『俺たちに翼はない』という
「物語」

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目次

これは俺たちの物語。
俺たちに翼はないこともないんじゃないかなあ、っていう物語だぞ。

 「俺たちに翼はない」という作品では、絶対的なものはありません。正しい価値観や、特権的な誰か、現実にない出来事など、そういったことはないんですよね。でもそういった中でも、自分にとって特別な、そんなものくらいは見つけられるはずです。空を飛べなくても羽ばたくことくらいはできるはず。冒頭の言葉は、空を飛べるのと同じくらいの価値を持っているのだという、そんな宣言なんじゃないかと思うんですよね。
 物語を語るという視点から、それぞれの章の主人公達が終の子に向けて語った物語を見ていこうと思います。

物語の意義

──それはきっと何処にでもある、ありふれた物語。

 羽田鷹志シナリオでは、物語の意義というものについて考えてみたいと思います。現実との対比という意味で、ここでは物語を個人の夢なども同義としておきます。

「みんな笑ってるんだ……みんな輪になって、その真ん中に僕がいて……誰も傷付かない、ひたすら安らかな時間を笑いさざめきながら過ごしてるんだ……」

 このセリフは高内にひどいことを言われて、現実から逃げようとするときに明日香に語ったものです。彼のグレタガルドという物語は、現実の人たちを取り込んだ彼の理想です。登場人物にはクラスメイト達が時にその現実の名前として現れている。
 現実を拒否して物語へと逃げることは一般的に悪とされます。そのことによって、現実の問題が解決されることはないからです。
 しかし、俺つばという作品は物語に対し、そういった態度はとっていなくて。
 例えば、明日香は妄想の世界に逃げたとしても、「何かを持ちかえればそれは逃避ではなく探索。翼を探す旅」だと言います。心の中から持ち帰れるものは形のないものです。そして、彼がどんなものを持ち帰ってきたか、どんな影響を受けているかというと。タカシ君は、痛みを感じないという人格的ルーツから、他人を良いものだとして見るという性質、性格です。それは、彼の物語グレタガルドからも来ていて。
 文集の寄せ書きの時にクラスの周りからも高内が悪いという空気になったときに、にもかかわらず羽田君は、

「大丈夫。この空はどこにも繋がっていないんだ。ここはとてものどかな国で、心のやさしい人しかこの国にはいないんだ」

 と言うんですよね。ここで語られる描写は、作品冒頭に流れてくる「翼人が追いかけてこない、とてものどかな国というメルヘン。」というグレタガルドの世界観や、彼が見た夢のものです。
 このタカシ君の認識は、そんなメルヘンを現実と混同しているとも言えます。傍から見た時に、「心のやさしい人しか」いないのか、と言われると疑念がある。しかし、そういう彼の認識と、その行動こそが皆に認められたんですよね。そして、渡会明日香が憧れた羽田鷹志というのは、

「羽田君みたいにすべて前向きに想像できる人間になりたい」

 というある種、彼のそういった性質を含みこんだものです。
 また、俺つばという作品は、「ありふれていること」を否定的ではなく、むしろ肯定的にすら扱っています。タカシ君の「グレタガルド」という物語は、凡庸で、都合が良く、原型からの模倣でしかない特別でない物語です。騎士を取り扱う世界から、急に魔法が出てくるファンタジーに変わったりするくらいの適当な設定ですし、クラスの皆に認められるという自分の希望を反映したりしています。もちろん、ウイングクエストという原作を模倣した物語である。
 ですが、そんな普通さこそが明日香と共通するところです。明日香の架空の弟も、彼女によって子どもにとってはよくあることだと語られます。そういう意味で、彼らの所有するものは物語ですら特別ではありえない。でもそういった特別でない物語こそが、彼らに共有されるところであり、出会う契機となったんですよね。それだけは確かな事実としてある。
 そういった意味で、冒頭の言葉は否定的なものではないことが分かるかと思います。そして、タカシ編の終わりにちょっと触れておきます。
 タカシシナリオラストで、明日香が

「青い空、緑の野、柔らかな陽光、純白のサマードレスを着て麦わら帽子を押さえながら微笑む美少女」

 という格好をしているのは、タカシが治療するときにこんなだったら最高だよねと言ったからです。これもある意味、明日香の言うとおり、夢というものでもあります。ある意味では抜けきってないということも言えますが、この「夢」との付き合い方っていうのはとてもまっとうで、なんか彼ららしいというところが好きだったりします。

誰かに向けて語ること

 俺つばで作品は、終の子に対し、各キャラクターが語りかけるという形式をとっています。そのため、「語る」という視点は外せないでしょう。ということで、千歳鷲介シナリオに対しては、語ることについて考えてみます。
 鷲介くんの初登場のときの語りですけど、彼凄い勢いで飛ばしてますよね。話を聞いている人の様子、テンションなど何も分からないのに、全開で話して空回っている感じがある。
 こういったことになっている理由は、彼の存在意義からです。「大きな声を出すこと」。それが必要とされて生まれた彼は口癖にもなっているような、「アゲていく」ということが必要となっています。
 日和子さんにバイトに誘われたことを話してあまりいい返事が聞けなかったときに、「問題はむしろ、いかにテンションを落とさないで自分を保つかという、そっちのほうだったりして」と彼は言うんですよね。文字通り、自分を保つということがテンションによって支えられている。
 外面と内面というのは不可分で、外面をどうするかということを考えた時に、発話として語る、つまり表に現すという視点が必要になってきます。例えばですけど、紀奈子さんが彼女の事情を話すシーンでは、普段の彼女からあまりイメージされないような重めの話を笑いながら語ります。

このひとの柔らかで暖かな笑顔は、見せたくない素顔を隠すための仮面だ。
俺やマスターと同じで、格好悪い自分をごまかすために笑っている弱いひとなんだ。

 と語られるとおり、誰かを意識した振る舞いを常にしているんですよね。それは、千歳に聴いてもらったのが久し振りだというように、話す内容、自分の見せ方というのは、相手によって使い分けるものです。「その人」ってそういった積み重ねから成り立つと思うんですよね。
 そして、思っていることは外に出さなければ分からない。日和子さんと英里子さんの間が上手くいかない理由の一番は

「──や、違うな、反抗的ならまだいいのに、何も言い返してこないんだよ。私はさ、ただ、あいつがそんなふうに、私に対して言いたいことも言ってくれないのが、なんつーか……」

 と言われるように、日和子さんが何も語らないことなんですよね。だからこそラストでの日和子さんのうっぷんぶちまけによって、二人の仲のこじれが解消された。そのうっぷんぶちまけにしても、本当はアレックス3に入れてほしかったとか、カラオケにも呼んでくれないとか、すごく他愛もないものですよね。それでも、そういった原因で上手くいかないということは十分あり得る。
 悩みとしての次元は深刻というほどではないにせよ、本人にとってはとても深刻でどうにもならない。特に日和子さんとか根がまじめで、考え込んでしまうという傾向があるのでなおさらです。そういったことが語ること、発話によって、それだけで解消されることもある。
 そして、日和子さんのほほえみインサイドとカケル君の絵。
 これらも表に出される、表現されることによって初めて価値を持つものです。日和子さんの小説って、彼女の少女趣味が大きく反映されています。それ自身はどこにでもあるありふれたものです。でも、小説として語られることにより、共感を生んで価値を持ったんですよね。カケル君の絵も同じです。

「俺としちゃ、自分の目に映ってるものを若干誇張して出力してるだけなんだけど、世界は広いね、似たようなイカレ方してる金持ちがそれなりにいるみたいでさ」

 というのが、彼の自分自身の作品に対する言葉ですが、主観、自分にとっての世界を他人が知ることはできません。ですが、出力されることで、誰かがその価値にに気づくことができる。
 二章ではそんな、「語ること」「表現すること」の価値を描いたという側面もあるんじゃないかなあとか、そんなことを言ってみたりします。

時間の流れ

 成田隼人シナリオでは、物語の動きについて。物語は変わっていくものを取り扱っています。というかむしろ、動いていくからこそ物語になる。鳴がラスト付近で

「ひとつずつ段階を踏んできた私たちの恋も、とうとう終盤戦に差しかかったわけですね。恋から愛へ……そして家族の情へと移ろいゆくのですね。はー、長かった」

 なんてことを言うんですが、段階があって、変化があったりする。
 そしてその変わることというのは価値判断抜きの「そういうもの」なんですよね。パルさんとメンマに

「あァ、これが不思議なもんでね。ここに集まる面子ってなあ、ある時期パァーッと盛り上がるんだけど、なんだかんだで長くは続かないのさ。その期間ってのはなァ、大体いつもこンくらいでね」
「職場が変わったり、生活が変わったり、他にもまあ、いろいろあるからな。それは仕方ない。みんなの再出発やリリタイアを見守ってるうち、気付いたら俺とパルだけ最古参になっちまってた」

 と言われるように、特に意図したわけではないのになんとなくそうなってしまうということがある。
 そしてそれは、いいことがある一方で必ずしもいいことだけではありません。例えばエンディングの鳴などは学校に行くことが出来るようになったのですが、必ずしも楽しそうではないんですよね。多少無理してるというように、あくまで上手くその場になじむことが出来るようになったというニュアンスが含まれている。それはあくまで出来るようになったということであって、必ずしもそうしたいというわけではないんですよね。このシーンにはそういった微妙なニュアンスが含まれている。
 また、合体後ヨージシナリオでは、その色彩が特に強くて。ユキ姉ちゃんにあっても気づかれなかったときに、「空白の時間を痛切に感じた。何も変わってないなんてことはないんだ。」と言います。否が応でも変わってしまうことの寂しさがここでは表わされていると思います。
 もちろん、変わることはいいこともあります。ラスト隼人のエピローグで「思ったより悪くねえよ」なんて言ったりするんですが、隼人くん自分の本音をあんまり言う人じゃないですよね。少なくとも良いと思うことを言うことはめったにない。ハードボイルドですからね、彼。ツンデレとも言いますが。
 そんな彼からこういう言葉が出てくることの意味がある思うんですよね。俺つば全体も含めて出来事自体がそう特別でないものであったとしても、「隼人君が人とのつながりを求めるようになる」という時間の流れによる変化、動きこそが、このシナリオを物語として成り立たせているのだと思います。

形式、儀式としてのヨージシナリオ

 物語というのは、「十二時になったら魔法が解けてしまうシンデレラ」というような、形式を巡るものです。キャラクターとしての役割や、世界観、その行為はある種の象徴であり、その形式にこそ意味が宿ることもある。
 合体しても上手く行かないのは自分のルーツを思い出していないからではないかとして、子供の頃のことを思い出す。
 実際にその場所を辿る。
 これらの行為には、端的に言ってしまうとあまり意味がありません。合体して上手く行かなかった理由というのは作中ですら明らかにされておらず、記憶が必要ではないかというのはあくまで仮説にすぎません。
 それにもかかわらずなぜそうしたことをしたのかと言えば。
 このシナリオでは、忘れていた記憶を思い出すという「過去への遡行」と、子供の頃育った場所に行くという「原点への帰還」が重ね合わせられていますよね。
 記憶喪失の人に何か問題が起こったとすると、フィクションなどで一般的に思い出そうとします。そして、考えるだけではなくその際にその記憶に関連したものに触れてみる、関連する場所に行ってみるというのもよくあることだと思います。
 そういった「形式」をなぞってみることはある種のできごとを「儀式」としうるのではないかと思うんですよ。そのような「動き」によって、それをやってみることに何の意味もないかもしれない記憶回復が「儀式」となります。儀式を行うことによって、これもまた物語になっているのではないかと思います。

誰かのために過去を語る。

 合体後のヨージくんのシナリオって、彼自身のルーツを思い出してそれに立ち向かうと共に、小鳩のためという側面もあると思っています。すなわち、過去を思い出すというのはヨージくんと小鳩、二人の問題なんですよね。。
 そして、その過去についての言及をとりあえず一つ挙げてみます。

「ひでえ少年時代だったなあ」
「えっ」
「…………」
「そうなんだ……」
「知ってるくせに。いいよ、ちょっとずつ思い出してきた」

 ヨージ君にとっては、過去を思い出すというのは、本当は自分がその時嫌だったんだということを突き付けられることです。過去を忘れて見ないよう、曖昧にしてきたものを直視することは彼にとっては試練です。
 ですがその一方で小鳩にとっての過去というのは正反対のもので。例えば上の引用部分で「そうなんだ……」という部分は明らかに元気がない。また、ヨージの母親を思い出すシーンでも、ヨージの言葉はネガティブなのに対し、それでも小鳩は

「お兄ちゃんのことも大好きだった。だから私、お兄ちゃんのお母さんのことは嫌いじゃなかった」

という肯定的なことを言います。小鳩にとってはお兄ちゃんに過去や自分が好きだったもののことを思い出してほしいと思うんですよね。今現在のお兄ちゃんの意志というのももちろんありますけど、それを一緒に過ごしてきた彼女のことを思い出すことでもある。ということで、このシナリオは小鳩のために彼女のことを思い出して、それを語る、つまり彼女のことを大切にするという意味があるのではないかと思います。

ここから見える世界を語る。

 語りというのは、その人にとっての世界を如実に表すものです。
 ムービー2の世界観からすれば、街にいる人達というのは青い人型の人形でそれぞれの区別が付かない、交換可能なものである。それにも関わらず、各シナリオの場所とともにアルファベットで名前が表示される人型だけは、二人だけ色が違います。これは、最初の教室が鷹志と明日香、次のアレキサンダーが鷲介と日和子、次の広場が隼人と鳴です。他の人は青に対し、それぞれ二人だけ違う理由は、何故かというと、お互いにとっての相手は代わりがいない特別な存在だからだと思うんですよね。
 「タカシの空は厳しい寒さに慣れてしまったくすんだ白だった。」「隼人の空は、まばゆい輝きを覆い隠してくれる群青だ」と言われるように、その人にとっての世界認識の話が俺つばではよくされます。客観的に見てどうかという話ではなく、今語っている彼にとって「世界が金色に包まれている」と思えるまでが描かれているのがこの作品ではないかと思うんですよね。

最後にちょっとした話。

 シリアス話をして、深刻に受け取られる。感動的な話があって、感動する。
 このように、まっすぐにいくものかという疑念があって。
 なんていうか、ズレというのは必ずあると思うんですよね。真面目な話でそう受け取られないことだってあるだろうし、感動的な話のはずがおかしく思えてしまうとか。ここで大切なのは、そう「思えてしまう」ということで。受け手がそう思ってしまうことが重要であるとするならば、ふざけた話がこの上なく響いてしまうということもあるはずです。
 牧師さんからの手紙は、空を見ながら羽ばたいていけと言われて狭い天井しか見えないときに吹き出してしまうような笑いとともに受け入れられますよね。
 「俺たちに翼はないこともないらしいぞ」
 なんていうおどけや、メルヘンという言葉を使う感覚は、深刻でこの上なく真面目なことはそういったことを通してしか伝わらないんじゃないかとか、そういった感覚から来ているのではないかなと。

まとめ

 ここまで、俺つばという物語について「物語」を「語る」という視点からいろいろと語ってきました。
 ここまで語ってきたことは作品全体に適用されると思うんですよね。
 俺たちに翼はないという作品では各キャラクターから終の子、プレイヤーに向けて、「ありふれた世界」から「その人にとって特別」なことを「語りだす」ということがなされています。そして、「その人にとって特別」ということは、その人がそう思うに至る「動き」、「形式」「儀式」などを通して生まれる「物語」によって現われてきます。
 そして、そのようにして語られてきた俺つばという作品から、プレイヤーである僕らが何かを持ち帰ることが出来ると思うんですよね。俺つばって深刻さとか盛り上がりという視点から見ると足りないように思えるかもしれないですが、そんな「ありふれていること」「メルヘン」だからこそ、それが響いてしまうことだってありえます。僕らは、この物語のそういった様をずっと見てきたじゃないですか。一人一人のプレイヤーがこの物語から何かを持ち帰ってくれたら良いな、なんちゃって、ということで、俺つばに関する長い語りを終わりにさせていただこうかと思います。