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Diary/2006-06-11

[エロゲー]主人公の復権とエロス

 相方向性と相互関係の時代というのを書いたが、当然博物士 - 美少女ゲームのパラダイムは4年で交代する〔仮説〕は踏まえている。
 いくらか見解の相違はあるが、頷ける分析だ。

 して。
 友人の栖哩さんから、『PRINCESS WALTZ』の話を聞いた。
 以下は聞いた話からの印象だけで書く。

 『Fate/stay night』と『PRINCESS WALTZ』は、対照的な形で主人公の復権を果たしているような気がした。

 何が対照的か。Fateはキモさの極地であり、プリワルは爽やかさの極地であろう。
 それは、具体的には、戦うメインヒロインであるセイバーとクリスへの対応の違いに表れているようである。

 士郎はセイバーを傷付けまいとし、新はクリスと共に戦おうとする(合体もする)。
 Fateでは女の子はエロスだけど、プリワルでは女の子はエロスではないのだろう。

 多くのエロゲーは、ヒロインを選択することによって物語が分岐する構造を持つ。そして、それぞれの物語は選択されたヒロインのものとなる。全ての分岐する物語がそうであるから、主人公は自らの物語を持たない存在となる。これが、いわゆるエロゲー的無個性な主人公である。
 自らの物語を持たない主人公が何を目的とするかというと、ヒロインを救ったり、幸せにしたり、モノにしたりすることとなる。その結果がどんな事象として描かれるかというと、セックスである。全てのエロゲー主人公が、ヒロインとあんなことやこんなことをするために行動するわけではないが、少なくとも、「ゲームクリア報酬」がそのようなものである以上、プレイヤーの意識もまたそのようなものになる。
 こうして、主人公はエロスに規定される。

 ヒロインのエロスに拮抗しうる物語を主人公に持たせることが、初期の「主人公の復権」だった。『斬魔大聖デモンベイン』の主人公が、ヒロインに伍する大きな運命を背負った人物として描かれたのはそれがためであり、両者を並立して描くことが「萌えと燃えの融合」だったのだ。
 Fateの主人公である衛宮士郎は、自らも重い宿命とトラウマを背負った人物として描写されている。そして、士郎自身の物語が、各ヒロインの物語と併走し、あるいは巻き込み、最後には潰し合うことになる。
 時にヒロインの意思より自分の主義を押し通そうとするのが士郎のエゴであり、そのように主人公とヒロインを対立的な存在として描いていることがFateから溢れ出るキモさの原因であろう。通常のエロゲーの文脈からすれば、士郎のエゴは異物でしかないからである。
 しかし、「怪物(ばけもの)」と称される士郎の異様さを以てしなければ、確かに存在するエロスを相対化することは難しい。
 エロスを相対化した上でその侵略を受け入れた桜ルートは、そういう視点から見ればなかなかにポリティカル・コレクトであり、TYPE-MOONの勉強の成果が見えるようではある。

 しかるに、プリワルのアプローチは、エロスを相対化するのではなく無効化することだったようである。
 プリワルのシナリオは一本道でなければならなかった。セックスしたヒロインを助けなければならないとなると、自らの物語を持たない新は容易にヒロインの物語に飲み込まれてしまうだろう。
 他のプリンセスとエッチをしても肩入れはせず、クリスと体の関係を持ちつつも友情を以てつきあうことで、基本的にクリスの物語に乗りつつも、新はヒロインからの自主性を得ているのではないだろうか。
 同時に、これは「あるヒロインを助けるには他のヒロインを見捨てなければならない」問題への解法ともなっている。もはやエッチできることはそのままそのヒロインに介入できるということを意味せず、新はクリスへの(極めて健全な)好意に基づいて彼女に肩入れするのみとなる。ぶっちゃけていえば、彼は本質的に女の子にキョーミがないのだろう。
 そんな子供っぽい奴をあえてエロゲーの主人公にする意味があるのかというと、あえてするから意味があるのである。ヤることはヤるがそこに引きずられず、あえてエロゲーで友情物語をやることに気持ちよさがあるのだろう。引きずられないだけならランスでもいいじゃん、という向きもあるかもしれないが、ランスは基本的に恋のできない男であろう。女の子と仲良くしたいという需要はあくまで強いと見るべきである。

 ちなみに、男女で合体というと、『ウルトラマンA』とか『VANDREAD』、最近では『創世のアクエリオン』あたりがある。これらはいずれも、対立する異質な性の合一をモチーフとしており、特にヴァンドレッドの合体はまんまセックスのメタファになっている。
 しかし、プリワルの合体にはそのような含みはなさそうである。どちらかといえば『ドラゴンボール』のフュージョンのほうが近いかもしれない。(プリーティアや魔法少女アイは違う気がする。)これは一つの意思を持つことの表現であって、クリスと新は同質のキャラクターであると見るべきだろう。キャラまるかぶりの主人公とヒロインというとやはり『プリンセスうぃっちぃず』が連想される。プリっちは同質化を激しく批判する作品である。男女ボーイズラブであるプリワルと比較してみるのも面白そうだ。

きゃっと・ふぃすと