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 繁華街を少女が歩いている。
 15、6歳に見える。快活そうな少女であった。晴天の昼下がりとはいえ10月も半ば過ぎ、半そでのパーカーとショートパンツの服装(なり)は少々寒々しいが、飄々とした表情に時折鼻歌を乗せて歩くのは、楽しげですらあった。
 それだけならば――少女がそれなりに魅力的で、露出度が高めだったとしても――風景の一部として、溶け込んでいるといってもよかったろう。
 問題は、彼女が背負っているバックパックであった。一抱えほどもある荷物は、その装いの中で一際浮き上がっていた。他人の荷物持ちでもやらされているような印象さえ与えていた。
 しかし、小柄な少女に荷物を持たせるろくでもない(バックパックのデザインからして恐らく)男は、近くにはいなかった。否、彼女はずっと一人で、巡視でもするように、一定のエリアを歩き回っているのだった。
 にも関わらず、まるで親しい誰かが傍らにいるように軽い足並みで歩くので、たまさか少女を目に留めた者は、少し、ぎょっとした心持ちを覚えるのだ。
 こと(・・)が起こったのは、昼めしを食う客足も、大凡、途切れた頃である。
 その時を注視していた者がいれば、少女の全身の毛が、猛然と逆立ったかのように感じたろう。それは獣の如き、鋭敏な感覚が危機を報せた時のような、同種の生き物に懼れを伝染させずにおかない反応であった。もし彼女が一目散に逃げ出した(・・・・・)なら、集団パニックが引き起こされたやも知れない。
 実際には、そうはならなかった。少女は、音もなく気配もなく、路地裏の暗がりへと霞の如く消えた。消えた事すら、誰にも感付かせずに。
 先ほど見せた草食獣の表情とは全く反対の、狩りに赴く運動であった。
 
 都市の路地裏には、秘密が蔓延っている。
 リンチを行う若者、違法ドラッグを捌く売人、居場所を失った不法入国者、我慢の利かない恋人たち――これらの人種は、いるところには確かに存在する。もちろん、彼らの多くは夜行性(・・・)なのだが、昼間の街が、隅々まで明るいということもない。
 さて、ここに一人の男がいる。
 職業は、会社員である。といって、代紋隠した闇企業というでもない。まっとうな保険会社であった。商売繁盛し、忙しく働く日々である。
 それに充実を覚えないでもないし、遅くに社を辞して仲間と、あるいは一人で酒を嗜むのも悪くはない。しかし、仕事場にも盛り場にも、女との不作為(アトランダム)な出会いはない。それだけが困り事であった。
 それゆえ彼は、遅めの昼食を手早く済ませた後、行きずりの女を勧誘(・・)し、こうして真昼の闇にしけこんで(・・・・・)いるのだった。
 ぬちゃり。
 くちゃり。
 湿った音が響く度、大学生ふうの女がびくびくと痙攣する。
 意識などすでに失っていたから、その体が反応しているだけというべきかもしれない。
 もっと言えば、彼女はとうに、命まで失っていたのだが。
 ぬちゃり。
 くちゃり。
 音の出所は、女の体内に差し込まれた男の手であった。もっとも、過激な種類の性行為を行っていたわけではない。細く骨張った手は、直接女の腹にめり込んでいる――皮も肉も裂くことなく。
 ただ彼は、女の内臓をひとつずつ掴み、撫でさすり、握り潰しているのだった。
――ああ、そろそろ職場に戻らなければ。
――喉を潰して意識を断って……随分と手際良くやれるようにはなったが、20分やそこらではまるで楽しみ足りない。
――未練たらしくてはいけないな。こんなところでは、いつ誰がやってくるかわからない……
「どえりゃー!」
 がごん!
 今度響いたのは、乾いた硬質の激突音であった。
 気配を殺して男に忍び寄っていた少女が、突如としてバックパックを男の側頭部へ向け振り抜いたのだ。
 男は2メートルも吹き飛んで倒れ、支えを失った女の死体は崩れ落ちて、穴という穴から赤黒いペーストを垂れ流した。
「はいはーい、お楽しみ中にゴメンねぇー」
 少女は、女を一顧だにしない。
 男も、たった今しこたま張り飛ばされた事に怒りも、痛みも感じていないように、ゆったりと立ち上がった。
「……なにか、僕に御用かな?」
「いぇい! まさに御用だぜ! 年貢の納め時ってやつだよ、殺人鬼さん?」
 決定的な現行犯を押さえられた男は、しかし微笑すら浮かべ、冷静さを崩さない。腹膜内を掻き回している間と、さして変わらない様子である。
 狩人(・・)の立場は、いささかも揺らいでいない――という事か。
「僕らが本性(・・)を表している間は、あまり人は寄ってこないようなんだけどね……。ひょっとして君が、噂の女の子なのかな」
「? へえ。あたし、噂になってんだ?」
 バックパックを弄びつつ、少女は問い返す。
「少しだが、横の繋がりがあってね。同類が起こしたらしき事件が終わる頃、バックパックを背負った女の子が見かけられることがよくある――とかないとか。その程度だよ」
「ふぅーーん。うん、まあ、そう。多分それ、あたし」
「それはそれは。つまり、君が僕に年貢を納めさせる(・・・・・・・・)という事かな?」
「そういうコトだね」
 笑みが深まる。
「それでは、この説はどうかな。ある仲間が言っていた事なんだが、その女の子がもし僕らのようなのを潰して回っているのなら――それができるのなら、彼女も同類(・・)に違いないと。正直、漫画の読みすぎと思ったがね」
「ちっちっち、甘いぜおじさん。むしろ、おじさんが漫画を読まなすぎなのさ。だから、こんなベタな展開も予想できない」
「予想と想定は違うんだよ。学生さんにはわかりにくいかもしれないがね」
 そう、男は少女の来襲を予想してはいなかったが、備えてはいた。だから不意打ちにも混乱しなかった。だから雑談のような会話を交わしながらも、戦闘態勢はとうに整っている。
 狩人と狩人の戦いが始まっていた。
「じゃあ、始めるけど……すぐに終わるよ、殺人鬼さん」
 少女が動いた。バックパックから、あるものを掴み出す。男の目が、わずかに細められた。
 それは、頭蓋骨であった。成人男性のものと思しき白骨である。壁に凭れて染みになりつつある女より、なお死体といえた。
 にもかかわらず、この溢れ出るようなエネルギーはなにか。
 対面の男も動いた。最速最短の攻撃で命を奪うことを決意していた。好みのタイプだが――厄体もなくこぼれる思考を余所に、活性化しきった狩猟本能は一部の無駄もなく肉体を運ぶ。油の滑るが如く、柔らかい舞の動きで、目にも留まらぬ素早さの貫手を繰り出した。
 少女は、迎撃しなかった。その代わり、頭蓋骨の前歯(・・)あたりに、この緊急時にしては随分と勿体付けてキスをした。
 頭蓋骨から背骨が生まれた。骨盤が生まれた。大腿骨が生まれた。肩胛骨が生まれた。脊髄が生まれ神経が生まれ、筋肉が生まれ血管が生まれ、内臓が生まれ眼球が生まれ、毛髪が生まれ唇が生まれ、一連のプロセスが終わってみれば、中腰になった裸の青年が少女と唇を触れ合わせ、必殺の貫手が、少女の脳を抉る前に青年の後頭部に激突していた。
 ばちん(・・・)
 高圧電流に触れたような音とともに、男の右手が後方に弾かれ、勢い余って肩を脱臼した。
 彼はこの瞬間、かつてこの二人に狩られた(・・・・)同類たちの末路を大凡、悟っていた。
――蓄えたエネルギーの総量が違いすぎる。
――こんなことが可能になるのは、恐らく……
 男の直感は、自らの身をもって証明されることになる。
 胴体を狙って放った左の貫手は、青年が振り返りざまの裏拳でぐちゃぐちゃに砕かれ、続けて繰り出された前蹴りがみぞおちあたりに大穴を開けて、殺人鬼「内臓潰し」はあっけなく絶命した。
 しかし青年はまだ止まらない。倒れかける男の襟首を掴むと、頭蓋骨にかぶり付いた(・・・・・・)。咀嚼もそこそこに飲み下し、目の前の死体に文字通り牙を剥く。ほとんど人ひとりを丸飲みのようなありさまで、食事には10分もかからなかった。60kg程の質量は元からなかったかのように消え去り、青年の口に食い滓すら残っていなかった。
 このとき、遊びに来ていた者たちは潮が引くように街を離れ、仕事でその場を離れられない商店主などは、急に体調を崩して病院に担ぎ込まれる者もあったという。
 
 バックパックの中には、青年の服も入っていた。隠す物を隠し終わると、青年はひとまず、少女をしばいた。
「いっ、痛いよ!?」
「お前その返しは絶妙にバカだぞ? なあ、なあバカ、俺の頭蓋骨を乱暴に扱うなっつったよな? 何度も何度も言ったよなあ?」
「いいじゃん、壊れやしないんだから」
「違うの、出て(・・)きた時に頭クラクラすんの! そんでなんかミスしたらスゲーバカバカしいだろうが!」
「…………だって、テンション上がっちゃうんだもん」
 少女は、見る影もなくしょんぼりと俯いた。そうなると、青年もあまり厳しく言えなくなってしまう。
 普段の自分は頭蓋骨で、連れ立ってどこかに出かける事も、会話を交わす事もできない。本当はできなくもないのだが、無闇矢鱈と変身(・・)していては、いつまで経っても目標に近付けない。
 だから、二人にとっては、狩りの後の数時間だけが、二人で過ごせる時間なのだ。多少、言動が奇矯になるくらいテンションが上がっても仕方ないし、実際青年の方だって、獲物の気配を感じては、薄ぼんやりした意識の中でなんとなく盛り上がっているのだ。
「次から気を付けろよ」
「うん」
 なので、こうしたやりとりは、照れ隠しのようなものだった。
「今日は6時間くらいいけっかな?」
「とりあえずラーメン食べ行こうよ。そのあとこのへんぶらぶらしてアクセとか買ってぇ、3時間くらい残して帰ろ。今日はゴハン作ってね! カレー!」
「ラーメンにカレーかよ、太るぞ。つーか少しは料理を覚えろ」
「あんないっぱいスパイスあって覚えられるわけないじゃん! あたしは一生、カレーは食べるだけにするの」
「それじゃあ、俺は一生カレー係だなあ」
「よろしくね、お兄ちゃん!」