なぜ僕は『CLANNAD』に期待するのか

 日頃このサイトをごひいきにして下さっている方にはおわかりかと思いますが、僕はどちらかといえばアンチKeyです。Kanonしかやってませんけど。(というか、だからこそ後学のためと思ってもだるくてやる気がしないんですが。)
 で、なぜKanonがダメだったのかというと、こちらにも書いたとおり(つかリンク切れてたよ。しかも内容しょっぱいよ。書き直してえ)人間の能動的努力を否定する内容だったという一点に尽きます。物語の焦点がヒロインと主人公のトラウマ解消にあって、両者の関係を描写することに労力が注がれていないのも結局同根の問題です。確かにヒロインはかわいい。しかしながら、そこに恋はなかったんです。Hシーンが薄いのみならず無味乾燥なのもそれが原因でしょう 。主人公が比較的能動的に動く舞ルートでもやはりその問題は解決されていませんでした。お前は本当にその子が好きなのか?(手法はどうあれ)せっかく魅力的なヒロインと美しい雰囲気を作り出しているにもかかわらず、肝心の恋愛感情がものの見事に無視されているために「恋愛AVG」としてはノりきれなかったんです。
 では、CLANNADは、どうか。

 早期から示されていた「街と、そこに住む人々」というコンセプト。膨大なボリューム。そして、Kanonではほとんど見られなかった日常の情景のCGに、なによりキスシーン。公開されたこれらの情報から導き出される方向性は、きっとヒロインとの関係を事細かに描写していくものになるのだろうと、半ば願望混じりで思っていたわけです。坂上さんのお味噌汁がどうのと言ったりしたのも、単純にそういうのが萌えというのもありますが、それ以上にあのシーンをKeyの作風の変化を示す象徴的シーンと捉えていたためです。
 それは、雑誌収録のデモムービーからも読み取ることができました。挿入されるセリフが、実に前向きなんです。
「もし、できるなら…演劇部をまた、作りたいです」
「当然だ。付き合って、不幸になどなってたまるものか」
「きみは…そうしたいんだよね?」「もう、泣くのはやめて、前を向いていた。」「そうしたい。」「僕は、前を向いて、力強く頷いていた。」
「この街と、住人に幸あれ。」
「俺たちは登り始める。」「長い、長い坂道を。」

 これは戦いです。なにかを得るための。与えられたものをまた奪われることを恐れるだけのKanonの精神的態度とは明らかに違います。
 ま、相変わらずのトラウマ解消劇が容易に予想できる設定もきっちりあるわけですが、それはそれでかまわないんですよ。それだけ・・・・だったのが嫌だったわけで、きちんと恋愛をやった上で物語の本流としてそういう展開を用意するんだったら文句はありません。実際そういう作品はいくらでもあるわけですが、やはりそこは本家本元の質と格の違いを見せて欲しいと望むのは自然でしょう。

 ところが、「世界に一人取り残された少女の物語」なんて言い出しちゃったもんだからこっちとしてはたまらない。正直言ってね、どうでもいいんですよ、そういうの。それがKeyのお家芸なのは理解してますし、それはそれで面白そうではあるんですけど、根本的な問題がなに一つ解決してないでしょ。恋愛AVGと銘打って、女の子との関わりを中心に物語を組み立てているのに、またひたすら怪奇現象が続く話作られても困るんですよ。それとも、恋愛要素がないのと後ろ向きな精神的態度を結び付けた僕の解釈が間違ってて、ちゃんとポジティヴな話にはなってるんですかねえ?
 それがKanonではまったくできてなかったから栞EDでも安堵感はあっても幸福感を感じることはなかったし、メインキャラよりむしろそういう人間的関わりの描写が充実していたサブキャラに萌えたりしてたわけで。だから別におばさんくさい娘とか頭良くてキツい娘が好きとかいうだけの話じゃないんだって!

 つまるところ、僕がCLANNADに期待してるのは美汐ルートや香里ルートだったわけですね。よくよく考えてみたらそんなもん作ってくれるわけねえわなあ。作ってくれないかなあ美汐ルート。絶対あゆルートの万倍面白いと思うんですけど。