Diary/2006-08-02
[アニメ]なぜリリカルなのはは少年漫画ではないのか
早漏気味に書く。そしてそろそろ続き観る。
少年漫画の定石に「敵を倒すともっと強くて悪い敵が出てくる」というものがある。いわゆる強さのインフレというやつだが、これは同時にかつての敵が味方に加わるプロセスをも内包している。
かつてのライバルが仲間になるということは、主人公サイドがライバルを感化するということである。相手の過ちを、あるいは己の正しさを認めさせるということである。
『ダイの大冒険』のクロコダイン・ヒュンケル加入の流れなどはわかりやすい。クロコダインは強さという価値観を信奉していた。ヒュンケルは人間への復讐に燃えていた。戦いに勝つだけでは足りないのだ。思想戦における勝利は、少年漫画的ライバル加入プロセスに必須の要素といえる。(弱いけど活躍するポップ、愛の戦士マァム。)
フェイトは何ゆえになのはと敵対しなければならなかったのだろうか。フェイトはそもそも悪人ではない。自身に目的というほどの目的もない。思想的対立にまでは発展していないのである。あえていうなら、成り行きで、というのが最も適切だろう。成り行きとは互いがジュエルシードを集めていたということで、それが戦闘行為に至った原因は、フェイトにとってのプレシアの存在以外ありえない。
フェイトは、自身の行いに問題があることを明確に理解している。無意識ではなく、理性を以て理解している。フェイトが「正義の味方」ポジションにあるなのはと対立したのは、「正義」より「母親」を優先したからだ。フェイトに正義を説く行為は全くの無駄である。そんなことはとっくに承知の上、それでも母親を見捨てられないのがフェイト・テスタロッサという少女であった。
ゆえに、「正義サイド」がしなければならないことは、フェイトに正義を説くことでも、プレシアを排除することでもない。「たとえ母親のためであっても、こんなことをするのは間違っている」ということを、フェイトに納得させなければならないのだ。フェイトにとっての母親を否定すること、そのプロセスを経なければ、少年漫画的ライバル加入シーケンスは発動しない。
本作における「正義サイド」のキャラクター、なのは、ユーノ、そしてアースラスタッフの行動はどうであったか。勧誘はした。行為は咎めた。だが、フェイトが過った根本的原因である、フェイトにとっての母親の存在は、奇妙なほどに無視されているのである。慕う人間のために、というフェイトが犯した悪事の根本を問題化しないまま、続編ではヴォルケンリッターと対立するというのか。必要なプロセスがすっぽりと抜けている。やはりなのはを少年漫画の類型として捉えるには無理があると考える次第である。
蛇足
言葉を尽くそう。「フェイトにとっての」を強調するのは、プレシア自身の善悪は問うていないということである。なぜなら、端的にはやてが善だからである。無印におけるフェイトとプレシアの関係が、A'sにおけるヴォルケンリッターとはやての関係に相似することは指摘するまでもないだろう。「主」が悪事を望むと望まざるとの違いはあれ、「主」のために過ちを犯すという点で両者は似通っている。
問題はプレシアにはない。フェイトの方にあるのだ。そこに突っ込まないのであれば、なのはのしたことはプレシアからフェイトを奪っただけであり、これは少年漫画の文法からは完全に外れるものである。