翼のないぼくたちは
いかにして
生きてゆくか

もりやん

目次

ノベルゲームの挑戦

練り込まれた構成・システム

シナリオ

 『俺たちに翼はない』はオムニバス形式をベースとしています。すなわち、複数の主人公がおり、それぞれの視点で語られる物語の集合として全体が成り立っているのです。
 各章は部分的にはパラレルに進行しており、ルートによって事実が異なってくるのですが、完全に共通する部分や、いわゆるマルチサイト、一つのできごとを複数の視点から描いている部分も少なくありません。複数のシナリオをつなぎあわせることで全体像を明らかにする手法は、マルチシナリオの古典的かつ有効な作劇法の一つです。同時に、同じ出来事の複数の側面、複数の解釈を描くという、文芸的なおもしろさにもつながっているといえます。
 オムニバス形式は、マルチシナリオにおいては物語的な矛盾を発生させない機能を持っているといえますが、一方で受け手の感情移入を難しくする面があります。主人公が一人であるほうが、そこへの感情移入が容易になるとはいえます。
 そこでこの作品は、さらなる仕掛けとして、各章の主人公を同一人物の別人格としています。それぞれの主人公に分裂した認識を、再度統合する道を作っているのです。
 そして、最大の特徴といえるのは、プレイヤーの代行者としてのキャラクターが各章の主人公ではなく、彼らを見守る人格――終の子として別に用意されていることです。各章の冒頭に挿入される幕間は、主人公が終の子に話しかけるという形式になっており、終の子の存在を最初から確認させています。これにより、プレイヤーは視点の分裂を免れ、さらに終の子と主人公が同一人物であることによって統一的な感情移入への経路は残されているのです。
 こうした先鋭的な仕掛けの対として、あるルートをクリアすることで別のルートが攻略可能となる定番の仕掛けも用意されており、構造的・システム的な面ではまさにノベルゲームの集大成といえる作品です。
 プレイヤーとPCが強く同一視されるゲームというメディアにおいて、「主人公の認識」の問題は常に意識されるものといえるでしょう。
 プレイヤーである我々の認識はどこまでPCと同一視できるのか。PCの視点を通してゲーム世界を見るプレイヤーにとって、カメラである主人公の認識がどうあるのか――そしてそれを扱うメタフィクションというジャンルは、ゲームシナリオにおいてたびたび取り扱われてきたテーマです。
 主人公の抱える解離性同一性障害という障害、そして主人公の認識においてのみ存在する異世界「グレタガルド」を通じて、この作品は「認識」の問題をストーリー面でも描いています。さらには、その「認識」をいかに変えるかということが、ストーリー上の最大のテーマとなるのです。
 エロゲー――美少女ゲームにおいてはヒロインこそ中核であり、そこでは主人公が主人公であるにもかかわらず非常に存在感が薄くなるという問題が長らく語られてきました。このように、作品全体の構造に絡めて主人公自身の問題を語ることは、主人公の存在感低下という事態に対する明確な回答といえます。
 ただし、こうした技巧を凝らしつつも、『俺たちに翼はない』は必ずしもそこに力点をおいてはいません。実のところ、それぞれのシナリオで最も重きを置かれているのは主人公の過ごすヒロインとの日常のあり方であって、シナリオライター・王雀孫一流の快活な日常描写が存分に発揮されています。
 美少女ゲーム、ノベルゲームという形式への問いかけを含んだ、ある意味では危険なアイディアを採用しつつも、そこに寄りかからない、ある意味では「力の抜けた」作劇は、こうした作品群がいくつも作られ、経験されてきた2009年なればこそ、受け入れられうるのではないでしょうか。大幅な延期を繰り返してきた作品ですが、それが奏功しているともいえます。

プログラム

 プログラム面でも、ノベルゲームシステムとして完成の域にあります。オートモードやスキップを初めとするインターフェース関連機能は完備されており、高機能かつ軽量・シンプルです。ただ機能を詰め込んだだけでなく、必要性の低いコンフィグ項目が削ぎ落とされているのも評価に値するでしょう。ビジュアルデザインも美しい。シーンスキップ、キーボードカスタマイズなどの標準的でない機能も搭載されており、プレイ感は極めて快適です。

演出

 視覚演出については、特筆すべき逸脱した点はありません。例えばアニメーションや後ろ向きの立ち絵、カットインやスクロールなども採用されておらず、ベーシックな立ち絵芝居にまとまっています。ただしその完成度は極めて高く、表情パターンの選択とその切り替えによる表現、モーションのタイミングの心地よさは最高峰に位置します。原画は毀誉褒貶激しい西又葵ですが、立ち絵の安定したクォリティは評価に値するでしょう。一枚絵のシーンについては特段の工夫はなくやや残念ではありますし、一枚絵を大量に投入するような方向性でもありませんが、ベーシックな演出システムにおける職人芸は一見の価値ありです。
 ボイスはかなり特徴的といえます。主人公も含めて男性キャラクターは豪華キャストで、その高い演技力は作品の魅力を大いに高めています。とはいえ、男性の一流声優起用は昨今珍しくなく、それをもって特異とまではいえないでしょう。
 特色が出ているのは女性の演技です。ヒロインの音声演技は総じて抑制的で、エロゲーにありがちな極端な感情表現は控えられています。可愛いラインは押さえつつ、過剰さを抑えた演技は「それはきっと何処にでもある、ありふれた物語」という作品性にマッチしており、一貫した演技指導の狙いがあったことを伺わせます。そして、全体的な演出の一環として成功しているといえるでしょう。
 このように、『俺たちに翼はない』では既存の作品を踏まえた落ち着いた作品づくりがなされており、目の肥えたノベルゲームファンを満足させうる水準に達しているといえるのではないでしょうか。

翼がないのは誰?

主人公とヒロインの力関係

 『俺たちに翼はない』というタイトル。これは明らかに、主人公の存在を強く意識させるものです。エロゲーのタイトルで主人公に焦点が当てられることは希有です。
 一般的なエロゲーではヒロイン側の内面的・外圧的問題をクローズアップし、ヒロインの内実に迫っていくこと、そこに主人公がいかに関わっていくかがストーリーの主軸となります。
 そして、ヒロイン側の問題、事情が恋愛関係上でも鍵となり、ヒロインが主人公を引きつける重力場となるか、あるいは二人の関係の発端となることがほとんどです。
 一方で、『俺たちに翼はない』の各章タイトルは主人公名を関しており、ストーリーの軸は主人公よりにあります。これは特にタカシ編に顕著で、主人公の抱える問題に対してヒロインの側が関わろうとする物語展開となっています。
 これは、主人公がヒロインを引きつける、二人の関係の発端となるという、典型的なシナリオ重視型エロゲーとは逆の局面といえます。
 ただし、一見強烈な“個性”であり、実際に物語の鍵でもある主人公の解離性同一性障害ですが、一方で、かなり「実在の精神疾患」に近い描き方をされています。つまり、医者が治せる病気であり、珍しいがふつうに見られる“症例”とされているのです。実際に、山科京の知人に主人公以外の解離性同一性障害患者がいることが語られています。
 もちろん解離性同一性障害は物語上重要な要素ではありますが、それは必ずしも“特別”なこととはされていないのです。
 そして、『俺たちに翼はない』では、主人公(またはヒロイン)の抱える問題をストレートに解決しようとすることが、そもそも志向されていません。むしろ良好な関係を築くことでそれに対処できるようになる、というストーリーなのです。
 そのエンディングは、「俺たちの戦いはこれからだ」エンディングとでもいえましょうか。各エンディングとも、エピローグでは専門医の治療を受けているとされており、本編中で問題が完全に解決されるわけではありません。
 つまり、主人公とヒロインのどちらも決定的に重要なわけではなく、むしろ、「俺たち」の関係こそを焦点とするシナリオなのです。主人公・ヒロインいずれの問題も、二人の関係を築いていく上で遭遇する一要素にすぎません。
 主人公にとって主人公がどういった存在なのか、ヒロインにとって主人公がどういった存在なのか。『俺たちに翼はない』はそういった一方向的な視点ではなく、二人の関係がどういったものであるのかを描いています。これは、複数の「関係」を描くオムニバス形式によくマッチしています。

俺たちみーんな翼がない

 主人公の解離性同一性障害が精神病理学上の疾患として描かれていることは先述の通りですが、それ以外の登場人物にも、精神疾患の設定がかなり広く共有されています。

京「うん、そんな感じ。実は結構いるよ、心療内科いったことある子。すぐ良くなっちゃうから目立たないだけで」
京「昭和じゃないんだから……いまどきメンヘル通いくらい、珍しくもないでしょう」

 という、『俺たちに翼はない〜prelude〜』での京の台詞にもある通り、精神疾患は珍しいが普通にあることとされています。これは、主人公・ヒロインの精神疾患が必ずしも特別なものではないと定義すると同時に、その他の登場人物、もっと広げてどんな人間にもそれなりに事情がある、という認識を示すものです。
 精神疾患以外にも、不登校児(鳳鳴・香田亜衣)、薬物使用者(チケドン)、浪人生(望月紀奈子)や、挫折した役者(プラチナ)にいたるまで、ほとんどの人物が某かの問題を抱えているといます。特権性の排除――これは、『俺たちに翼はない』の希有な特色といえるものです。
 千歳鷲介編ヒロインである玉泉日和子は商業小説家です。それ自体は特に珍しい設定ではありませんが、特徴的なのは編集者の登場です。これは例えば『ef - a fairy tale of the two.』と対比できる点でしょう。また、主に登場するのが日和子の担当編集ではなく、鷲介の担当であるというのが珍しい構図で、鷲介は彼女を通して作家・細川玉木を知っていく局面がいくつかあります。日和子が文芸の世界を背負っているのではなく、ただ文芸の世界に関わっている女の子、という描き方なのです。
 日和子は「作家」という属性だけでは定義されていません。ファミレス「アレキサンダー」でアルバイトしていたり、そこでバイト仲間との関係をもっていたり、担当主人公である鷲介はその様子を知りませんが学校にも通っています。作家といえど、その他の顔も持っている――その全てを知り得てはいない――普通の人間なのです。
 また、鳳鳴・香田亜衣は不登校児として設定されていますが、鳴がそういった子供たちが図書館に何人もいることを語っています。また、それさえも夜の街に集う子供たちの抱える事情の一つにすぎないのです。
 このように『俺たちに翼はない』では「生き難さ」が誰しも共有する問題として語られており、普遍性を獲得しているといえます。

「……で、おまえ誰?」

プレイヤーはいかにして主人公に感情移入するか

 ゲームメディアにおいては、プレイヤー=プレイヤーキャラクター(以下PC)という構図が成り立ちます。すなわち、プレイヤーのPCへの「自己投影」です。これは、ゲームの持つインタラクティブ性――プレイヤーがPCを代行者として、世界に影響を与えるという特性から、必然的に導かれるものです。
 これは、物語における「別人としての主人公に対する感情移入」とは似て非なるものです。
 そして、物語作品としての完成度を高め、主人公に有意な働きを行わせようとすれば、しばしば主人公は「別人」としての自我を獲得していき、プレイヤー=PCの図式からは離れていきます。「プレイヤーとPCの関係」は、ゲームシナリオにおいては古くて新しい問題といえるでしょう。
 『俺たちに翼はない』では、オムニバス形式を採用した時点で、プレイヤー=主人公の一対一対応は破綻しています。
 さらに、「終の子」の存在が、「物語の主役」と「PC」を分離しています。終の子は、『ドラゴンクエスト』シリーズの主人公のように、全くセリフがありません。プレイヤーはまず終の子に対してプレイヤー=PCの一対一対応を見いだすことになります。
 そして、終の子が分裂人格の一つであることが、「PC」と「主役」に統合の道を示しています。ここでは、プレイヤーはPCである終の子を通して、それぞれの主人公につながっていくのです。
 そして、各ルートで必ず行われる人格統合により、複数の「主役」はただ一人に収斂することになります。
 ここで面白いのは、どのルートでも「終の子」は統合されないことです。タカシ・鷲介・隼人・伽楼羅・ヨージの各章主人公全員が統合される最終ルート・羽田鷹志編においても、終の子だけは最後まで統合されず残るのです。ただし、終の子は人格統合を目指す意志を持っているとされますので、羽田鷹志編では「主役」と「PC」の間で意思の統一――「感情移入」は、成立していることになります。
 PCを操作してゲームクリアを目指すゲームとしての面白さを成立させる上では、プレイヤー=PCの構図は必要欠くべからざるものといえます。一方で、物語――「別人の人生」を読む面白さを最大限発揮するには、その主人公は読み手と同一であってはならないともいえるでしょう。ゲームシナリオで、一人の「主人公」が「主役」と「PC」を兼ねる限り、両者は究極的には両立しないということになります。
 「終の子」が最終的に統合されないことは、別の人生を生きる別人としての「羽田鷹志たち」を活躍させつつ、終の子はあくまで完全なプレイヤーの代行者――あるいはプレイヤーそのものとして存在させ、そして完全に同一のものとしては存在できない両者を、分裂状態・統合状態を含めた「羽田鷹志」という一人の人間のありようとして収斂させています。
 「……で、おまえ誰?」 なのか。プレイヤーであり、タカシ/鷲介/隼人/伽楼羅/ヨージであり、「羽田鷹志」でもある何者か――。『俺たちに翼はない』におけるプレイヤーと主人公の関係は、そうした曖昧ながら確かなつながりをもったものとしてあります。

ありふれた物語

白黒つけない

 この作品の作劇手法上の特徴として、善悪・正誤などを決定しないことが挙げられます。価値観を規定しないのです。
 タカシを苛める高内はタカシルートにおいては「敵」ともいえる存在ですが、タカシ自身は彼女を嫌っても憎んでもいません。それはタカシの「悪意を認識できない」という精神的欠陥によるものなのですが、そのことも明日香によれば「羽田君みたいにすべて前向きに想像できる人間になりたい」とされ、単純にネガティブにはとらえられていないのです。また、高内がタカシを全く嫌っているわけではなく、むしろ「〜一年のころ羽田君に色目使ってた」ことも語られています。
 鷲介編では英里子と日和子の対立が幾度も現れます。細川玉木の第二作『米寿』に対する評価や、接客についてなどです。これは基本的には英里子が正しいのですが、決定的な結論は出ず、物語の焦点は二人の関係の修復に当たります。
 隼人編ではチーマー同士の抗争が描かれており、暴力沙汰にまで発展するのですが、やはり柳木原フレイムバーズ・R-ウイングの両チームが決定的に糾弾されることされることはありません。どちらも隼人のゆるやかな友人である点に変わりなく、隼人編ではやや否定的なニュアンスが与えられるものの、その後の鷹志編では、その本質は変わらないまま、肯定的なニュアンスに転じています。
 例外は大司教ですが、これは主要登場人物や舞台となる社会によるものではありません。ヤクザから拳銃を奪ったことでヤクザに粛清されたもので、やや例外的です。
 鳴・香田亜衣の不登校の解決も「すべきこと」ではなく、「いつかはすることになる」程度の表現にとどめられています。学校に適応した鳴は、必ずしも幸福ではありません。
 また、メンマのラーメン屋台に集うメンバーについては、以下のような言及があります。

春恵「あァ、これが不思議なもんでね。ここに集まる面子ってなあ、ある時期パァーッと盛り上がるんだけど、なんだかんだで長くは続かないのさ。その期間ってのはなァ、大体いつもこンくらいでね」
メンマ「職場が変わったり、生活が変わったり、他にもまあ、いろいろあるからな。それは仕方ない。みんなの再出発やリリタイアを見守ってるうち、気付いたら俺とパルだけ最古参になっちまってた」

 特別なできごとがなくとも、各々勝手に自分の居場所に帰っていくわけです。これも「そうするべき」という話ではなく、単に「そういうもの」だという認識を示したものにすぎません。
 羽田鷹志の最も破滅的な人格であり、表に出れば暴力を振りまく伊丹伽楼羅ですら、ある種の犠牲者であり、「兄」と「妹」を想う人物であるともされています。
 これは、純粋な悪人などいないという主張ともとれますが、それよりもなにが善でありなにが悪であるか、という価値観自体を定めていないと見るべきではないでしょうか。
 価値観はストーリーの根本です。「他人の人生」を某かの意味をもって語るには、それを意味づけるための価値観が必要といえます。逆に言えば、ある価値観に基づいてキャラクターを描くことは、キャラクターを物語の奴隷と化してしまう危険性を孕んでいます。
 森里のしたことを“悪”だとしてしまえば、彼は“悪役”――物語において悪を行うために用意されたキャラクターに見えてしまうでしょう。しかし『俺たちに翼はない』においては、彼は彼なりの事情に基づいて、翼を求めて生きている。この作品は、はある意味では物語ではなく、「他人の人生」の集積そのものだといえます。
 その点において、各章ヒロインもまたなんら特権的なキャラクターではありません。むしろ特権性を丁寧に排除されているとすらいえます。
 例えば、渡来明日香はこの作品における「プリンセス」であり、Navelの前身であるBasilの代表作『それは舞い散る桜のように』における星崎希望同様、校内No.1の美少女として知られています。しかし、学校外の社会をも描いているこの作品ではその権威は絶対ではなく、必ずしも作品世界で一番の美少女ともまではいえません。
 玉泉日和子も、その悩みは作家特有のものではなく、一般的な人間関係の悩みに落とし込まれています。そして焦点となる英里子との関係自体、これといって特別なエピソードのない、どこにでもある友人関係です。
 鳳鳴は、夜の街に傷つき逃れてきた大勢の子供たちの一人として、その存在はほとんど埋没しています。
 羽田小鳩は、もちろん各ヒロインの中でも重要な位置を占め、特に人格統合においてはキーとなる存在なのですが、一方で恋愛対象としては、他のヒロインと比べてとりわけ優先されるものではありません。それぞれの分裂人格にとっては、他に最愛の女性がいるのですから。そもそも人格統合自体、作中で絶対的な正解とはされていないのです。(これは現実の解離性同一性障害治療においても同様であるようです。)
 オムニバス形式を取る以上、全体を見下ろす視点からは各章ヒロインは相対化されます。各章ヒロインは、それぞれの人格にとっては唯一の女性ですが、そもそも鷹志を含む各人格が唯一の「羽田鷹志」ではないのです。
 また、『それは舞い散る桜のように』と比較すると、『俺たちに翼はない』からは超自然的な要素がほとんどなくなっています。
 『それは舞い散る桜のように』の主人公である舞人、そして桜香・朝陽は、明言されていないものの桜の精のような存在だとされています。そして『それは舞い散る桜のように』の重要なギミックである「記憶喪失」は、そうした存在の超自然的・魔法的な働きによりもたらされていると考えられます。それに対して、『俺たちに翼はない』で起こっている記憶喪失などの現象は、基本的に精神病理学的に説明できる現象であり、現実に起こっているそれと同様のものです。
 『それは舞い散る桜のように』では現実との明確な区別が難しい形で描かれていた主人公の心象世界も、『俺たちに翼はない』ではかなり厳密に現実と切り分けられています。というより、「幻覚」という「現実」なのです。
 また、この作品の舞台である柳木原は架空の都市ですが、実在の都市名が登場することから、少なくとも日本国内に存在することは明らかです。エロゲーに実在の都市名が登場することは極めて稀です。
 唯一、平行世界に言及するDJコンドルの存在だけが自然科学的な説明が難しいのですが、それ以外の部分はエロゲーとして珍しい、苛烈なまでのリアリズムに基づいて構成されているといえます。これは、作中で描かれている出来事を、「リアル」な人生として意識させるものです。
 「他人の人生」の集積。それは、我々プレイヤー自身の翼なき人生と、同じ意味を持つものです。
 そして、こうした特徴が、この作品を、エロゲーとしては極めて珍しい、真正のラブストーリーとして成立させています。
 恋愛とは、近代に生きる人間にとって最大の共通テーマであり、それを描くことはなんら特別な価値観によらずとも多くの受け手を感動させる力を持ちます。それゆえ、特定の価値観に基づいた教条的な作品や、いわゆるエログロバイオレンスに代表される快楽原則に基づいた作品を除く、多くのエンターテインメント・フィクションが恋愛を主題としているのです。
 『俺たちに翼はない』は、エロゲーというよりはむしろトレンディドラマや映画作品にも近い、ただ恋愛としてある恋愛を描いた作品といえます。その本質はやはり、ある種の幻想文学めいた精神世界の描写や、バトルアクションなどのスペクタクルよりも、日常描写――ただの人生、ただの生活の描写にこそあるのではないでしょうか。

「俺たちに翼はないこともないらしいぞ」

 この作品の中核となるモティーフである「翼」とは、果たしてなんなのでしょうか。

鷹志「でも、おれは……この先どうしたらいいか分からないんだ」
明日香「えっ」
鷹志「おれは渡来さんみたいに翼があるわけじゃないんだよ」
明日香「だから、私はっ……」
 渡来さんの手が僕の胸から離れた。彼女は自分の胸の前で、押さえるようにその手を合わせる。
鷹志「おれたちに……翼はないんだ」

 自らの心の拠り所であったグレタガルドが妄想にすぎないと気付かされたとき、タカシはこのように独白します。
 幻想の住人である伽楼羅の章タイトル画面における象徴物は、異形の翼となっています。
 すなわち、翼とは空想である、とはいえます。そして、ここでいう空想とは、自らを傷付け追いつめる現実から逃れるため、羽田鷹志が作り出した逃げ場所です。
 明日香の「弟」を初めとするその他の人物の精神疾患も、その多くは現実の圧力を逃れるために要請された防衛機制の一種です。
 また、隼人編における柳木原フレイムバーズやR-ウイング、もっと進めて夜の街自体、日々の生活から一時的に逃れるための「もう一つの世界」です。これは以下の台詞に端的に表現されています。

春恵「そういや、むかし誰かが言ってたな。いつも違う呼ばれ方をする共同体の中に入ると、そんだけでなんだか生まれかわった気分になれる……とかなんとか。プラチナだったかな?」

 日和子のタマイズムと呼ばれるマニュアル主義も、傷つきやすい内心を外圧から守る「殻」ともいえます。マニュアルに従っている限りは、自分を責めずに済む。
 また、紀奈子が、受験勉強の重圧から逃れるために、毎日のようにアレキサンダーに顔を出しているのは明らかなことです。
 彼らが求める「翼」とは、空想に限らず、辛い現実から逃れるための手段全般のことだといえるでしょう。
 すなわち、冒頭にいう「どこにも繋がってない空」――現実が追いかけてくることのない逃げ場所です。
 しかしながら、作中にも描かれている通り、彼らがたどり着いた逃げ場所は、決して安住を許すものではありません。社会が、時間が、自意識の変化が、彼らをどこまでも追い立ててゆき、目を背けても自らを取り巻く現実からは一歩たりとも脱出することはできない。彼らに立ちはだかる問題はまるで泥寧のごとくに、立ち向かっても消え去ることはありません。絶対的な価値観のないこの世界では、どんな達成もそれだけで全てのしがらみから逃れることかないません。
 死は、現実のあらゆる状況に対して究極的な回答となり得ます。しかし、彼らの中にそれを望んだものは一人もいません。最後までまとわりつく「自我」という現実が、未だそれを許さないのです。
 少なくともこの作品において、現実は、決して死以上の「絶望」ではありません。しかしそれゆえに、死をもってして逃れることもできないのです。いや、針生蔵人にとっての死がそうであるように、死とは望んでも得られず、しかしいつかは必ず訪れものであり、現実とはそれさえ含んで成立しているものといえるでしょう。
 しかし、「羽田鷹志」の師ともいえる牧師は、このように語ります。

牧師「それでも羽ばたくことくらいは出来るんじゃないか。きっとおまえたち全員の力を合わせれば、この地上でも楽しく生きられるさ。なあ、おまえたち――」
牧師「俺たちに、翼はないこともないらしいぞ」

 現実から逃れることはできない。我々は生きていかなければならない。ここで描かれているのは、別の世界に旅立つことではなく、現実を塗り替えることです。
 「羽田鷹志」は、隣人と良好な関係を築き、それにより問題に向き合っていきます。しかしながら、現実の問題は、常に誰かが解決してくれるものでもなければ、力を合わせれば消しされるものでもありません。結局のところ、それはやはり認識の問題に結実するのです。

誰かが言ってたろ、チャンネル変えれば世界も変わるって。
タカシの空は、厳しい寒さに慣れてしまったくすんだ白だった。
隼人の空は、まばゆい輝きを覆い隠してくれる群青だ。
そんなふうに空の色が心のチャンネルで設定できるのだとしたら、そうだとしたら、俺たちの空はラブとピースとハッピーに満ちた華々しい薔薇色だ。
心に薔薇色のコンタクトレンズを被せた新しい俺。薔薇色の世界を生きる俺。ラビアンローズ俺。

 我々は、羽田鷹志の分裂した認識を通して、視点を変え、認識を塗り変える可能性を見ています。そして、「いまここ」とは異なる可能性を「空想」すること――自己の可能性の「探索」こそが、チャンネルを回す手段となるのです。まさしく、明日香がタカシの認識を変容せしめた通りに。
 めくるめく技法の数々を駆使して綴られた物語の結論は、「思い込めば現実は変わる」という、ありふれた――地に足着けて前向きな結論だったのです。

『俺たちに翼はない』