父を殺さない/父“未然”、
蓋然マルチチュード

なしお

 みなさんはゲームをやる時、その序盤で「この先なにが語られるのか」「テーマ(みたいなもの)は何か」とか考えたりすることはないでしょうか? 自分は結構考えます。あ〜こういうキャラクターが多いってことは〜、あ〜こういう設定であるってことは〜、あ〜こういう事柄を問題として扱ったり後に問題となる伏線として扱うってことは〜、「○○がテーマみたいな感じなのかな〜」みたいな。 語られた内容から、この先に語られうるだろうこと、特に本作品の「軸」「テーマ」になることは、このようなことじゃないのか? なんてことを、何となく予想する。もちろん「軸」とか「テーマ」って言葉は便宜的なものなんですけどね。

 さて、そんなわけで『てとてトライオン』なんですが、序盤をプレイした時、私はこれ、「父殺し」的な何かが語られるのかな〜とか、おおよその当りを付けていました。もう開始5分の時点で印象的に語られますね。“慎一郎の父”。探検家で研究者で、語られる内容からは豪快な超人じみた印象を抱かせる存在。慎一郎を今までさんざん連れ回し(慎一郎もついていき)、そしてここにきて慎一郎を獅子ヶ崎学園に入学させた張本人。慎一郎の体力・知力・精神力・スキルなどは、父に鍛えられた・父と一緒にいることで必然的に鍛えられたものである。この学園で起こる様々なトラブルもまた、父絡み――父の発明に絡むもの。そもそも学園自体が父たちの手からもなっているもの。

やっと地球一周の旅から開放される。
やっとまともに学校に行ける!
鍛えられてるから。
不本意ながら。
結局どこに行っても親父の乱行に四苦八苦って
いつものパターンにハマってるのは癪だが、
相手が親父の発明ならこっちも慣れたもんだ。

 決して望んでそうなったわけではない、父という名の束縛。開放されるということはつまり束縛されていたということ――彼の語りから、それは“ムリヤリ”でありまた“望んで”でもあったのだろうけど、いずれにせよ、普通の家庭などとは比べ物にならない、環境の極端さが束縛的に存在していた。今の慎一郎が“今の慎一郎”なのは、親父と共に暮らして鍛えられたからでもある――それは彼にとって、善し悪しは別としても選択肢未然の「不本意」なことではあったけれど。親父の乱交に「巻き込まれて」色々と苦労するのはいつものこと――そしてここ、獅子ヶ崎学園においても。
 しかも隷属の証たる「首輪」まで付けられちゃってる。

 ということで、この開始そうそうに語られる情報から、私は「父殺し」的な何か想定していたのですが、しかし予想は大外れ、真実は全く異なっていました。
 父を“殺さない”。
 殺さない。
 追い越さない。乗り越えない。跳び越えない。超越しない。超克しない。克服しない。征服しない。服従しない。従属しない。隷属しない。
 戦うでもなく、かといって従うでもない。
 そもそも、<父>“足りえない”。
 <父>足りえない父。
 単純に慎一郎の親父のことだけではなく、「禁止」、さらには「抑圧」「束縛」などの象徴である、いわゆる<父>。それが絶対に足りえない。
 獅子ヶ崎学園に常に起きている問題。個々のヒロインの様々なこと。そこに纏う「禁止」は、権威の状態からすらっと解かれ、ただの集合の一つとして並列的に――そして日常的に存在している。
 『てとて』においては、禁止も、抑圧も、束縛も、中央に置かれ己を捕らえ閉じ込める牢獄ではない。だからそれは、決して殺すべき敵ではないし、越えるべき対象でもない。そもそも機能していない――未然である。

 慎一郎と父との対決などは――直接的にも、抽象的にも、想像的にも、象徴的にも――、無い。描かれていない。起こりえない。だから「越える」ことも「立ち向かう」こともない。かといって服することもない。彼の能力やスキルは、既にここでは慎一郎のものになっている。起源は父に与えられたものでも、現在は己の中の一つの要素。首輪は確かに刻印を残している記号だけれど、その記号は意識されない――トライオンの道具としての機能としての首輪としか、認識されない。つまり刻印すら利用されている。自身の能力と同じように、親父という署名もまた、利用されうるもの。
 父によって獅子ヶ崎学園に送り込まれたことも、その獅子ヶ崎学園を巡るトラブルの大きな要因に父の発明・開発が関係していることも、彼を抑圧しない――禁止しない、束縛しない。
 彼自身が十全に語っていました。

「しょうがない、親父の手の上で踊ってやるか」
 「せっかくだから、誰よりも楽しくな」(手鞠シナリオより)

 このセリフが象徴するように、慎一郎の中で父は、自分をこんな自分に仕立て上げた抑圧者、旅に連れまわしたり獅子ヶ崎学園に送り込んだりする束縛者、学園のトラブルの元凶で様々な困難と不憫を強いる禁止者ではなく、そのセリフ的に喩えるなら手というダンスフロア、ただ自らの環境の一つとなっている。
 この状況を、普通に考えれば――あるいは、ある一方向から見れば、禁止する者、抑圧する者、束縛する者と捉えてもおかしくない。自分の成長を良かれ悪しかれ勝手に導かれて、自分の進路を強引に決めて、その先でも多々問題を振りかけてくる。普通の人間だったら、そんな対象は、己を束縛し抑圧し禁止する<父>となる。
 しかしならない。慎一郎においては。
 絶対の否定者でもなく、壁でもなく、障害でもない。ただのひとつの環境。だから殺すこともないし、越えることもないし、そもそも<父>足りえていない。未然。それは、その差異を保ちつつ、自分を取り巻くあらゆるものと並列に並べられている。絶対の機能ではない。

 といったことは、獅子ヶ崎学園を巡るトラブルにも言うことができるでしょう。
 獅子ヶ崎学園を巡るトラブルは、一方向から見れば、様々な禁止と抑圧を要求する。どこそこに入れない、なにそれが出来ない、あれこれが制約される。使えない校舎もあれば、権限に届かない機能もある、トラブルの所為で電気も自由には使えない、特活に従事しなくてはならない。
 何かが出来ずに、何かに縛られる。
 それらトラブルは、このように「禁止」「抑圧」に結びつきうるのだけど、実際、会長シナリオで語られる2年前のハリケーンブラック到来後の生徒の心情はそのようなものだったのだけれど、「現在は」そうではないように、「必ずしも」そうではない。慎一郎における「父」も同じ。<父>というのが象徴的なもので、実体的ではない禁止・抑圧・束縛である以上、言い方はアレですが、それらを禁止・抑圧・束縛と思わなければ(そこに配置されなければ)、それらは禁止・抑圧・束縛とならない。
 獅子ヶ崎学園を巡るトラブルについては、手鞠のこの言葉に、ある種集約されています。

「この学園はある意味では、完全なんだと思います」
「普通ならば、この学園で起こっているようなトラブルに遭遇することはありません」
「そしてもちろん、トラブルを学生自身の手で解決するということも」
「起こってしまったトラブルを逆手に取り、トラブルや修復の過程さえも楽しむ。そう考えることはできませんか?」(手鞠シナリオより)

 禁止・抑圧・束縛は、それを「禁止・抑圧・束縛」と思わなければ(配置されなければ)“そうではない”。詭弁かのようですが、実際にそう。たとえば人間は空を飛べない、どんなに鍛えても時速100キロで走ることは出来ない、深海に長時間素潜りすることはできない。それらはある一方向から見れば、禁止・抑圧・束縛だけれど――実際は意識されない。確かに出来ないけれど、絶対の権力として意識されて出来ないのではなく、ただ環境の限界として設置されているだけ。意識がなければ、禁止も抑圧も束縛もない。そして禁止でも抑圧でも束縛でもない、ただ環境として置かれているだけならば、手鞠の言うように、慎一郎がそうするように、「逆手に取り楽しむこと」も、「どうせだから楽しく踊ること」も、できる、てゆうか、『てとて』では、している、蓋然的に。
 それは「禁止・抑圧・束縛」の方が、自ら絶対であることを投げているから。自ら<父>であることをやめている。慎一郎の親父もそうですね。
 「宗鉄さんは、慎一郎さんに遊んでもらいたい。そう思ってるのかもしれません」 「あの親父のことだ。『俺で遊びながら、俺を遊ばせる』くらいのことは考えていてもおかしくない」(手鞠シナリオより)  否定的な意図ではなく、もはやこれは遊びである。遊ばせているし、遊んでもらっている。学園を巡るトラブルのもうひとつの(そして最大の)要因である、「獅子ヶ崎の声」についても、そう。
 俺たちが好きだから一緒に遊びたかった。ただ、それだけ。でも俺たちも全力で遊んだからおあいこだ。そっちだけ楽しませてたまるかってんだ。(獅子ヶ崎の声編より)  慎一郎の親父も、トラブル=獅子ヶ崎の声も、当の本人からすれば、禁止者でも抑圧者でも束縛者でもなく、「遊ぶ者」である。遊びたくて、遊ばせたくて、遊ぶ。自ら父の座を棄却している。
 ゆえにここには父はない。父未然。だから父を殺さない。ないものは殺せない。

 いわゆる「個別シナリオ」に入ると、そのお話がどんな感じになるのか――どんなテーマ・軸(これらは便宜的な用語ですが)が語られるのか――みたいなことを、考えたりしないでしょうか? 考えるっていうか、予想っていうか、予感っていうか。自分は結構考えるんですけどね。この『てとてトライオン』においては、たとえば『手鞠』シナリオだったら、それまでの語られ口から、手鞠父やそれに纏わる手鞠過去との何かが軸になるんじゃないか、代理父の鷹ちゃんとの関係が軸になるんじゃないか、なんてことを――予想というか、予感というか、予期していたのですが。
 これもまたぞろ大外れ。
 全く語られなかったわけではないのですが――何せゲーム内で語られてから/語られたから、予想・予感・予期しているのだから、全く語られないわけがないのですが――、言うなれば「軸」のような重みは持っていなかった。重みを持って語られていなかった。
 障害になるかなと予想していたものが――禁止・抑圧・束縛を与えるかなと予感していたものが――決してそうはならなかった。なりきらなかった。未然に終わった。
 学校関連のトラブルは他者(慎一郎、手鞠父など)とを“結ぶもの”へと利され、手鞠父との因縁的なもの・家庭環境的な何かなども問題とはならず、代理父の鷹ちゃんも障害にならない。
 これは他のシナリオにも大なり小なり言えるでしょう。どのシナリオも、「獅子ヶ崎を巡るトラブル」を除く、つまり「その二者間」にのみ大きく纏わる問題が、とても大きくは無かった。波乱万丈が無かった。紆余曲折が無かった。波を掻きたてるような、道を捻じ曲げるような、強烈な「禁止」や、圧倒的な「抑圧」や、運命のような「束縛」が、無かった――もちろん大なり小なり、どの程度を大と見なすかにもよるけれども。
 禁止未然、抑圧未然、束縛未然に収まる。鈴姫の「清い男女交際」はあっさりと禁止の階級から下げられ、感情と同序列化されるし(むしろ半ば享楽の要素化している)、会長の二つの側面は、ヴェールもその奥もヴェールをかけるカーテンレール的なものも、どれも認められている(現三年生には最初から、慎一郎は後ほど)。夏海は……問題、または問題になりそうな何かすらあったっけ? と思うほど。というか、夏海のあの性格なら、問題も問題にならない――トラブルを楽しむように、自身に回収するのであろうけど。

 禁止という条項、<父>という条目、それが薄れている。少なくとも「絶対」ではない。なにかが禁止されていて、なにかが抑圧されていて、なにかに束縛されているからこそ、何か一つ、正しいことがあり、何か一つ、目指すことがあり、何か一つ、救いになるものがある――なんて構図は、微塵といっていいほどにない。獅子ヶ崎学園を巡るトラブルの解決すら、ひとつの、楽しむイベントと化している。それは達成されなくてはならない目的ではない――手鞠が云うように、トラブルを逆手に取り、トラブルや修復の過程さえ楽しんでいる。禁止者としての大人は出てこない。いわゆる「モブ」のような一般生徒においても、たとえば電力節電言ってるのに電子レンジ使っちゃう奴や、ダメって言われてるのに居残って学園祭の準備しちゃう奴のように、「禁止」が弱い。というか、「禁止」の階級ではなく、「環境」の階級で働いている(と思われる)。トラブル解決においては、獅子ヶ崎トライオン(&鈴姫)が当るだけで、彼らに協力は強制されていない。特殊な、特別な階級に置かれているものはない。感情や思考と同じくな階級に置かれている。

 『トライオン』が特徴的でしょう。
 手と手を重ねて、繋いで起こる、トライオン。そこに「声」が挿入されることが多々ありますね。何と言っているか。

手と手……
鼓動と鼓動……
こころとこころ……
重ねて……伝える……
伝わる……
感じる……

 こんなことをよく言っています、その「声」は。
 手と手、鼓動と鼓動、こころとこころを重ねる。重ねることで、伝わる、感じる。実際に、そう。「トライオン」の空間の中で、相手の思ってること、考えてること、感じてること、それらが伝わったり感じられたりします。それぞれが変な妄想をしているのが伝わったり、全然違うことを考えたり、今トライオンしてる状況と関係ないこと思ってるのが伝わったり――なんて描写は多々ありました。
 重ねる。思い、考え、感情、こころ。それらは伝わる。感じられる。
 なのに、ここにおいて、いかにもあっておかしくない、「こころを一つに」のようなことは、全く無い。「声」はそんなこと言わない。トライオンはそんなこと要求しない。
 二人の心を一つにしてトライオン成功とか、二人の心を一つにして目標達成とかは、無い――二人の心は別々でも、トライオンは成功するし、目標は達成できる。
 別にトライオンと関係ないこと考えててもいい。お互いに異なることを思っていてもいい。それでも機能する。失敗するのは、相手に伝わることを拒否した時のみ。
 つまり、逆説的に、トライオンの機能は、心を一つに、思っていることを一つにすることではなく、ただ、みんながバラバラのことを、別々のことを考えていても、それら纏めて一つにするということ。差異が差異のままである集合。伝わることを拒否してはならないけれど、伝わる内容はなんだろうと拒否されない。そこに優劣はない。トライオンの方(PITAシステムの方)が、思考や感情に優劣をつけない――つまり、権威化していない、ただのシステムと、環境と化している。

 ここには権威はなく、(権威的な)やらなきゃいけないこともない。学園トラブルにあたる「獅子ヶ崎トライオン」の旧名称が「やってみよう会」というのも一つ示唆的でしょう。学園トラブルを解決することは、一見、やらなくてはいけないこと――直さないわけにはいかない、治すのが絶対目標、できる/できないではなく“成し遂げなくてはいけない“、やる/やらないではなく“やらなくてはいけない”こと――かのように思えるけれど。名称の「やってみよう」が意味するように、それは絶対に解消しなければならない禁則でも、超えなくてはいけない壁でも、打ち破らなければならない檻でも無い。やらなくてはいけないことではなく、成功しなくてはいけないことではなく、あくまで「やってみよう」。チャレンジしてみよう、立ち向かってみようということ。ここは、そのやること自体に「禁止・抑圧・束縛」が掛かっていない。

 この状況を楽しんでるのが自分たちだけと思うなよ? 獅子ヶ崎学園の生徒は、いつだってなんだってお祭り騒ぎにしちまうんだからな!(獅子ヶ崎の声編より)  立ちはだかるトラブルは、禁止でも抑圧でも束縛でもない。楽しむ為の対象/材料だ。生い立ちも歩みも、自分を縛り付けやしない。夏海・手鞠・慎一郎の血縁的な学園との因縁が物語上において恐ろしく掘り下げられなかったように、鈴姫と慎一郎の過去が現在においてはただのきっかけに過ぎなかったように、それらはただの環境でしかない。<父>的なものは薄く、そもそも<父>になろうという気がない。動機が「遊びたかったら」――慎一郎父の発明も、手鞠父の悪戯っぽいパスワードも、獅子ヶ崎の声が夏海に憑依した際に、決して夏海を支配せず、夏海自身意識があり彼女が進んで協力していた(この子が楽しそうだから協力してあげようかなって)のも――全てそう、「未然」の材料。

 心を一つにする必要もなく、差異を消してひとつにする必要なんかない。権威で強引に纏め上げる必要はない。そも「未然」なのだから、出来やしない。それは、自分自身の中も、そして自分自身と他人自身との間も。
 「手と手」で繋がるのはそれだけ。あるいは、それだから。鼓動と鼓動、こころとこころは重なり、伝わり、感じるけれども。別にそれだけでしかない。別にそれだけで充分である。みんなの思いが今ひとつになる――必要なんてどこにもない。「手と手」で繋がっても、一つになるわけじゃない。身体という決定的な断絶がそこにある。手と手という肉体が、私とあなたが別々だってことをどうしたって教えてくれる。どうしたって一つのものにはなれない。
 けれど「手と手」で一つに繋がっている。お互いが別々の人間で、違うこと考えていて、心は一つになっていないかもしれないけど、それでも、為し遂げられる。それ故に、成し遂げられる。ひとつになどならない、自由だからこそ、どんなトラブルも逆手に取って、なんだってお祭り騒ぎにしちゃって、この状況を楽しんでいくことが、できる。