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Diary/2005-10-23

[エロゲー]『CROSS†CHANNEL』の話(3)

それぞれの固有太一は固有シナリオ内で「選択」していて、「選択」していないのは、それら全てを見下ろすメタ視点での錯視によって生じた、黒須太一という名前のユニークな「同一性」ではないかと思います。その「同一性」をユニークな起点主人公として錯視することによって「疑似体験」が成立する、ということと、それが実際には「観測」であることとは両立しうると思います。

 はい。前回言ったように、C†Cの少なくとも一部はいわゆる普通のエロゲー、マルチシナリオゲームとして機能しています。「同一性」というか「同質性」というか、そういうものによってプレイヤーは「黒須太一」と定義される人物をユニークな起点主人公と錯覚するわけですね。
 ただしそれはひとつの段階であると思います。ご指摘の通り、そもそも主人公に感情移入してめくるめく恋愛を「経験」する行為そのものが錯視に他ならないわけです。「俺は実際には主人公じゃない」という気付きが存在しえるのと同様、「太一は実はユニークじゃない」という気付きもまた可能であると思います。端的には日記の発見によるものです。というか、その錯覚が必要なのはマルチシナリオ部分においてだけですからね。
 ……またそういうこと言うとC†Cが「たたかわなきゃ、現実と」な作品ってことになりそうでやな感じぃー。

 C†Cのストーリー上の重要なテーマとして、可能性の失われる絶望があると思います。無限の可能性世界で繰り返される全滅エンド、絶対に到達できない月曜日、救えない愛奴隷たち、という絶望の風景です。であるならば、太一の背負った何も選択できない絶望にはやはり意味があるように思われます。全体の構成としても、マルチシナリオという「可能性への欲望」に応える構造を後退させて単線的シナリオ構造に着地させているわけですからね。

それで思ったのですが「正解への欲望」はシナリオライターのそれとプレイヤーのそれとはずれていて、それが相互にかみ合ったとき、そのゲームはプレイヤーにとっての「名作」になるのだと思います。逆にずれていると地雷になる。

 という指摘は、うむ、なるほど。プレイヤー側の「多様な可能性への欲望」とクリエイター側の「フルコンプさせたい欲望」の違いについての認識は言外に共有していた気がしますが、だとすれば「正解への欲望」もクリエイター側ではまた違った現れ方があるでしょうね。考えてみればC†Cにおけるプレイヤー側の「正解への欲望」は、一顧だにされていないというか、かなり意地の悪い形で応えられているような。世界の謎を追っていくと別れに繋がる、とか。俺はハラキリ冬子をニヤニヤしながらずっと見ていたかったのに!

[雑談]今週のエウレカとマジレン

 エウレカ……OPEDは変わるたびにダメになってくなあ。もう何も感じないけど。

 そしてマジレンはすごい超展開。そして熱すぎ。泣きそう。しかしどうなんだろうこれは。次回からどうするつもりなんだ。

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きゃっと・ふぃすと