誰もが楽しめる
「獅子ヶ崎学園」
という楽園

simula

てとてトライオンという作品で一番特徴的だと思うのは、夏美がラストで言う「私ね、この学校、だーーい好きなんだ!」という衒いのない全肯定感ではないかなと思うんですよね。

何かを全肯定するのって、結構難しいことだと思うのです。例えばですけど、僕はこの作品100%混じりっ気なく全肯定できるか?と問われれば、難しいですねえと答えます。まあ、この作品に限ったことではなくて、普通ここは良いけどここは悪いというもののグラデーションになると思うのです。どっちとはなかなか言い切れない。なんでこの子ら、こんな風に肯定できるのかしらと考えたときに、この作品の「楽しもうとする姿勢」がまず出てくるんですよね。



この作品では基本的に慎一郎たちはトラブルに対して受身です。なかなか先手を取るということはできず、常に振り回されているとも言えます。ただ、それに対する彼らの姿勢は楽しんじゃおう!なんですよね。

波乱万丈な彼らの生活の中で、一つ大きなイベントである獅子ヶ崎祭について、例えばこう語られます。

「生徒主催の夏祭りだっけ?
 楽しみにしてるよ」
「ああ、楽しみにしていてくれ」
「……いや、違うか」
「慎一郎、一緒に楽しもう!」
「オレたち学生が作る、
 オレたちのための祭だからな!」

ここでは、獅子ヶ崎祭が自分たちのための祭りだと言いますけど、ある意味彼らのトラブルへの対処って同じ態度に思えるんですよ。一乃が過去に体験した、学園が終わりそうになったときのような重さを感じない。皆それぞれ楽しみながら積極的にハプニングという「お祭り」に参加しています。



そして、なんでトラブルなのに楽しめるかというと設計側にも理由があって。手鞠が宗鉄はこの学園で起こるトラブルも楽しんでもらえるように設計したのではないかと言います。他にも設計者と言える人たちが何人かいますけど、

夏海の祖母が、灯台からの景色を孫のために用意したり、

手鞠の父親は、失敗したらまた当分トラブル源の大きいところを解決できそうもないという鍵の部分で自分の娘を選んでみたり、

そもそものトラブル源である獅子ヶ崎の声にしても、「トライオンを行った人間が望まない結果は起こりえない」と言われるくらいのトラブルに抑えていたりします。



このように楽しむ側と楽しませる側がいるわけですけど、これって片側だけでは成り立たないと思います。

てとて中では誰かが大怪我するとかは描かれていないと思うんですけど(夏海が怪我したくらい?)、これはやはり設計側の意図がある程度上手く行っているからだと思います。これがなければおそらくトラブルを楽しむなんて言ってられない深刻なものになってしまう。また、手鞠がすーぱーはかーで彼女がいないと成り立たないというのも、折込み済みで子供たちに解決してほしいということではないかと。

で、もちろんですけど、楽しむ側がいるという事が一番大事なことで。ここのラジオでひねくれた人が学園出てく人がいないよねとか言ってた気がしますが、考えてみると真実だなあと思って。例えば慎一郎がそもそも親の言うことを聞かずにこの学園にこなければこの物語は始まりもしないわけです。手鞠もそうですし、他のパスの持ち主なんかも一人か二人いなくなったら、おそらくこのトラブルは収まらない。

ある種の協力関係によってこの物語は成り立っていると思うんですよね。



そして、それが一番強く現れてくるのがラスト「獅子ヶ崎の声」です。この話では楽しませる側と楽しむ側が逆になっています。今まで見守ってきた側である「獅子ヶ崎の声」が鬼ごっこをしたいと望んで、慎一郎たちが鬼を追いかけるという側になっている。でも、基本的なスタンスは変わらないんですよね。わざわざ鬼ごっこに付き合う、ある種の慎一郎たちの側のノリの良さによって支えられている。会長の「獅子ヶ崎学園の全力を持って当たるわ」なんていうのなんかそのニュアンスがよく出てるなーと思います。要するにこういう人たちがいないと成り立たないんですよね。

そして、最後のオチなんか一番そうで。今までのシナリオでは一般生徒って影が薄かった感がありますけど、慎一郎から夏海というより、獅子ヶ崎の声までの「手を届かせる」のは一般生徒がいないとできません。お祭り騒ぎが大好きな、そんな人達が集まった獅子ヶ崎学園だからこそこうなるんですよね。

そう、ここは獅子ヶ崎学園。
いつでも大騒ぎで、
いつでもビックリ箱。
静かな日常はないけれど、
ドキドキとワクワクだけは、
いやっていうほど詰まってる。
トラブルなんて日常茶飯事。
楽しんじゃうのが当たり前。
ここは、平穏から一番遠い場所。
そして、「ありえない」が「当然」に変わる場所だ。

「ありえない」事というのはどういうことかというと。つまり、「そのままでは」ありえない、起こりえないことだってことなんですよね。逆に言えば、それをありえることにしてしまう何らかの理由があればそれはありえます。楽しませようとする意思と、楽しもうとする意思が手をつなげば。こういう全肯定、ありえない感じも悪くないと思わせる辺りが、獅子ヶ崎学園とそこに関わる人達の力だなとそんなことを思いつつ、夏海ほどは言わずともなんか好きだなーという良い読後感を持ってこの物語を読み終えることが出来ました。