界の妖精たち”って結局一章タイトルだったのかね。発売前はサブタイだった気がしてならないがまあいい。
RPGにせよSLGにせよ、リソースを多く確保するほどゲーム進行が有利になる、という点は変わらない。
では、獲得できるリソースの総量に限界値が定められていればどうなるか。限界までの獲得を目指すことは当然として、一定のリソースをどう配分するかということが攻略上重要な意味を成してくる。
リソースの総量を一定とした場合……つまり、より多くのリソースを獲得することで優位を築けない場合。
「リソース配分の自由度」が、見えない戦略的リソースとしてあらわれてくる。より効率的な投資プランを練り、それを実現することがゲーム進行上のアドバンテージとなる。
『永遠のアセリア』が優れているのは、「リソース配分の自由度」そのものをゲームシステムとストーリーの両面に組み込んだ点だ。
根本リソースであるマナはそのままでは使えず、エーテルに変換しなければならない。しかも、エーテル変換には専用の施設が必要で、その建設にそもそもエーテルと領地が必要になる。
そしてエーテルを消費してユニットをレベルアップするわけだが、レベルアップするにも1ターンと施設が必要、またエーテルと領地が必要、となる。しかも高レベルではより上級の施設が必要になる。
はっきり言って超めんどくさいのだが、リソースを消費することにコストを課すシステムは特筆に価する。ある意味ではゲーム性が非常にわかりやすくもある。
『永遠のアセリア』では実に多くのものがリソースとなり、取引されている。
マナを多く獲得するには早解き&敵殲滅をせねばならないが、するとレベルアップにかけるターンが削られる。そしてレベルが低いために攻略に時間がかかってしまう。
サブイベントのために寄り道をすることもあるし、部隊を分けて全領地占領を狙うこともある。攻めてくる敵の相手もしなければならない。少ないターン数でエーテル変換を行うために変換施設にリソースを注ぎ込む必要もある。
さらに殺害数によって低下するマインドの維持という問題が加わる。敵をどのユニットで倒すかという選択の自由すらリソースとして数値化されることになる。
限られたリソースを全て獲得するためには、手元のリソースをいかに運用するかを考え抜かなければならない。そして、『永遠のアセリア』では、配分だけでなく相互変換によってリソースを運用していかなければならない。
めどい。実にめどい。
しかし、全てがリソースとして、コストとベネフィットの取引の中で扱われるということは、リソース管理遊戯としてのゲームの一つの理想といえる。
戦略の複雑さに対してゲーム性は実にシンプルだ。「より多くのリソースを獲得するために、手元のリソースを効率的に運用する。」それが自己満足的なやりこみ記録ではなく、最終的にはユニットのレベルという、極めてわかりやすく、かつゲームの有利をもたらす、明快な数字に現れてくる。2週目でデータ引継ぎができる以上、それは決して単なる記録ではありえない。
このゲーム、ターン数さえかければクリアは決して難しくない。ターン数制限はないし、拠点で待機することで全回復が可能なので、篭城プレイをすればほぼ負けはない。ただ、どんどん不利になって、篭城プレイしかできなくなるだけ。
つまり、極限レベルを達成するために必要なのは、無駄にターン数を費やす不恰好な稼ぎではなく、ゲームバランスの限界を走る早解き&全滅プレイなのだ。ランダム要素が皆無であるために、完全に再現可能ですらある。
これはSTGにおけるスコアプレイにも近いかもしれない。違いは、STGのスコアが単なる記録であるのに対し、マナはリソースだという点だ。そして、いくらプレイスキルが高かろうが、リソースがなければ『永遠のアセリア』のラスボスは倒せない。
プレイスキル至上主義へのアンチテーゼとしてある、リソースの獲得によってクリアを目指すゲーム。であるならば、リソースの効率的な運用こそが、有利で、難しく、かつ美しいプレイであるべきではないのか?
スキル系に対するレベル系のゲームとして、『永遠のアセリア』のゲームシステムは一つの理想系といえる。まあその、設計だけは。
ある一人遊びが「ゲーム」と呼ばれるには、そこに困難がなければならない。およそゲームと呼ばれる全ての一人遊びは、よりよい結果を得るために乗り越えるべき難しさを持っている。
その困難を乗り越える道筋は大雑把に分けて二つあり、一つは「プレイヤーのスキルアップ」、もう一つが「キャラクターのレベルアップ」である。アクションやシューティングはスキル系、ロールプレイングやシミュレーションはレベル系のゲームだといえる。
シムシティがレベル系というのは違和感があるかもしれないが、税収――市のレベル――が増えなければどんな腕利きのプレイヤーでもマップを埋め尽くすような大都市を作ることができないという点で、シムシティはレベル系に属するといえる。
では、同じレベル系に属するRPGとSLGの違いとはなんだろうか。
簡略化のため、話を「敵を倒して経験値を獲得してレベルを上げてラスボスを倒す」系統のゲームに絞ることにする。
この条件でRPGとSLGを比較してみると、大きな違いは「戦闘を無限に繰り返せるかどうか」というところにある。
ほとんどのRPGでは、倒しても倒しても敵は沸いてくる。経験値は無限に手に入るので、キャラクターのレベルを最大まで上げることは、時間はかかるが全く難しいことではない。
対して、SLGでは敵の数が限定されているのが基本となる。抜け道があることも多いが、ごくまっとうな進め方をする限り経験値は有限で、その中でやりくりするのが普通である。
これは経験値に限らず、お金やアイテムも含め、ほとんどのRPGでは戦闘を通じて好きなだけ獲得できるのに対し、SLGではそもそも戦闘できる回数が限定されていることが多い。
経験値・お金・アイテムなど、ゲームを有利に進めるためのもので、かつ量が多いか少ないかが問われるものを、まとめてリソースと呼ぶことにする。
1点ものの装備品とか、イベントで習得する魔法とかはリソースとは呼ばない。
RPGとはリソースが無限に獲得できるゲーム、SLGとは手に入るリソースが限られているゲームと分類すると、両者のゲーム性の違いがわかりやすくなる。
SLGでは手に入るリソースが限られている。逆に言えば、取り逃したリソースを後でおぎなうことができないということになる。
RPGでは、多少低いレベルで無理やり進んだところで、きつくなったら腰を据えて鍛え直せば詰まることはない。SLGでは、ある時点でレベルが足りないことでにっちもさっちもいかなくなるというのはよくあることだ。
ゆえに、敵は皆殺し、取れるものは全部取ってから進むのが、最初に覚えるべき「有利なプレイ」ということになる。
しかしながら、リソースの量には限界があるわけで、もっと有利にプレイしようと思ったら、リソースの効率的な配分を考えなければならない。
「成長率の高いユニットに優先的に経験値を振る」という、ほとんどの戦闘系SLGに共通するプレイングは、経験値の総量が有限だからこそ重要視されるのである。
対してRPGでは、経験値の総量に限界がない。序盤からレベル99を達成することも不可能ではない。
となると、より有利で効果的なプレイとは、闇雲に敵を狩り続けたところで手に入らない何か、に関わってくる。
それは例えば、ダンジョンの宝箱や、任意のイベントや、「盗む」コマンドとかで獲得できる非売品アイテムである。RPGで「非売品」という言葉が持つ意味はつとに重い。売品なら好きなだけ買えてしまうからだ。ステータスの自由割り振りをできるゲームがRPGに多いのも、「レベル上げなら誰でもできる」からに他ならない。
弱点を突かないと倒せないボスというのも、「レベルを上げるだけでは突破できない困難」としてRPGに採用されてきた。いわゆる謎解き要素や迷宮、アイテムコンプリートやサブシナリオ探しも、戦闘に勝つのは時間さえかければ誰でもできるからこそ考えられた、戦闘によらない攻略要素といえる。
一方で、時間をかければ誰でもクリアできるからこそ、いかにして時間をかけずに楽にクリアするかということも、RPGではゲーム性に深く組み込まれている。敵を楽に倒せる弱点属性や、短時間でレベルを上げられる狩場などは多くのRPGに存在する。
このように、SLGのゲーム性は、ほぼ「より多くリソースを獲得し、それを効率的に配分する」というところに集約される。
対するRPGは、レベルを上げるだけなら誰でもできてしまう。根本的にゲーム性が薄い。困難はあるが誰でもクリアできるという矛盾を抱えている。だからこそライトユーザーにも広く浸透したのだし、基本システム以外のところに攻略要素を付け足していくことで「色んな楽しみ方ができる」ゲームへと進化してきたともいえる。
「一回転すれば、ほんの少しだが前に進む。それがドリルなんだよ」
そのわりに同じ失敗を何度でも繰り返してくれるじゃん。
だがまあ、正直なところ侮っていたとは言わざるを得ない。最終回の超絶クォリティは軽く想像の斜め上を行った。今更映像と演出だけでちょっと泣きそうになったほどだ。ちょっと泣きそうになってるのに話の中身がなんにもないあたり涙ちょちょぎれるが。
はいはい、SFがやりたかったんだね。じゃあSFやれば?
———————————
後でまた対談するが、対談相手に通じないであろうネタはとりあえず吐いとこうか。
うん、人類の進化ね。俺そのネタ大好物でさ、イヤなのに感じちゃってる自分がマジで屈辱的だったんだけど、でもその話とことんシモンの個人的な感情と絡んでこないよね。
マルドゥック・スクランブルで、唐突に人類の進化ネタが始まって特に続かずに終わったとこあったんだけどさ。ブラックジャックのシーン。
あれなんで俺ボロ泣きかって、あくまでも主人公の自分なりのストラグルの果てにそれが見えてくるからですよ。生き残るための戦いが彼女に未来を垣間見せてしまったのが面白かったんであって。
世界を守るために守り、人類の進化のために進化するんじゃまさに自家中毒で面白くもなんともないの。デカい話の根っこには個人的な事情こじつけるって、別に熱血とかSFとか関係ないエンタメの基礎の基礎じゃねえのか。
つかさ、「私は明日に向かいます(失ったものに囚われることなく新たな絆を求めます)」→「俺のドリルは天を創るドリルだ!(銀河中の螺旋族が!)」って普通に繋がるのになんで繋げないの?
なんでそこでニアを無視するの?
ラガンのコクピットに居る意味あんの?
かつて同じシチュで倒したロージェノムが今度は仲間として道を切り開いてくれとるわけやん。
「今更父親面できるとも思わぬが」
しろよ!
シモンとずーっと乳繰り合っててどうすんだ!
なんてホモアニメだ!
超級覇王電影弾パロなんぞやっとる場合か!
ニア消滅よか戦闘中の空気っぷりのほうがはるかにかわいそうだわ!
結局ニアは15話でも27話でもなんもやってないし言ってない。
ループループ!
クッチー自重。
巨大ロボ→等身大にバトルのスケールが遷移する意味の話。
もうガンダム見ろで説明終わりなんだけど、あえて説明すると、一見高尚で壮大な話の根っこが卑近で矮小であることの視覚的表現。
ガンダムVSジオングだと、なんか連邦VSジオンとか人類圏の覇権を賭けたとか最強のパイロットはとか、そんな戦いに見えるんだけど。
アムロVSシャアだと、「ララァが死んだのはお前のせいだ会議」にしか見えない。
根っこにそういう卑近で矮小で人間的な感情があるから、気宇壮大なバトルにも感情移入できるんだよ。
ガン×ソードはそのまんまやってたね。
最後の敵はとにかくでかい。言うこともでかけりゃロボもでかい。
主人公も「新しい力と古い力の融合?!」とか、なんか抽象的な存在になっていく。そして剣がでかい。
なんだけど、最後は等身大で、嫁の敵を討って決着するんだよ。
根っこのところでは、復讐。
去り行く背中が小さい。
翻ってドリルはどうか?
巨大なハリボテの中からコアが飛び出してくるたびに、主人公の卑近で矮小な感情が、人間的核が剥き出しになっていったか?
ニアへの愛を叫んだか?
NO。(よつば風に嫁) 「当たり前だ。人間はそこまで愚かじゃない」
ニア抱えて言うことがそれかよ!
ていうか愚かなとこしか見てきてねーよ俺ら!
最後のラガンインパクトが武装錬金ばりに真赤な誓いだったら良かったんだけどね。
絵だけはそうなってるんだけどね。
台無し。
つかラストバトルにきてニアよりアーテンボローのほうが目立ってどうすんだ。
ありえんでしょ、常識的に考えて。
せっかく生き残り全員で天元突破合体したのに、ずーーーーーーーっと入れ続けてるツッコミをまたやらにゃならんね。
シモンひとりで勝てんじゃん。
ループループ!
細かく見ると、気合萎える→気合入れ直すパターンを2回やっちゃって盛り上がりどこがわかんなくなるのとかダメなとこばっか色々ループループ!
神アニメなのに最後まで名作になりそこねたね。
アニメはまだ見ていない。
以前書いた原作についての記事の要旨は、「School Daysはツッコミ不在のボケ倒しコメディである」という話だった。
それが高橋直樹さんの言う「スクイズはインモラルじゃなくてアンモラル」という話に繋がるのかというと普通に繋がる。
インモラルというのは、モラル・規範に「逆らう」行為であって、インモラルな作品においてはモラルの側からのツッコミの視点が内在化されていることが必要不可欠である。
例えば、「近親相姦やっちゃいけないけど妹可愛いからヤっちゃう!」というインモラルな作品であれば、「実の妹と関係を持つ罪悪感」であるとか、「第三者からの白眼視」といった形で、必ずツッコミの視点が担保されている。
ところがスクイズにはこれがない。誠はロクに罪悪感を見せない(テキスト仕立てに比べて内心が描写されにくいアニメ作品であることの影響は間違いなくあるだろう)。裏切られた女の子からの非難は、道徳的にどうこうというより、単に嫉妬として描かれている。ツッコミは、プレイヤー・視聴者が自分で入れるしかない。
あえて言うなら刹那がツッコミのポジションなのだが、明確にツッコミ=モラリストとしての言動を取ることは基本的にないし、刹那自身グダグダな恋愛状況に参加してボケの一翼を担ってしまうことすらある。スクイズ唯一の良心である刹那がボケに回った瞬間の世界観の崩壊っぷりは印象深い。
だから、高橋さんも指摘する通り、誠の節操のなさに真面目に憤るのはくだらない。誠がモラルに従っていないのではなくて、そもそもこの作品にモラルが存在しないのだから。その点、「浮気イクナイ!」という規範が明確に存在する『君が望む永遠』とは根本的に異なる。
誠のアンモラルを非難するのであれば、人の男だろうが平気で寝るヒロインたちも非難しなければ辻褄が合わない。そしてそうするよりは、このグダグダの状況を指差して笑うほうが健全な鑑賞態度であるし、壮絶な爆死でボケ倒しコントにオチつけてくれる誠先生には尊敬の眼差しが向けられてしかるべきであろう。
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