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Diary/2006-07-25

[エロゲー]抜きゲーとエロシーンの役割

 エロゲーがコンシューマ移植される際にしばしば取りざたされるのが、エロシーンを抜くだけでほとんど問題なく移植できるような作品の存在である。古くは『輝く季節へ』としてPSへ移植された『ONE』に始まるこの手のエロ薄ゲームは、「そのエロシーン要らないじゃん」という文脈で批判されてきた。つまりは、エロを期待されない作品を18禁で販売することの意義である。
 一方で、いわゆる抜きゲーと呼ばれるジャンルの作品はまさに「抜き」への期待に基づいて制作されている。あるいは、ドロドロのグチョグチョのエロエロというほどではなくても、ゲーム性や物語よりもエロシーンに重きを置いた作品もある。(カラフルピュアガールのレビューで「やるゲー」に分類されるような。)当然この手の作品はエロ抜きのコンシューマ移植をすることが難しく、これぞエロゲー、として賞賛されることも多いわけだ。

 何の問題もなくコンシューマ移植されてしまうエロゲーに対しては、抜けないエロゲーに対する保守主義的批判ともあいまって、エロシーンの必要性、あるいは蓋然性の視点から厳しい評価を下されることが少なくなかった。このような評価基準は、相当のエロゲーマーに採用されているであろう。なんとなれば、エロゲーはただのゲームではなく、エロゲームであるのだから。
 そう。逆に言えば、エロゲーはただのポルノグラフィではなく、ゲームなのである。

 ポルノグラフィとしての観点からは、プレイヤーにゲームがクリアされたことを説明するためだけに存在するようなエロシーン、いわゆるご褒美エッチは否定される。同様に、ゲームとしての観点からは、プレイヤーにチンコをしごかせるためだけに存在するようなエロシーンは否定される。
 エンディングに挿入されるエロシーンがいまいち抜けない抜きゲーはよくあるが、これだってエロシーンのエロゲーにおける役割を正しく果たしているとはいえないのである。

 エロゲーのゲーム性とは、概ね「ヒロインを攻略する」ということに集約される。
 昔の俺はヒロインが全然萌えない感じのエロゲー(BISHOPのとか)を「AVゲー」と呼んで忌み嫌ったものだが、ひっかかりの根本は本質的なゲーム性の薄さにあったのだろう。ヒロインとセックスすることとヒロインを攻略することは異なる。

[エロゲー]補記:ゲーム性とインタラクティビティ

 アカデミックなコンピュータゲーム論に踏み込むと大変なのでおおざっぱに定義するが、インタラクティビティとは双方向性のことであり、ゲーム性とは攻略性のことである。インタラクティビティが高いとは入力に対して多様な出力が返ることであり、ゲーム性が高いとはゲームの攻略に対して多様な障害が用意されていることといっていいのではないだろうか。

 話をエロゲーに適用してみよう。例えば、いわゆる「おさわりエッチ」に類するシステムはインタラクティブである。ライアーソフトやアリスソフトなど、狭義の「ゲーム」に拘りを見せるメーカーの作品もその傾向が強い。膨大な選択肢に対して膨大な分岐を返してくるTYPE-MOON作品もインタラクティビティが高いといえるかもしれない。
 逆に、推理系の作品は総じて高いゲーム性を持つといえるだろう。また、狭義の「ゲーム」の成績がヒロイン攻略に直結する『こみっくパーティー』なども攻略性は高い。『ToHeart2』も近年では珍しく、フラグ立てがわりと複雑である。

 このように実際の例を考えてみればわかると思うんだけれども、インタラクティビティは比較的ミクロなレベルの要素であり、ゲーム性はマクロなレベルで語られるべき問題である。俺はより「ゲーム」の本質に近いのはインタラクティビティではなくゲーム性だと考えている。ある作品がゲームとして成立しているかどうかを考えるには、ゲーム性の方を問題にすべきということだ。
 つまり、インタラクティビティとは、ゲームの領域においてポルノをやることの利点であり(イリュージョン作品など)、ゲーム性とは、ポルノの領域におけるゲーム(未プレイだがLost Script『蝿声の王』などは適切な例だろう)の武器だといえる。

きゃっと・ふぃすと