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さて私たちはプレイヤーとしてゲームに接するわけですが、その時、私たちの置かれている立場・視座などは、どのようなものであろうか。少し振り返りながら考えてみましょう。
たとえば――かなり古い、記念碑的な作品を巡るとして――『ときめきメモリアル』(以下『ときメモ』)のような形式ならどうでしょう。あのゲームにおいて主人公というのは基本的に個性を剥奪されていることに異論は無いと思います。『ときメモ』における主人公は無色透明といってもいい、誰でもない存在であり、そこに私たちは主人公キャラクターに名前を付け、勉強や運動などのコマンドで成長させ、ヒロインキャラクターとデートを重ねて恋愛していく。『ときメモ』の主人公の個性・内実は上の文章の後半部であり、つまりもともとは「何でもない」無色の素材の主人公に、私たちがゲーム上において操作をほどこして、プレイヤー一人一人にとっての(一回のプレイ毎の)主人公が出来上がっていくというわけです。
名前も外見もなくまっさらな素材に、プレイヤーが望むものやゲームにて必要とされるものを付け足していく(たとえばパラメーターだったり、ヒロインキャラとの恋愛値だったり)。ここにおいて私たちプレイヤーと主人公が、「イコールである」と見なすのは容易であるでしょう。もちろん「厳密にイコールであるかどうか」ということは問題ではなく、「主人公=私」という同一化こそがここでいう「イコール」です。
ノベルゲーム・ビジュアルノベルゲームにおいては、『ときメモ』ほどには無色透明な主人公ではない場合が多く、そしてその傾向は、現在に近づくにつれさらに高くなっているといえるでしょう。かつてはあまり明確に描かれることのなかった主人公の顔グラフィックが俄然明確に描かれる場合が多くなり、プレイヤー自身を刻印付ける主人公の名前変更機能が(ボイス標準搭載も相まって)後退し、主人公のトラウマに向かい合う・主人公の心の問題に向かい合うといった内容のゲームが増えた、などなど。全体傾向(特に大作や人気作)においては、「主人公」という存在は『ときメモ』などと比べると、プレイヤー自身と明白に別けられない対象から、別けられる対象へと変化していっている。
その傾向の強さがわれわれに見せるものは何か。むしろここにおいて、『ときメモ』的なよくあるプレイヤー論――エロゲ/ギャルゲプレイヤーは「主人公を自分」と見なしている、置き換えている、同一化している――では捉えきれないものが見えてくるといえるでしょう。
ヒントにしたいのが、映画と観客を論じたクリスチャン・メッツの「観客は自分自身に同一化する」という言葉。これは「観客は観客になる(観客と同一化する)」と捉えておおよそ間違いないです。もの凄く大ざっぱにいえば、メッツによると、知覚や物語論・解釈以外の(※それらと排他的なものでは決してなくて)無意識的な作用として、見るという行為自体に観客が同一化し、欲望する主体としての観客自体が映画を作り出し何よりも意味を作り出している。観客自身・視線自身に一次的同一化をなし、映画の登場人物や出来事などには二次的同一化をなす。――大ざっぱに、欲しいところだけを切り取ったようなまとめですが、さてしかし、エロゲにおいてプレイヤーの置かれている場所もある種それに相当すると考えることもできるのではないでしょうか。いや、「むしろ」とさえ言えるかもしれない。一応付け加えておきますと、これはメッツ――あるいは精神分析映画理論をエロゲに適用しようという試みではなく、あくまで考えの一助にしようという試みです。
メッツは映画鑑賞を「夢」に喩え、観客が主体として(彼の中では)生産するようなものと記しましたが(これまた大ざっぱですが)、観客が生産するという点ではエロゲもまたそれ的である。最近の一般的なノベルゲームの場合、そのゲームの中の世界において主人公は悩み惑い考え欲望し、そして様々な決断を下していく/あるいは下していかないことにより状況や環境が変化し「物語」がモニター上で演じられるわけですが、しかし同時にプレイヤーによる選択肢などの決定性もそこにはある。物語世界の彼/彼らが「物語」を綴っていくのと同時に、私たちプレイヤーが「物語」を綴っている要素/部分もたしかにあるといえるでしょう。もし選択が彼らの運命を選び取っているといえるのであれば、その面においては私たちが生産している風でもある。ましてやノーマルな恋愛ゲームにおいての選択肢の主な理路は、「どのヒロインを選ぶか」という曖昧さを排した分かりやすい形式((選択肢自体が(たとえば何が正解かが)分かりやすいのではなく、その理路・存在意義・理由・そして「選択の影響範囲・結果」そのものが分かりやすいということです。))、そして何より「どのヒロインを選ぶか」ということしか選べないというどうしようもないほどの限定。主人公の彼をサッカー選手にするとか一流大学目指して勉強させるとか、そういう自由な選択肢はなく、ただ「女の子を選ぶ」という選択肢しかないのに選択させられる――これが何を意味するかというと、要するに、その選択という行為により、主体としてのプレイヤーが構築されてしまうということ、そのうちのひとつです。私はそれでも(彼の行き道を)選ばされていることにより、私はここにおいてどういう存在かを(仮)決定されてしまう。欲望する主体としてのプレイヤーが定まってくるでしょう。これはプレイヤーが欲望している(欲望を持っている)かどうかではなく、そういう選択をする存在というものが「ここにいれる」場所はそこであるという意味においてです。主体というのは、精神分析に則るなら、おおよそ「ある相手に対する自分」といったようなものである以上、『「エロゲの物語・あるいは主人公」に対する自分』としての主体形成は、その干渉方としての選択肢と切っても切れない関係の内にある。Aを選んでもBを選んでも直後のテキストが少し変化するだけでそれ以降には全く影響をもたらさない選択肢というのも多々ありますが、これも、”それでもなお選択しなければならない”という点で――つまり、どうでもいい(少なくとも物語的に)のに選択を強制されるという点では、私たちをそこにある主体に当て嵌めていく。ここではもはや本筋にも恋愛にも関わらないどうでもいいレベルにおいてまでの「選択決定権」が欲望され、あるいは選択の結果見られる「テキスト」自体、またはそこで広げられる「ギャグ」「会話」が欲望され、攻略対象を選ぶという「恋愛」が欲望され、そして続きが見たい・先が知りたいという「物語を綴ること」が欲望されている(そしてその道理、現今にある表象以上のものを見れないという事柄自体が、主体を生み出している)。――つまり「干渉自体」を欲望している位置に”立たされている”という面もあるでしょう。私たち自身が欲望しているのではなく、「観客自身に同一化」するように、それを為す「機能」を持つ主体――つまり「プレイヤー」に私たちが同一化しているから、それを私たちが欲望しているように遡定されるのです。
そういう干渉を為す「プレイヤー」というのは、そういう干渉を為すのだから、そういう欲望を持ってなくてはおかしい。恋愛ゲームをプレイするものは恋愛を欲望している、FPSをプレイするものは銃で人を撃つことを欲望している、などの偶に見かける言説は、この一言で喝破できるでしょう。欲望というものは個々人からだけではなく、立場・位置・主体から遡定されることも多々あります。たとえばスポーツの審判の振る舞いを見る限りでは、彼は公正でフェアプレーで円滑な試合を欲望しているかのようですが、実際に彼がそうなのかはさっぱり分からないい。審判の機能はそれとは無関係に、公正で円滑でフェアプレーを欲望し続ける。車のセールスマンは、たとえ彼が車を売ることや利益を上げることや儲けることを欲望していなかったとしても、その立場を履行し続ける限りにはおいては、それを欲望しているように見える。そしてゲームにおいては、”私たち自身”という個々人それぞれの感情や性格や願望や欲望ではなく、「プレイヤー」という立場が、それを生み出している――強制している。つまり「プレイヤー」という立場そのものの欲望。そして描かれることのなかった物語は、選択肢すら存在していない選択分岐は、そこにおいて(「プレイヤー」において)”欲望されていないもの”か、あるいは”抑圧されたもの”と化す。
『ときメモ』ならばともかく、現在主流のノベルゲームにおいて、私たちはイコール主人公的であるが、同時に明らかにそれと異なる。それは「主人公の彼自身」の色・濃さと、自由な選択ではなくもはや儀礼的・儀式的とまでいえる用意された「選択肢」というこの主体を生み出すような干渉方にもよるでしょう。選択肢という干渉も、そしてそもそもこのインターフェイス、画面、立ち絵にテキスト、それ自体が、「プレイヤー」を位置づける・構築するひとつの特徴である。上に選択肢についてだけを少し記しましたが、それだけでも、プレイヤーというものの特徴が、ここにおける位置づけの特異性が見て取れる。つまり、「プレイヤーの機能」「プレイヤーという主体」というものが、ゲームの方から逆流的に構成されている。ここでいう「プレイヤー」というのはイコール私たちプレイヤーではありません。大前提ですが、「プレイヤー」と「私(たち)自身」というのは、主人公と私(たち)自身が決してイコールで結ばれるとは限らないように、必ずしもイコールで結ばれるものではありません。ここでいう「プレイヤー」とは、小説でいうところの「読者」、映画でいうところの「観客」に値する、私たち自身ではないけれど私たちが物語に触れる際に置かれるところ、物語に外的なのに(仮にも)内的に関わる存在のこと、それが居れる位置というものです。
そう、まずは「プレイヤー」と”私たち自身”を別けるべきなのです。
ここからは――というかここまでもですが――ゲームをプレイする私たちのことを”私たち自身”、私たちと必ずしも先験的にイコールではないプレイヤーというものを「プレイヤー」と記していきたいと思います。
小説における「読者」のように、映画における「観客」のように、私たちはエロゲに触れる際に「プレイヤー」にならなくてはならない。
まず、作品を”読む者”として、文脈を介すには、コードを共有するには、”私たち自身”としての個々人より、「プレイヤー」としての立場がそれを仲介する。お約束や決まりごと、パターンや文法、それらを受け入れる媒介的機能としての「プレイヤー」がまずある。はじめてエロゲに触れる人では、普通のエロゲでも、たとえば現実ではありえないくらい都合よく女の子と出くわすことに違和感覚えたり、たとえば妹や幼馴染と現実ではありえないくらい初期値からして仲が良い・ラブラブな感じに対し(こちら側に)媚びているような感じを覚えたりして、どうもそこが鼻にかかるなんてこともありえますが――というか私自身が最初そんな感じでしたが――それは謂わば”エロゲに慣れてない・エロゲのお約束や不文律が分かってない”といったことが要因であると考えられますが、そして慣れる・理解することでそれを乗り越えることができると思いますが、逆に、そういう行為によって何が生み出されるか――”私たち自身”に照らし合わさない、つまり現実がどうこうではなく、エロゲだからどうこうと考えてエロゲをプレイするということ、それ自体により何が生み出されるかというと、「プレイヤー」というもの、作品(物語)と私たち自身を媒介するそのひとつの機能であると考えられるわけです。エロゲをプレイする際に、まず私たちは、十全な”私たち自身”から離れている。エロゲをプレイする自分というその主体は、エロゲという現実でなく実体なくこの世ならざるものと私たち自身を媒介する為の機能を持つ「プレイヤー」に、いくらか軸足を載せている――というか、「観客は自分自身(観客自身)に同一化する」と同じ様に、「エロゲのプレイヤーは自分自身(プレイヤー自身)に同一化する」といえるでしょう。たとえば、「選択肢を選ぶのはプレイヤーだ」という言葉、その「プレイヤー」をここでいう機能としての「プレイヤー」と捉えれば確かにそうでしょうけど、”私たち自身”とイコールで結び付けては誤解が生じるでしょう。なにせ私たちは別に選びたくなくても選ばされているのだから、”私たち自身”が選んでいるとは厳密には言えない。むしろその言葉は逆に、同一化していることを言明しているといえるでしょう。
そして、先に記した選択肢に纏わる事柄のように、「プレイヤー」としての機能そのもの、作品(物語/物語世界)への接触方法・干渉方法が、「プレイヤー」そのものを作り上げ、プレイする私たち自身にも大きな影響を与えている。
私(たち)は「プレイヤー」ではあるが、同時に「プレイヤー」ではなく、プレイヤーは主人公であるが、同時に主人公ではない。つまり私たちの同一化は、それこそメッツをなぞるように、「プレイヤー」に対する一次的同一化、そして主人公や登場人物、出来事などの描かれるものには二次的同一化であると――プレイヤー=主人公とざっくばらんに言い切るよりは――捉えられなくもないでしょう。というか、主人公に焦点を合わせすぎるエロゲにおいては、両方がある、両義的だというべきでしょう。プレイヤーは主人公でありながらも主人公ではない。見えているものは主人公の見えているものでありながらも主人公の見えているものではない。主体も同一化も当然「ひとつだけ」ではない(とは限らない)。同時に――様々なものに「なり」そこから「見て」いる。
エロゲをプレイする私たちの眼はどこからどこへと向けられているのか。
さて、非常に大ざっぱですが、上ではまず最初の一歩として「プレイヤー」と「”私たち自身”」との分別を試みました。「プレイヤー」の特異性・固有性は、ここでは選択肢くらいしか触れていませんが、ひとまずその関わり方からもいえるし、あるいはここでは触れていませんが、その形式・表象のされ方からもあるでしょうし、(エロゲ)社会的・(エロゲ)文化的な「制度」としても構築されうるものでしょう。
たとえば、美術・アニメ評論家の黒瀬陽平は、ノベル形式のエロゲ/ギャルゲの画面における、いわゆる「立ち絵」と「背景絵」の関係に対し興味深い指摘をしています(「キャラクターだけの世界」/『パンドラvol.3掲載』)。ひとつは「一対一の関係」、もうひとつは「キャラクターと世界との異層」。これ以上直裁には触れませんが、そこをヒントに考えてみたいと思います。
ノベル形式のエロゲ/ギャルゲの画面は、「背景絵」の上に「立ち絵」が重ねられ、その上に「テキストウインドウ」が重ねられているのが基本(というか殆どの場合において)ですが、この視覚形式は、厳密には「キャラクターは世界(背景絵)の中に居ない」と述べることができるでしょう。実際に私たちが目にする画面は、背景絵の”上に”立ち絵が”貼られている”ものであり、しかも背景絵も立ち絵も常に数パターンの交換可能なものから選ばれているものであり、さらに「一枚絵CG(イベントCG)」が示すように、この形式以外もある――つまり、これがその世界(物語世界)の真の・唯一の姿ではない、非常に限定的な表象だということまで、示されています。「背景絵」に「立ち絵」の表象が『真なる姿』だとは、微塵も思えないに足る材料が出ているわけです。ノベル形式エロゲにおけるこの基本的な画面構成自体は、決して主人公(焦点化人物)の視覚とイコールではありません。テキストだけなら(作品によりますが)「そうだ」といえても、視覚においては「そうだ」とはいえない。彼が「見ているもの」とこの画面は、厳密には必ず異なっている。
この違いを一つに収めるもの、眼視化と焦点化(焦点化の知覚面と心理面)というこの二つのものを一つのもので十全に纏め上げる機能・あるいは主体こそが、「プレイヤー」であるといえるでしょう。私たちがエロゲプレイ時に画面に「見る」もの(絵、テキスト、システムなど)は、厳密には、主人公(焦点化人物)と同一ではなく、もし厳密に同一のものを定めようとするならば、それは「プレイヤー」だというべきである。
これはもう少し考えると、「では立ち絵のキャラクターが「見ているもの」は何か」という疑問が湧いてきます。黒瀬さんによれば、そこにこそ「一対一の関係」が生じる――世界やシステムと別レイヤーで単一に存在する立ち絵は、その別レイヤーさが他のレイヤーを後景化して、それだけが”そこには”残る。つまり「キャラクター」以外のものが、キャラクターというレイヤーからは一切排されている(もちろん、背景と立ち絵との分断は、結果的に「非遠近法」的な表象を産み、それが視覚面にも影響を与えている。ここでは視覚だけでは見えていないし、キャラクターからは見られることなく見られている)。
しかしこれは逆に、世界からの「分断」も表している。立ち絵のレイヤーはキャラクターだけということは、そこに世界はなくて、背景絵のレイヤーは世界だけということは、そこにキャラクターはいない(厳密にはその絵を選ぶ理路などに潜在するのですが)。こういった形式は、いわゆる「マルチシナリオ」との一つの相性の良さも示しているでしょう。
さて、少し話を戻しまして。「では立ち絵のキャラクターが「見ているもの」は何か」。先にも記しましたが、この画面に映るものは決して主人公に見えるものと同一ではありません。映画やアニメのように、(基本的には)カメラという装置を介して世界を切り取ったものではない。全て「表すために」作られたモノ。主人公に見えるものに限りなく近い可能性はあるけれど、決して同一ではない。この画面に映るキャラクターの立ち絵は、決してその世界のキャラクター自身と(その姿勢や向きや視線と)同一ではない(それらのことは「イベントCG(一枚絵CG)」が立証している)。喩えて謂うならば、主人公に見えるものを、こちら側に見えるように「変換」した結果の表象。それは誰の手によるものか、誰の眼か、誰が主体か、の答えを敢えて探すとするならば、間違いなく「プレイヤー」ということができるでしょう。これは「プレイヤー」という視座にこそ見える表象であり、それ用に、その為に、それにより、変換されている。ゆえに、物語世界内のキャラクターとイコールではない立ち絵のキャラクターが見ているものは、一枚絵CG以外では表象されることのない(カメラの位置にいると想定されている)主人公を通して、その奥側にて変換している「プレイヤー」に向いている。実際に「見ている」のではなく、変換の上に単純化されている。
(一応念の為再度記しますが、文中におけるかっこ付きの「プレイヤー」は全て、プレイする私たち自身ではなく、機能としての、主体としての「プレイヤー」という介在です)
ここで明らかになるのはその「異層」さです。立ち絵というレイヤーと背景絵というレイヤーの非共空間性は、それ故に両者(キャラクターと世界)が分断されていることを示唆しますが、同時に、立ち絵と、その物語世界内のキャラクターが分断されていることも示唆している。さらに、主人公が見ているもの(見ているキャラクター)と、この画面に示されているもの(立ち絵)もまた、分断されている。等しくはない。この画面は「プレイヤー」に用意されただけのものであり、この立ち絵は「プレイヤー」に用意された立ち絵である。それもまた、たとえば先に記した「選択肢」のように、「プレイヤー」という主体の確立(仮構)に繋がる。
さて、それでは、駆け足になりますが。
エロゲには『「プレイヤー」という機能があってはじめて存在する』”かのような”物語が数多く存在します(”かのような”というのは、それが立証不可能であるからです)。各ヒロインのルートを全てクリアすることによって最終シナリオが開かれる作品などは、そのプレイヤーの機能――介在性があるかのように感じさせるものでしょう。その重要性は作品によって大小ですが、プレイヤーの介入がありはじめてそこに行けるという要素そのものが、「プレイヤー」という存在を定義し、そして「プレイヤー」に同一化する私たちの「見ている」場所をある程度確立しているといえます。ただし「ある程度」。幾度も書いたように、主体は常に流動的で多義的で複数にのぼる。私たちは「プレイヤー」でもあるし、主人公でもあるし、また”私たち自身”でもある。たとえば『CLANNAD』は、メインヒロインのシナリオを全てクリアした後に「アフターストーリー」というその後のシナリオが開かれ、そしてサブヒロイン・サブシナリオなどの殆ど全てを巡ると(作中で「光の玉」を集めると)、「アフターストーリー」のさらなる後のシナリオ、それ以前とは別のアフターストーリーの続き(といっても短いものですが)に進めるようになっています。ここにおいて私たちは、それぞれのルート固有の朋也くんであり、全ての平行世界に存在する朋也くん全てであり、またそれらを包括した存在であり、幻想世界の「ぼく」でもある――つまり全ての視点に”常にあり”、それをもし一言で述べるのならば「プレイヤーである」ということができるでしょう。『CLANNAD』で描かれているものは誰から見たものか? それを作中内の”特定の誰か”に完全に同定することは難しい――というか、立証不可能(個々の朋也くん・全ての平行世界の朋也くん・幻想世界の「ぼく」が、”全て同一の一己である”とは決して明言されていない)である以上、もちろんその”特定の誰か”を当て嵌めることもできますが、それは”特定の誰か”ではなく「プレイヤー」という立場・その視座そのものということもできる。むしろ”特定の誰か”という発想自体が、非人称な「プレイヤー」を機能以上のものにするために仮構されたもの――その存在を機能ではなく人称として物語に織り込むために(つまりプレイヤーという機能がなくても物語が存立する為に)そう解釈されたものと捉えることもできるでしょう。もちろん、その逆ということもできます。これとて立証されていないのですから。どちらでもありえるし、どちらでもありえない。その多義性・流動性こそが、逆に、逃れていく主体を形成していくものといえる。
逆に「プレイヤー」という機能をそのまま物語に織り込んだ『Ever17』のようなゲームもあります。あそこでは、言わば「プレイヤー」は”その物語の一つの役のように”、物語内に織り込まれている。ブリックヴィンケルという「プレイヤー」の機能を持った私たち自身のための役(あるいは「プレイヤー」の役をこなすブリックヴィンケルというもの)がそこに存在している。これは『俺たちに翼はない』(以下『俺つば』)の「プレイヤー」に多少近いところにあるでしょう。しかしもう少し深く考えなくてはなりません。
ということで、ようやくですが、『俺たちに翼はない』について、この「プレイヤー」的な考え・観点から(その観点は決して『俺つば』だけの特徴ではない、『俺つば』固有のものではない、そして重要さも一般的な作品より勝るとはいえ一つ後に置かれる程度のものであり、つまり『俺つば』を語るにおいてあくまで外周的な部分になりますが)考えていこうと思います。
『俺つば』においてひとつの特徴となるのは「終の子」の存在です。私たちはまず「プレイヤー」としてゲーム/物語に接するわけですが(私たち以前にまず「プレイヤー」という構造がゲーム/物語に接する、と述べた方が正しいですが)、基本的に「プレイヤー」というのは物語内では隠されている場合が多いです。大抵のノベルゲームでは、「プレイヤー」自体を(その機能を)私たちに意識させることはなく、それは謂わば透明な存在として物語に関わる。上に挙げた『CLANNAD』だろうと、ループを用いた『CROSS†CHANNEL』や平行世界を可視的に描いた『YU-NO』『Lの季節』などの特殊な形式の作品であろうと。『Ever17』が最も衝撃的だったのは、ノベル系ゲームにおいて普通隠されている「プレイヤー」の存在を、”その機能も含めそのままの姿”で物語に縫合した(=物語世界内に縫合した)点であるでしょう。さて、『Ever17』の話はひとまず措いといて、『俺つば』の話に戻りますが、本作は、タカシくんがプレイヤーに語りかけるような場面からはじまります。それは鷲介、隼人くんのはじまりも同じ。この時点では、その話しかけられている存在に「終の子」という名前は付けられておらず、それが「人格」であるとも言われていません(そもそも多重人格であるということが伏せられています)。この段階、つまりプレイ序盤においては、話しかけられているのは物語世界内だけど形を持たぬ何か、つまり「プレイヤー」・あるいはプレイしている”私たち自身”かのようであります。それが「終の子」と名付けられることにより、「終の子」となり、さらに「ISH」と意味付けられることにより、「ISH」になる。
「終の子」であり、「ISH」であり、またDJコンドルの言葉を借りれば「観察官」であり、オープニング2の表記を借りれば「observer」である。そして「プレイヤー」である。
ここでの最大の特徴は、「終の子」と呼ばれている存在が全くの非人称であるという点です。つまり、彼は一人の登場人物であるのですが、同時に、存在していない、プレイヤー(「プレイヤー」)そのものでもある。これは「プレイヤー」そのものであるのですが、同時に、一人の登場人物でもある。言葉を換えると、ひとりの「焦点化人物」でもあるのだけれど、それはあまりに透明(非人称)故に、プレイヤー(「プレイヤー」)とほぼイコールになっている、あるいは境界が曖昧になっている。
また、「終の子」の「見るもの」としての存在が、先に挙げた視覚レベルの「異層」とも深く関わります。
奈落とコックピットを自由に行き来し、世界を覗くものである。「終の子」が「見ている」ものが描かれている(これはもちろん眼視的な意味ではなく(よりも)、心的焦点な意味で)わけですが、それはつまり、先に記したとおり、主人公たちが「見ている」ものとイコールではないということであり、さらにいうなら、決して世界の本当の姿とイコールではないということも、主人公と私たちの間に「終の子」というクッションが入ることにより、如実に現われています(換言すると、主人公という焦点化人物のさらに以前に、終の子という焦点化人物がいる構造になっている(そして”私たち自身”からすると、その前に/あるいはそれと同時に、「プレイヤー」という焦点化機能がある)からこそ、多重に歪みうるというわけです)。丁度これについては、作中のカケルくんと鷹志のやりとりが喩えとして借りてこられるでしょう。
翔「知ってる? 視覚情報ってのは脳細胞から電気信号になって大脳へ達するんだよ。だから、おまえらが鏡の前に立てば、各自でそれぞれ違う姿が見えるんだろうけど――」
鷹志「な、なんだいきなり」
鷹志「うん? 要はアレか。俺たちが知る俺たちそれぞれの顔や姿は、俺たちの脳味噌が勝手に錯覚しているだけって言いたいのか?」
この引用は当然、あくまでも「喩え」になるのですが。画面に映されているものは、大抵のゲームなら主人公―「プレイヤー」を通して変換されたもの、『俺つば』だったら主人公―終の子―「プレイヤー」(あるいは主人公―終の子=「プレイヤー」)を通して変換されたもの――つまり主体により変換されたものが映されていると考えて間違いない。ここにおける「主体」とは、主人公であり、「プレイヤー」であり、それらに同一化する私たち自身である。
これは必然的にひとつの「異層」を生み出します。そもそも上記引用部分の時点で、物語世界内でもその「異層」があるのが分かります。ある意味人は誰しもそうですが、ここではタカシくんたちは、言うなれば「本当の世界」などというものを見ていないということ――彼の中で変換された「それ」を見ているということ。そして終の子もまた、自身で変換しているものを見ている・あるいはタカシくんたちが変換したものを見ているかもしれないし、少なくとも画面に映されるもの、つまり私たちが見れるものに関しては、なんからの「変換」はされている(イベントCGにおいても彼らの外見が彼らの見えるものであったことなどはその証左でしょう(たとえば鷲介の一枚絵CGがありますが、それは鷲介の知る鷲介の姿だった))。
つまり、いうなれば本当の世界とは「別のもの」が映っている。『俺つば』に沿って喩えるなら、ベクトル的には「夢テレビ」なども少し当て嵌めることもできるでしょう。また『俺つば』内でも、たとえばオープニング2において、奈落の「テレビ(夢テレビ)」に映る外界(ヒロイン)の様子を見るという図式や、日付が表示される場面において、世界(左側に見える世界の絵)が「魔方陣」のようなもので覆われているのに対し、世界が奈落でありタカシや鷲介などの焦点化人物がいない、終の子一人だけのシーンである「幕間」だけは、魔方陣のようなものを通さず世界が表さる(この魔方陣のようなものは文章のバックログ時にも登場する)。つまり、終の子を主体とすると、非現前的なものに魔方陣が貼られていると捉えることもできるわけです。”ここにあるもの”と”ここにないもの”で、描写の奥底に多少の違いがある……”かのように思える”可能性もある。
あくまで、”かのように”。これすら強調されていない。上に記したものは、記した通りの意味である可能性もあるけれど、全く関係ない可能性も充分ある。そのくらい、肯定的でも否定的でもない。「眼に見えるものは変換済み」ということは、既に本編でも重要なことの一つとして語られていて、『俺つば』においては一つの前提と化していますが、どこからどこまでがそうなのかは、たとえば本編においての彼らの眼がどこからどこまでそうだったのかが曖昧なように、たとえば物語において鷹志くんの心的現実がどこからどこまでそうだったのかが曖昧なように、これもまた、曖昧なままに置かれている。
これら二種の曖昧性。それを曖昧なままに収めているところ(イコールを否定しすぎないし肯定しすぎない)が、『Ever17』以降においてこうした物語への縫合を試みた『俺つば』の、一つの特徴と述べることができるでしょう。主体というものは一所に収まらない(一貫していない)。ゲームをプレイする私たち自身は、その視座は、その同一化される先は、「プレイヤー」であり、「終の子」であり、「ISH」であり「観察官」であり「observer」であり、さらにはそれぞれのシナリオにおいて「タカシ」であり「鷲介」であり「隼人」であり「カルラ」であり「ヨージ」であり、統合後の「鷹志」であった。そう、この観点での『俺つば』の特徴はひとえにここだと申し上げることができるでしょう。『Ever17』とは異なり、特定の確固とした役で物語に「プレイヤー」を縫い付けることもなく、また通常のノベルゲームとは異なり、「プレイヤー」をただ一つ(あるいは複数)の焦点化人物を裏で操るものだけに縛ることもなく、全てを分裂的に存在させた。
つまり。ここにおいて『自分』を担う存在も、『自分』を投影したり仮託する存在も、強い否定も肯定もなく『複数』用意されているということです。『俺つば』に合わせたつまらない喩えを申し上げますと、プレイしている我われ自身がゲームの中では多重人格的に遍在している、などと申し上げることもできるでしょう。ならばそれを統合する「ISH」的な存在は、言うまでもなく、「プレイヤー」の前に、ゲームの前に存在する”私たち自身”でしょう。