『俺たちに翼はない』

watuji

 ごめんなさい。えーと、まあ、そのですね。大変言いにくいことなんですけど、しかも企画第一回目で言っていいことではないんですけどこの『俺たちに翼はない』について書くことがですね、個人的にはね、正直なかったりするんですよ。土下座くらいはします。

 こうして反省もしていなければ品性と知性のほども初回で暴露という、もうなんというかはじまるまえからおわってる本コーナーな訳ですが、真面目なはなしをさせてもらうと現象学的推理じゃないけどいまだに作品の核心が見えてこないので、俺翼に関しては書けません。無理。不可能。インポッシブル。結果書き上げたこれは瘴気漂うぐだぐだな代物になりました。なにしろ作中の検討に終始して結論がありませんからね。レビュー企画なのにいいのか、これ……

 それにしても長いな。ま、ここまでの冗長かつユーモアのゆの字もないテキストから、僕の残念さは知れ渡ったはずなので、これ以降は読まれないという前提ではじめます。ぬるぬると。

 これは"たとえば"の話だけど。

 ある日、翼あるひとびとが

 グレタガルドの白い空を埋めつくしたんだ。

『俺たちに翼はない』序文〜俺たちに翼はない〜

 ……まず作品の構成原理を見定めるにあたって、僕が注目したのは『俺たちに翼はない』におけるシナリオの配置であり、またそれが何故採用されなければならなかったのかというその一点についてだ。一応確認しておくと『俺たちに翼はない』のシナリオは時系列に沿って再構成すると大まかには第三章→第二章→第四章→第一章→各個別ルートといった流れを形成し、共通ルートにおけるプレイヤーの物語進行は章題が示すように実際の時系列とは異なる配置をされている(逆に各章の内部では時系列に従った直線的な配置であり、一般的なものである)。これはギャルゲーが衰退、あるいは滅亡した現代のエロゲーとしては珍しい。破格とすらいってもいいだろう。そして当然『俺たちに翼はない』はループゲーではないのだから(無論、そのように読み替えることもできるだろうが)、この前提は例えば第一章で明日香ルートへのフラグを立てておくとそれ以降の章で他のルートが選択ができないように制限がかけられているといった、どうして未来での選択肢が過去にとりえた選択を規定してしまえるのかといった類の疑問をプレイヤーに発生させてしまう。繰り返すが、現代のエロゲーにおいて時間は直線的に流れるものであり(過去の回想がリアルタイムでのヒロイン視点の描写に置き換えられたことを考えよ)、また語り手による視点からの描写を偏執狂的なまでに統一していることからも呼び出される必然だ。

 では、このようなデメリットを考慮してまでも時系列の変換が導入されたのはなぜなのか。『俺たちに翼はない』の構成原理の中心に群像劇のそれぞれの主人公が実は一人の解離性同一性障害者の別人格であったという、おそらくはギャルゲーの問題意識を根とした仕組みがあることは明白だが、しかしこのコンセプトが作品の時系列に干渉しなければならなかったかを検討すると否定的な事態が浮かび上がってくる。群像劇のそれぞれの主人公がその実同一人物であって彼を中心に物語が再配列されるというのは語り方次第で十分に衝撃的なものになるが、『俺たちに翼はない』における構成は明らかにそれを破棄した上に成り立っているのであって、細部でのメリットは通常の時系列であっても充分に描き得る以上このように大きな仕組みを敢えて導入する必然性が見当たらない。

「てか、コンドルもともと命とか体とかそういう概念ないですからね。そもそも生きてたかどうかすら怪しいですし、いまだって実はコンドル死んどる? みたいなね、どちらとも言えない超自然的な存在ですしね」

「もしくはね、さっき死んだコンドルは、いまここで喋ってるコンドルとは別のコンドルかもしれないっていうね。パラレルワールドっていうんですか、あのー、並行世界とか多元宇宙みたいなね、あるじゃないですか」

「ま、あるじゃないですかも何もね、えー、ここまで実際おまえらみんなたちに何通りかの並行世界を観察してもらってきたわけですが」

「じゃ最後にね、まー、もうひとつの可能性を覗いてもらっちゃったりなんかしたりしてね。ほら、あの、あるでしょ。覚えてるかな。もしあのとき奈落に風が吹いていたら? っていうね」

「オーケイもう迷うことはない大丈夫マイフレンッ、様々な物語を観てきたいまなら出来るはず。奈落に風を起こせるはず。起こしてちょーだい、新たな風を! 築いてちょーだい、新たな未来!」

「正解はない、どれもが正解だ、おまえの正解はおまえが決めろ。だがまだ決めるな、まだ残ってる、まだ可能性は全部じゃない。いざ行け終の子、いざ行け監査官、いざ行けおまえらみんなたち。ぶるっきゃおう──」

『俺たちに翼はない』幕間〜ワンス アポナ タイム イン奈落〜

 作品内部の水準でこのことを検討すれば、まずもってこの時系列の変換というのは作中のキャラクターが行ったものであるという事実に注目しよう。繰り返しになるが、『俺たちに翼はない』ではどのキャラクターの視点による描写であるかという制約がほとんど偏執狂的なレヴェルで統一されていて(それ故に亀裂が走っている部分は未完成部分だろうと邪推することもできるが)、分類すると、それぞれの主人公が各章の冒頭と結末で「終の子」に話しかけるシーン、それぞれの主人公の視点に統一された各章、各章の転換にあたってDJコンドルがラジオ番組「ラブレターフロムアビス」でリスナーに向けて喋っているシーンとなる。で、この「終の子」というのは各主人公とDJコンドルに言及されることでのみプレイヤーにとっては存在が確認されるキャラクターで、プレイヤーキャラクターである(四章における選択肢が「終の子」に問われた返答であることや登場時のBGMが「おまえのテーマ」というタイトルなどを傍証としてあげられる)ことや主人公のISH(小鳩ルートのエピローグで主人公が言及する)であることが後になって解るのだが、これらは『俺たちは翼がない』に選択肢が存在することや時系列の配置がおかしいことをスマートに説明してくれる解答であるように見せかけて、その逆の事態を示している。ISHであるから各主人公に強制的な選択をさせることができるのだと合理的に説明できるように思えるが、であるならばそもそもISHもまた不可逆的な時間に存在する訳なのだから選択肢というものは発生しようがない、というよりそもそも複数のルートというものが存在しえようはずもない。こうして敢えて説明を導入したことで新たな問題を発生させる逆説にぶつかる訳だが、さしあたって話を戻せば、時系列の変換が行われたのは「ラブレターフロムアビス」においてだ。この幕間として存在する「ラブレターフロムアビス」は後半で、主人公の内的世界――「奈落」で引きこもっている人格の一人ヨージが娯楽として造ったものであるということが言及されて、DJコンドルも主人公の人格の一人、あるいは集合であるというように位置付けられるが、これは先の「終の子」と同様に問題を呼び込んでしまう――解離性同一性障害者に時間操作系のスタンドが備わる訳ではありません。無論、これは『俺たちに翼はない』それ自体を既に終わった過去の出来事――回想であると読み替えることで回避できるが、引用にある並行世界の認識にいたってはもうどうしようもない。ループゲーでもない限りは作品の外部というメタレベルが要請されることになる。DJコンドルと「終の子」は徹底的なリアリティレベルの統一が図られている作中世界に致命的な亀裂を発生させているのであって、オッカムの剃刀を用いるまでもなく彼らには作品に登場しなければならないだけの必然性は見つからないのだ。

 ……で、ここまで延々と検討してきた訳ですがオチはありません。ない。ないもんはねぇんだよ! 序文はフリでもなんでもない、単なる事実を述べていた訳ですが、まあ、その、ねえ。正直この亀裂というか破綻が何を意味するのかは僕では理解にいたらなかったんですよ。王雀孫はアシュタサポテのONE批評を参照しているよなあくらいしか。この未完の仕事は他の面子が一晩でやってくれることを祈ります。ねんじる!