八柾山崎
※本稿はKey『AIR』のプレイを前提としているのでご承知のほどを。
かつて東浩紀は『AIR』を評して、私たちは二度挫折を経験する
といった(*1)。当該論評における彼の議論じたいは美少女ゲームのプレイヤーは、視点人物と同一化
するだの美少女ゲームは、(中略)プレイヤーがプレイヤー視点に留まっている(物語世界外にいる)ときには超家父長制的に機能する
だのと(*2)、プレイヤーという存在/ゲームプレイという行為に対してやや検討が不足しており、率直にいえば素朴どころか粗雑に過ぎるものであるといわざるをえないが(*3)、美少女ゲーム全体の議論として一般化するためのアーキタイプとなった『AIR』に対する読解じたいは、上に引用したようにそう外れたものでもない。
プレイヤーが経験することになる二度の挫折とはなにか。東の読解を乱暴にまとめれば、第一の挫折はキャラクターレベルのものであり、DREAM編におけるプレイヤーキャラクター(以下PC)の往人が観鈴や晴子と家族になろうと試みるものの、自らの消滅によって失敗してしまったときに発生するという(*4)。これは端的にいいかえれば「ヒロインのトラウマ解消に失敗した」ということであろう。いっぽう第二の挫折とはAIR編、カラスのそらがPCとなり観鈴たちの関係性への介入がほとんど不可能となったことによって生じる、プレイヤーレベルの無力感のことであるという。ここで無力なのは、プレイヤーが同一化した視点人物=往人ではなく、その視点人物=往人と同一化できないプレイヤー自身のほうなのだ
と(*5)。
さて、これらのふたつの「挫折」に対してそれぞれ「救い」を提示したのが今回取り扱う『俺たちに翼はない』(以下『俺つば』)である。どういうことだろうか。以下では『俺つば』の核となっているある選択肢について概説してから、ふたつの挫折と対応する救いについて順を追ってみていきたい。
知ってのとおり『俺つば』ではPCの「終の子」と物語上の主人公であり独自の視点を持つ羽田タカシ、千歳鷲介、成田隼人、伊丹伽楼羅らが明示的に分離されている。彼らはいわゆる多重人格者(正確には解離性同一性障害)である人間・羽田鷹志の中でそれぞれに異なる役割を担っている別人格であるが、それとは別に「妹の小鳩を守る」という共通した責任感も背負っている。ために彼らは「兄」として小鳩に接しようとするが、その関係はぎこちない。なぜなら小鳩が求めている「お兄ちゃん」は本来の人格である羽田ヨージであって、それ以外の何者でもないからだ。ゆえに彼らによる小鳩の「兄」になろうとする試みは――とりわけ多重人格者としての自覚がなく、小鳩の唯一の兄であると自任するタカシのそれは――挫折し続ける。ちょうど往人が観鈴の「父」になろうと努めて挫折するように。
ここで肝心のヨージはどうしているかといえば、深層意識の奈落に篭って一人遊びに興じている。小鳩の「兄」に対する変わらぬ思いを目の当たりにした伽楼羅は奈落に戻ってヨージを説得し玉座に送り出す。奈落に篭っていた8年間の間に生じた自身と世界のギャップを前にして、彼は一度は成熟を拒否して帰ってきてしまうものの、妹への責任感――もっともその少なからぬ部分は原初的な快感への欲求と未分化であるのだが――から再び玉座に戻ることを決意する。しかし当然のことではあるが玉座に座れるのは一人であり、しぜん伽楼羅は奈落に閉じ込められることになる。小鳩の幸せを願う気持ちと奈落に閉じ込められる恐怖の板挟みになって苦悩する伽楼羅に、ヨージは提案する。
【鷹志】「はー、そーなん。はー、でもイスが一個しかないんだったら、おれら、またひとりになりゃーいいんじゃない?」 (*6)
ヨージはその幼さゆえか実にあっけらかんと人格統合への道を示す。そのために必要なのが終の子の力であり、ここで『俺つば』の構造上、ひとつの核となっている重大な選択肢が表示される。
【伽楼羅】「終の子よ、全能にして無力な傍観者よ、貴様はその気まぐれな翼で我らが天地に救いをもたらせ。さあ、誓えるか?」
救いをもたらさない
救いをもたらす (*7)
ここで前者を選択すると、5つの人格が統合されたいわゆる「統合ルート」に進み、小鳩の「兄」になろうとする試みは成功し(がんらいの兄妹関係に原状復帰したともいえる)、彼女と結ばれて自身の過去――ヒロインと主人公の共有されたトラウマ――に向き合うことになる(*8)。
さて、「救い」の選択肢において注目すべきは「プレイヤーはいったい誰を救ったのか?」という点だ。結果だけを見れば小鳩を救うこととなったこの選択は、しかし実際のところは羽田鷹志の内面にしか影響を及ぼしていない(*9)。プレイヤーがPCたる終の子を操って奈落に風を吹かせたことで人格統合が実現し、統合された鷹志が小鳩を(また小鳩は鷹志を)救ったというのはあくまで結果としてのことである。「救いをもたらす」と選択したときのプレイヤーが「小鳩を救いたい」と念じていたとしても、そのこととプレイヤーが直接小鳩に何らかのアクションをとれているかどうかには一切関係がないし、実際とれていない。
終の子を設定することでプレイヤーとヒロインの間に置くクッションをひとつ増やしたこの関係は『俺つば』のほぼ全編を通して成立しており(*10)、PCの往人を直接操作して観鈴を救おうとする(ものの失敗する)『AIR』とは――もっといえばADV一般とは――構図をやや異にする。ここにおいてプレイヤーはまさしく「全能にして無力な傍観者」である。
とここまで大仰に書いたが、プレイヤーがPCにしかコミットできないのは一人称のADVにおいては普通のことである。プレイヤーがPC以外のキャラクターとじかに接触するためには『Ever17』のような特殊なギミックを導入しなければならない。『俺つば』においてこの前提がことさらに意識されるのは、通常は暗黙の了解とされる主人公=PCの構図を両者の分離によって前景化したことによる。この構図を『AIR』と比較しながら簡単に図式化すれば以下のようになる。
――ここには救いがある。もしくは諦観が。
しつこいようだが、選択肢によって「俺」をどうにかしていくことで結果的にヒロインを救うことがあってもそれはまさに結果論でしかない。本質的にはプレイヤーは主人公しか救えない。『AIR』における「第一の挫折」は観鈴の抱える問題が往人の手に余るものであるがゆえのことであって、本来プレイヤーに責任はない。それはPC=主人公に対する過度の同一化による錯覚であってそもそもが筋違いの無力感であると、『俺つば』は両者を明示的に分離することで指摘している。
また、「救い」の選択肢は上述した「第二の挫折」をも転回させて爽快感をもたらすギミックに変えてしまっている。
「救い」の選択肢は初回プレイ時から表示こそされるものの、じつはシステム上「救いをもたらす」を選択することができないようになっており、事実上は存在していないも同じである。結果としてヨージと伽楼羅は奈落に閉じ込められたまま、物語はそれまでの選択をもとにタカシ・鷲介・隼人のいずれかのルートに分岐していく。
ここでプレイヤーが感じるのは、かつて『AIR』で味わった「第二の挫折」と同種のものであるといえる。選択肢が表示されていながら実質的には選択の余地がない無力感。しかしながらこの挫折は同時に希望を孕んだものでもある。「たしかに今は現前する選択肢をとれないが、ルート周回後にフラグが立って選択できるようになるのではないか?」と。じじつ、全ルートをクリアしてすべての可能性を見届けることではじめて「救い」の選択肢は開放され、プレイヤーは「救いをもたら」し、5つの可能性の束となった羽田鷹志を出現させて彼に小鳩を救わせることが出来るようになる(*11)。ここに至ってついに挫折の記憶は達成感となって昇華され、プレイヤーもまた救われるのだ。
単にルート周回によるフラグ立て、真ルート解放というだけならこれまでにも無数の例があったが、そのほとんどは「初見時にはそもそも選択肢が出現しない」タイプのものであった。わざわざ選択肢を提示しておきながら選択できないようにしておき、のちに開放することでプレイヤーの感情の振れ幅をより広くするこの仕掛けは、見る者に従前なかった鮮やかさと感動を与えるといえよう。
ここまで見てきたように、PCと主人公を分離することによって『俺つば』は『AIR』におけるふたつの挫折に対して一定の救いを示した。それは一方では「プレイヤーがヒロインのことを気に病んでもしょうがない」という諦観と表裏一体の安寧であり、また他方では無力感を達成感に奪胎するルート開放のギミックである。両者を併せることでプレイヤーは「俺たちには俺たちしか救えない」「それでも/だからこそ希望がある」という覚悟の地平に立てる、のかもしれない。
なお、本稿では具体的に論証しなかったが『AIR』と『俺つば』の間に一定の影響関係があろうことは想像に難くない(神話とメルヘン。あるいは翼人の設定を見よ)。両者のモチーフの比較と変奏関係を明らかにすることが今後の課題だろう。
*1:東浩紀「萌えの手前、不能性にとどまること」(東浩紀・編『美少女ゲームの臨界点 波状言論臨時増刊号』2004年、波状言論、170ページ)。なお、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(2007年、講談社)にも収録されている。
*2:前掲書、167ページ
*3:アイディアとしては刺激的ではあるが、いかんせん散文的にすぎるのではないか。いかにエロゲーが女性への差別的なまなざしとは分かちえない物語ジャンルであったとしても、そのことをただちにゲームプレイ時におけるオタクの分裂的な態度に結びつけるのは拙速に過ぎるだろう(いわんや家父長制をや)。なお、このことについて考える上では、なしおさんの論考「エロゲをプレイする私たちの眼はどこからどこへと向けられているのか?」が大いに参考になると思われる。
*4:より正確には、東はこれを「観鈴の父親的な存在にな」ろうとする試みであるとし、エロシーンの存在はジャンル上の要請であるとして目をつぶっている。しかしながらここで父と夫を区別する必要はさして無いようにも思われる。これは後述する『俺つば』においても同様である。
*5:前掲書、164ページ
*6:Navel『俺たちに翼はない』(2009年) 羽田鷹志編 12月3日(日) みんなの応援で俺たちに奇跡が起きちゃうよ
*7:同
*8:なぜ兄が妹とセックスするのか――厳密には鷹志と小鳩は従兄妹の関係にあるが――という問題については深く掘削すればするほどエロゲーというジャンルそのものの問題に迫ってしまうように思われるのでここでは避けるが、少なくとも『AIR』の対照関係においてはあまり注意を払う必要がないとも考えられる。往人は観鈴の父になろうとしているのになぜセックスするのか――性的虐待の文脈ではなく、また晴子とすればいいということでもなく――という問題と同種の問いであるからだ。
*9:「救いをもたらす」対象は「我らが天地」であることに注目せよ。ここでは天=玉座であり地=奈落と解釈するのが妥当であろう。
*10:この図式に当てはまらないのがDJコンドルである。彼が発言するときにはしばしば終の子が中抜きされているような印象があり、またそのメタ的な発言は多重人格という設定で整合性をとっているはずの「世界観に穴を開けている」と称される。このような事情から作品世界内における彼の位置づけには諸説あり決着を見ていない。
*11:正確には、二つのバッドエンドについては見る必要はない。