獅子ヶ崎の
異常な日常

もりやん

 『てとてトライオン!』は、“日常”シーンに力を入れた作品と言われる。では、美少女ゲームにおける“日常”とは、どういったものだろうか。
 “日常”とはなにか。それを考えるには、“非日常”と対比してみるのが近道だろう。
 一般的な――共通ルートからヒロイン個別ルートに分岐する――美少女ゲームにおいて、“日常”は共通ルート、“非日常”は個別ルートで行われる。すなわち“日常”を通り抜けて“非日常”に至ることがゲームの目的となる。“日常”は未だ“非日常”への変化の得られない状態、ないしは変化の過程を意味し、“日常”は乗り越えるべき困難、“非日常”は獲得される褒賞に該当する。
 表にまとめてみよう。

日常非日常
共通個別
無変化変化
困難褒賞

 この表において、プレイヤーに快楽をもたらすのは全て右側=“非日常”側にある。美少女ゲームにおいて、“日常”とは基本的に快楽の前段階に過ぎない。
 その“日常”をいかにして快楽をもたらすものとするか。美少女ゲームの発展史において、これはひとつの重要なストリームとしてあった。
 「なにも起きないこと」によって定義される“日常”をいかにレクリエイトするか。現代に繋がる歴史において、そこに最初に取り組んだ作品は『ToHeart』だといえよう。
 『ToHeart』においては、「仲良し空間」という装置が用いられ、“日常”に笑いをもたらした。笑いをもって“日常”をレクリエイトする試みはKey諸作品に引き継がれ、そこから多くのフォロワーに拡大している。
 そのひとつの完成形として挙げられるのが『グリーングリーン』だろう。この作品は男性キャラクターの活躍するギャグパートによって特徴付けられる。“日常”とは恋愛の前段階を意味するゆえに、そこでは男性キャラクターが有意な働きをしうるわけだ。
 別系統で、“日常”ゲームの大家といえるのがねこねこソフトだ。『みずいろ』では、ストーリー分岐を序章に配し、シナリオの主要部分を全て個別ルートに割り振っている。またその内容においては、出会いからの「積み上げ」を重視し、“日常”的な出来事そのものに感動を付与している。
 いずれにせよ、“日常”とは常に「なにも起こらない」時間であり続けた。美少女ゲームの歴史上ひとつのメルクマールとなる『Fate/stay night』においても、“日常”はやはり――戦いで傷ついた心身を癒す時間として価値付けられてはいるものの――“非日常”と対比される停滞の属性としてある。
 『Fate』以後も、「日常系」とカテゴライズされるような作品が多く制作された。有名なところでは『リトルバスターズ!』、『つよきす』などだ。これらの作品ではやはり男性キャラクターの存在感が大きい。また、「幼なじみ」の関係がしばしば重要な位置を占めることも特徴といえる。恋愛とセックスによってもたらされる暴力的な変化を忌避するように、これらの作品は幼少期から続く「楽しい“日常”」に執着する。
 一方、PULLTOPたけやまさみライン作品『PRINCESS WALTZ』は、明らかに『Fate』を意識した作品だ。そこでは聖杯戦争の代わりにプリンセスワルツが行われ、戦争=“非日常”と対比される“日常”において、セイバー/クリスは戦いの運命から一時解き放たれる。
 しかし、『PRINCESS WALTZ』の次作としてリリースされた『てとてトライオン!』で描かれる“日常”は、全くその様相を異にする。

そう、ここは獅子ヶ崎学園。
いつでも大騒ぎで、
いつでもビックリ箱。
静かな日常はないけれど、
ドキドキとワクワクだけは、
いやっていうほど詰まってる。
トラブルなんて日常茶飯事。
楽しんじゃうのが当たり前。
ここは、平穏から一番遠い場所。
そして、「ありえない」が「当然」に変わる場所だ。

 『てとて』の、獅子ヶ崎学園の“日常”は、トラブルによって構成される。癒しの時間などはない。毎日が騒動、生活が祭り、“日常”すなわち“非日常”というべき世界がそこにある。
 これは、単に“日常”が「騒がしい」ことを意味するのではない。本来“非日常”を意味するはずの「ありえないこと」が“日常”として起こり、そしてそれが環境と人間関係のドラスティックな変化をもたらしている。
 『てとて』のシナリオは、あるパターンの繰り返しによって成っている。
学園設備の暴走→獅子ヶ崎トライオンの奮闘→トライオンポイントの制圧→学園設備の機能回復  すなわち、トラブルは最終的に学園機能の回復に収斂する。ねこねこソフト的な「積み上げ」のレベルに留まらず、その前後に明らかな環境の変化が存在するのだ。
 そして、一連のシークェンスにはトライオンが含まれる。慎一郎とヒロインは必ず心を触れ合わせ、人間関係をも変化せしめる。これは必ずしも慎一郎とヒロインの距離が一直線的に縮まることを意味するのではない。夏美ルートのように反発が生まれることもあれば、手鞠ルートのように、慎一郎と手鞠、手鞠と鷹子の二者関係で結ばれていた絆が、三者関係に変化することもある。
 獅子ヶ崎学園の“日常”は、決して一様な状態を持つものではない。常に変化し続ける、非常に動的な性質を持つものだ。それでいて、変化し続けることをシステムの中に取り込んで完結しているのだ。

「この学園はある意味では、完全なんだと思います」
「普通ならば、この学園で起こっているようなトラブルに遭遇することはありません」
「そしてもちろん、トラブルを学生自身の手で解決するということも」
「起こってしまったトラブルを逆手に取り、トラブルや修復の過程さえも楽しむ。そう考えることはできませんか?」(手鞠シナリオより)

 獅子ヶ崎学園は、変化し続ける状態がすでに完成なのだ。それゆえに、「完成に至って」停滞することもない。“非日常”そのものが“日常”なのだ。
 これは、いったいなにを意味するのだろうか?
 従来的な“日常”の機能とは、前述の通り――逆説的に――停滞にこそある。ゲームメカニズムの上では報償を得るための準備期間にすぎない“日常”への執着は、文学的にはモラトリアムを求める心性と関連付けられる。
 これは、恋愛の進展が破滅的な事態へと行き着く『君が望む永遠』や『スクールデイズ』、あるいは“日常”の裏に醜悪な「世界」の構造が潜む『CROSS†CHANNEL』のような作品の存在と表裏一体の関係にある。
 「困難→達成→報償」というゲームメカニズムと、それを支える“日常”/“非日常”の対立構造の存在を自明のものとしつつ、その駆動を忌避することによって一般的な“日常”系作品は成立しているのだ。それゆえ、“日常”がどんなに輝きに満ちていようとも、その本質は停滞と退屈の属性から離れることがない。
 しかしながら、『てとて』は“日常”/“非日常”構造の存在自体を排除している。そこにはもはや「退屈な“日常”」から「劇的な“非日常”」に至る大きな物語の流れすら判然としない。
 エンターテインメント作品における“日常”は、なんの意味もなく退屈なのではない。それは、我々が「退屈な現実」から「楽しい虚構」に入り込むシークェンスとオーバーラップするためにある。『てとて』の感想にしばしば見られる「遠い」という感覚は、導入となるはずの「退屈」が欠如していることから起きている。
 『てとて』におけるゲームメカニズムの後退は、たった2つの選択肢ではなく、この“非日常”を求めない飽くなき“日常”描写にこそ、明白に顕れているのだ。
 美少女ゲームの根本ともいえるエロを求める運動すら、『てとて』にはほとんど存在しない。『てとて』に登場する美少女は、服を脱がせるモチベーションを発生させるようにデザインされていない。『てとて』のエロティシズムは、肉感的な肢体、露出度の高い衣装、そして水着にあり、これは“日常”シーンにおいて十全に満たされる。サブヒロインであるちーさんが一番エロい、という状況が、さして倒錯的でもなく立ち現れる。
 それゆえ、『てとて』のストーリーは、騒がしく、輝かしく、波乱に満ち、お色気過剰で、エンターテインメント的な描写に傾倒しているにも関わらず、全体としては停滞し続ける。展開にメリハリがなく、カタルシスもない。
 変化も達成も最初から“日常”に織り込まれているために、結局のところそれを得ることができない。
 恋愛もそうだ。ラジオでも言及したところで、明言されてはいないのだが、父・宗鉄が慎一郎を獅子ヶ崎学園に送り込んだのは、嫁取りの意味があることは自然な想像といえるだろう。そう考えるならば、一見全く新たな経験に思えるヒロインとの恋愛も、最初から“日常”にビルトインされていることになる。
 “日常”から“非日常”、共通ルートから個別ルートへの「変化」が明らかでないことから、せっかく分岐する各個別ルート間の差異も見えにくいものになっている。ヒロインの存在は、“日常”を構成するパーツのうちいくらか大きいひとつであるにすぎない。それゆえ、作中明らかな最重要ルートである「獅子ヶ崎の声」は、「ルートヒロインが全く存在しない」ルートとなっているのだ。
 全ては、「獅子ヶ崎の声」――獅子ヶ崎学園というコミュニティ、獅子ヶ崎という場のためにある。

 『てとて』が、ただ“日常”をレクリエーションとして提示するだけであるのならば、我々プレイヤーの決着はどこに見ればよいのか。
 我々は獅子ヶ崎に住むことはできず、獅子ヶ崎学園の学生たちもいつかは卒業しなければならないのに。
 『家族計画』や『るいは智を呼ぶ』では、新たなる“日常”の始まりをもって物語は幕を下ろした。登場人物には“日常”の続きが与えられ、プレイヤーは自らの“日常”に帰された。
 『てとて』の“日常”は、入れず、帰ることもできず、我々はそれをただ眺めることしかできない。
 確かに、その“日常”は楽しい。しかし、楽しいだけではエンターテインメントにはなれないのだ。