脱臼されつづける同化と「肯定の思想」
――ポストFate時代の鷲塚慎一郎

八柾山崎

目次

はじめに

 PULLTOPの主人公は「遠い」。巷ではそう囁かれているそうだ。
 確かに『てとてトライオン!』をプレイした限りではそのように感じられる。プレイヤーキャラクター(PC)であるにも拘らずヒロインとのカップリングによって客観化され関係性を消費されるような存在、それが鷲塚慎一郎だ。一般にエロゲープレイにおいてプレイヤーとPCの距離感、同一化の度合いは言ってしまえば「人それぞれ」であるけれども、『てとて』においては総じて遠め/薄めの印象がある。以前私が「他人のリアル」のようなポスト『Fate/stay night』時代――詳しい定義は後述する――の潮流を指し示す新たな概念を提唱するにあたって慎一郎を例示したのもそれがためだ。
 なぜ慎一郎は遠く感じられるのか。原因は二つ考えられる。慎一郎が「等身大の主人公」として描かれていることと、PCよりもよりプレイヤーの代表者らしいキャラクターが存在すること。以下ではこれらの仮説について順次論証していきたい。

ポストFate時代における「等身大の主人公」

 まず、「等身大の主人公」としての慎一郎について論じるにあたって、当該用語の定義が必要だろう。それは拙ブログから引用すれば以下の通りになる。ちなみに、引用部分では『てとて』および慎一郎について直接言及はしていないが、引用先ではこの数行下で触れていることを一応断っておく。

ギャルゲーの主人公によくある捩れた鬱屈――かつて更科修一郎が「零落したマッチョイズム」と呼んだようなもの――がそこにはないからだ。彼は奇妙に明るく前向きに、その身に「責任」を負おうとする。凹むことはあっても立ち直り、闘う。不気味なまでに健全な、きわめて人間らしい生きざまである。これは『スマガ』の主人公にもいえることだろう。うんこマンもまた、何度打ちのめされても諦めず、励まされて立ち上がる男である。ある種ステロタイプな、少年漫画的ともいえる主人公像がここには見られる。

彼らは更科が『月姫』や『GUNSLINGER GIRL』と対置するかたちで挙げた、小池一夫の描く極度にマッチョイズムな主人公像ともまた異なる。調教ゲーにしばしば見られるような、高い自信と手腕を兼ねそなえた大人の男ではない。『月姫』と『凌辱学園長/奴隷倶楽部 〜読心調教録〜』、両者の中道であり中庸を往っているのが都筑武紀でありうんこマンである*2。それは等身大の主人公像だ。そしてそれゆえに、既存のエロゲーの文脈では却っていびつに感じられる。(*01

 さてここで問題となるのは「等身大」とは実のところいったい誰を尺度としたものなのかということである。ことさらに偏見を持ち出したくはないが引用先のコメント欄でも指摘されているように、社会から(あるいは自身たちによって)想定されているような平均的エロゲーマー像は慎一郎の人格からは相当に懸け離れたものではないかという疑義を黙殺することはできないだろう。ではやはり一般的に想定されるような平均的日本人像(あるいは人間像)であるのかといえばこれもやや怪しいものである。果たしてわれわれは、これほどまでに諦めずに立ち向かうことが出来ようか?
 結論から述べてしまえば慎一郎のそれはまさしく現代的なヒーロー像であると指摘することができる。人並みの苦悩を抱えている点で古典的なヒーローよりは「人間らしい」という意味で「等身大の」存在。人格面では平均的な人類よりもやや上に位置し、肝心なところで「諦めない」「挫けない」「立ち上がる」ような主人公こそが概して受け手にとって最も共感しやすく、広く支持を得られるヒーロー像であろう(*02)。筆を滑らせてしまえばそこでは、ありえた「私」――襲い掛かる困難や運命に果敢に立ち向かい勝利する自身の姿――が夢想されているのかもしれない。
 あるいはこれを前代の流行であったヘタレ主人公=乙女ちっくイデオロギーとの対置においてその雄雄しさを根拠に「父」と言い換えることも可能だろう。そう、私がここで行いたいのはあるべき言説の不在が常態化していた04年以降における歴史認識の提示である。90年代中葉、「シンジ君=僕・わたし」言説に代表されるように圧倒的な共感と注目を集めた『新世紀エヴァンゲリオン』を皮切りに、やや遅れて勃興した美少女ゲームジャンルにおいて90年代末からゼロ年代初頭にかけて隆盛を極めたヘタレ主人公は、かつて「萌えの手前、不能性にとどまること」で東浩紀が指摘したように「ダメ」だから、父になるつもりはないけれどオヤジ的欲望は抑えられないオタクが二つの基準のあいだを恣意的に往復し、一方では少女マンガ的な内面に感情移入しながら、他方では一般のポルノメディアをはるかに凌駕する性的妄想に身を委ねるための便として強力な支持を勝ち得ていた(*03)。そして当然ありうる反発として従前よりエロゲ関連三板で伏流していた『君が望む永遠』の鳴海孝之らを叩くような風潮は、『Fate/stay night』の発売が美少女ゲーム史における(もちろんそれまで幾度も打たれてきたものの一つとしての)ピリオドとなった04年に「ダメ主人公総合スレ」として結実し、趨勢の反転を宣言した。この1,2年前から世代交代の着実な進行によって徐々に衰退し虫の息となっていたと推測されるエロゲ論壇は「ポストFate」の新潮に対してもはや語ることばを持ちえず止めを刺され、東率いる波状言論も的外れな批判と沈黙に終始することとなる(*04)。以後、06年に咲き誇った『マブラヴ オルタネイティヴ』を最後の仇花に前後1,2年の過渡期を経て、美少女ゲームの潮流は「等身大」あるいは「完璧」主人公を戴いた新たなパラダイムに移行していくこととなった。ここではまっとうに「父」になるための同一化の対象として主人公は用意されているということになる。
 と、以上のような一面的な理解では問題の本質にはおそらく辿りつけない。『Fate』以前の美少女ゲームが東の云うところの反家父長制かつ・・超家父長制的な感覚に支えられたジャンル*05)であったとして、ポストFateの美少女ゲームにおいては素直に家父長制的な特徴が観察されるということでは断じてない。むしろここにおいてはプレイヤーはもはやどのような意味でも「父」として振る舞えない。家父長制の存在を端から無化する運動、それが「他人のリアル」である。
 どういうことか。ある意味では正しく「等身大」である少女マンガ的内面を保持したヘタレ主人公にあっては、「ダメ」さを自任するオタクたちは深い共感と同一化によるナルシシズムを享受することが可能であった。しかしより「等身大」あるいは「完璧」であるポストFate時代の主人公にあっては、プレイヤーはもはやヘタレ主人公に行なったようなそれを実行することができない(だいたい従前から進んでいたファン層の交代によってそのような類の耽溺を欲するプレイヤーはかなり減少したとも考えられる)。ここにおいては最早プレイヤーは同化ではなく「感情移入」――それも比較的浅いもの――しか行なえず、あたかもハリウッド映画のヒーローを見るような応援と興奮のまなざしでしか主人公を操ることができない。『てとて』をはじめとするいくつかの作品では選択肢の数・内容を巧妙に低減・簡略化・排除することでいわゆるゲーム性・攻略性を極端に低下させることで、プレイヤーの超家父長制的な身振りは解体、とまでは行かなくとも限りなく弱化させられている(*06)。さらに乙女ちっくイデオロギーにおいてはプレイヤーの同化を促していた地の文による内面描写も『てとて』ではかなり薄めである。エロシーンは二人の蜜月としての側面が強調され、慎一郎の姿がテキストとグラフィックの両方から描写されるために結果的にはポルノとしての実用性に乏しい出来となっている。CGそのものはいずれもこれ以上なくエロティックな出来映えであるのにもかかわらず。
 あたかも他人のリアルを垣間見ているかのごときゲームプレイ。ここではヘタレ主人公に対して行なったような意味での同化は容赦なく脱臼される。それがポストFate時代における「等身大の主人公」が紡ぎだす「他人のリアル」である。ゆえに慎一郎はどこか遠いのだ。

PC以外に用意された三人の代表者

 ここまでは「なぜ慎一郎は遠く感じられるのか」についてポストFate時代に顕著な主人公像の特徴の面から論じた。しかし実は慎一郎が「遠い」理由はもう一つ挙げられる。すなわち『てとて』においては慎一郎は確かに物語の主人公でありPCでもあるが、しかしながら作品世界内においてプレイヤーを象徴するキャラクターではないために身近に感じられないという素朴な事実である。既になしおによって指摘されているとおり、作品世界内におけるプレイヤーの視点は慎一郎の父親である「鷲塚宗鉄博士」であり、更には土地としての獅子ヶ崎の意志であるとされている〈獅子ヶ崎の声〉でもあり、また前二者に比してかなり限定的ではあるが一般生徒たちでもある。
 以下ではこれらの三者についてそれぞれなしおの議論を引用しながらまとめたい。

宗鉄

あの親父のことだ。『俺で遊びながら、俺を遊ばせる』くらいのことは考えていてもおかしくない。*07

慎一郎の親父ってのは、"ここに不在の楽しんでいる者"です。ならびに"彼らを楽しませていると「彼らが勝手に思い込んでいる」者"でもある。

慎一郎を獅子ヶ崎学園に送り込むという行為と、我々がゲームを開始するという行為。親父が決して直接的な介入をしない(できない)ように、私たちも直接的な介入(選択肢)はしない・できない。それでも、親父が慎一郎を遊ばせながら、自分も楽しんでいる(と慎一郎は予測)ように、俺らも慎一郎を遊ばせながら、自分も楽しんでいる。

まあ俺らが楽しむ視座としてはバッチリなんじゃないでしょうかねー、とか思ったり。あと宗鉄さんって「実体ない」ですからね。どんな人間だかさっぱり不明。いちおう慎一郎くんとかてまーによって語られてるけどさ、それは実体じゃなくて「彼らの中の/彼らが思う宗鉄」ですしね。性格とかに関しては、客観的なことが語られないじゃない。エピソードとかは語られない、慎一郎くんとかてまーとかの「俺は/私はこう思う」という主観的なことしか語られない。逆に「発明」なんかは、客観的に顕現している。つまり、実体は無いけれど、影響力として、存在として、色濃く覆っている。彼が(楽しんでいるのは前提としてあったとしても)慎一郎くんたちの、ここでの行動や出来事なんかを、どう見ているか・どう見るかが不明のままなんですね。そこが不明だからこそ僕らの視座になれやすい。そもそも学園に慎一郎くんを送り込んだり慎一郎くんのスキル体力知力だったり首輪だったりというレールは親父ですからね。圧倒的な力をこっそりと見せ付けている。 (*08

慎一郎を獅子ヶ崎=セカイに送り込むこと、および彼を楽しませながら自分も楽しむということ。この二つをもって宗鉄は「プレイヤーの視点」であるとされる。ここに彼の同志として学園の理事長である夏海の祖母や手鞠の父親でありかつての宗鉄の同僚でもある十倉博士を加えてもいいだろう。更に踏み込んでしまえば彼らは作品世界を創り出したクリエイターの象徴と読むこともできる。いずれの読みでも矛盾はない(*09)。

〈獅子ヶ崎の声〉

 彼女もやはり獅子ヶ崎学園生たちを楽しませる「外部」として存在しているとされる。

俺たちが好きだから一緒に遊びたかった。ただ、それだけ。でも俺たちも全力で遊んだからおあいこだ。そっちだけ楽しませてたまるかってんだ。*10

色々トラブルを引き起こした要因的(あくまで的)でありながら、そこに悪意はなく、そしてそれに直面する慎一郎らにとっても程度さこそあれ楽しめるものと解釈されており(起こってしまったトラブルを逆手に取り、トラブルや修復の過程さえも楽しむ。そう考えることは出来ませんか? (*11))、当の獅子ヶ崎の声本人(?)としては、そのセリフの通り、獅子ヶ崎学園のみんなと遊びたい、遊んでほしい、遊ばせたい――宗鉄さんと一緒ですね。実体の無いところも。宗鉄さんが影響を与えながらもここ(獅子ヶ崎学園)に存在していないけれども獅子ヶ崎学園のものから存在を認知されている者であるのに対し、〈獅子ヶ崎の声〉は、影響を与えながらここに(ひっそりと・不可視で)存在しているけれどその存在自体は(獅子ヶ崎の声編まで)認知されてない者である。なかなか相補的でありながら、どちらもしっかりと存在できない、どうしたって「"彼らの"外部である」(獅子ヶ崎学園の外部、獅子ヶ崎学園生徒たちの外部、獅子ヶ崎トライオンの外部、恋愛する二者間の外部、など閾は時と場合で様々)という点は共通しています。 (*12

 ヒロイン四人のルートをクリアした後に解放される最終シナリオ「獅子ヶ崎の声」編において、それまではその存在を断片的に匂わされるだけだった彼女は遂にその姿を現し、学園生たちとひとしきり「遊んで」から夏の終わりとしばしの別れを告げて去る。これこそが〈獅子ヶ崎の声〉がプレイヤーの象徴であることの証左であるとなしおは指摘している。

一般生徒

 最後に一般生徒たちであるが、上に述べたようにこれはかなり限定的であり、主に胡桃沢鈴姫ルートでしか観察されないのでここでは軽く指摘するに留めておきたい。プレイヤーが一般生徒の視点に立つのは、慎一郎と鈴姫のいわゆる「いちゃラブ」――ある二者の人間関係がきわめて濃密・緊密であることから生じるふるまいと、その原動力となる深い好意の双方向的なまじわり*13)――が冷やかされる場面においてである(*14)。ここではプレイヤーは一般生徒たちに同化して「第三者のまなざし」によって二人の関係を承認しているといえる。
 『てとて』においては大まかには以上の三者がプレイヤーの代表として機能しており、それぞれに慎一郎への同化を脱臼する一因となっている。

獅子ヶ崎の声:いかにして自分のものではないものを自分のものとして獲得するか

 ここまでの論証で『てとて』における慎一郎への同化が阻害される原因は凡そ明らかになったといっていいだろう。それにしても、『てとて』にあってはなぜこのような明らかに素朴でない構造が必要となったのか。単に「遊び場」を演出するためという物語上の要請を超えて、ここにはゼロ年代におけるある倫理への信仰を指摘することができる。すなわち、いかにして自分のものではないものを自分のものとして獲得するか*15)。
 ここで私は『てとて』を解き明かす補助線として村上裕一の議論を引用したい。「逆接の倫理――『Fate/stay night』再考」において村上は『stay night』に対する「ゲーム的リアリズムの観点からは非倫理的」(東)や「サヴァイヴ系決断主義の作品の一つ」(宇野常寛)といった先行する一面的評価にも配視しながら、それは第一に一貫して「変えられぬもの」と「肯定の思想」をめぐる物語であったと宣言する(*16)。そして村上はこの「肯定の思想」――自分のものでないものを自分のものとして獲得すること――が『stay night』にのみ単発的に見られるものではなく、『CROSS†CHANNAEL』(2003年)や『stay night』の実質的な続編である『Fate/hollow ataraxia』(05年)、先に言及した『オルタ』(06年)などにおいて連関的な進展を見せていると指摘する。
 「肯定の思想」とはなにか。村上によればこれ(筆者注:肯定)は極めて繊細なニュアンスを持つ言葉である。これは「この物語」を特権化し他者を見失うような「正当化」でもなければ、「この物語」という現実を軽視する「相対化」でもない。このバランスをキープした現実感覚をいかにして獲得するか。「肯定」とはそのような思想であるという(*17)。ここで美少女ゲームにおけるその具体的な実現例として村上が論じている『stay night』は、空洞である士郎が一貫して他人の鏡/代理として闘いつづけ、自身の似姿であるアーチャーやアンリマユとの対峙によって自身の葛藤を他者の問題の解決という形で外形的に遂行するように、いかにして自分のものではないものを自分のものとして獲得するか――いかに自分のものとは思えない「この物語」を肯定するか――という不可能をめぐる物語であるとされる(*18)。そして結果として士郎が闘いを最後まで生き延びたこと、その過程が彼の生を肯定するのである、と。
 ポストFate時代の美少女ゲームをこの思想によって定義づけるのであれば、今ここで先に述べた歴史認識に少々の訂正を加える必要があるだろう。すなわち、最も早期の萌芽としては00年の『AIR』を皮切りに03年の『マブラヴ』『C†C』によって予告されていた「肯定の思想」は04年『stay night』によって号砲を上げられ、2年前後の過渡期を経て06年の『オルタ』によって決定づけられた、と(*19)。あるいはここに『最果てのイマ』(05年)などいくつかの作品を加えてもよい。もちろんこのパースペクティヴはいまだ未検討の部分も多いあやふやなものであり、今後のより一層の検討が待たれる。いずれにせよゼロ年代後半の美少女ゲームは「肯定の思想」の繚乱期であり、そしてその興味ぶかい例の一つが『てとて』であるといえよう。
 さてここに至って議論の焦点はようやく肝心の『てとて』に辿りつく。『てとて』において「自分のものではないもの」とは何か。それはプレイヤーにとっての慎一郎の経験である。ここまで論じてきたように内面の問題としてプレイヤーはFate以前のようには慎一郎に同化できないし、ぜんたい作品世界内におけるわれわれの代表者はおもに〈獅子ヶ崎の声〉である。ゆえに慎一郎の経験は一足飛びにプレイヤーのものとはならない。あるいは順序は反対で、等身大の主人公に対するプレイヤーの同化の困難性を認識したからこそ主人公たちを楽しませるプレイヤーの象徴として〈獅子ヶ崎の声〉が別個に用意されたということもできるだろう。いずれにせよ、獅子ヶ崎の声がいかにトラブルを発生させて慎一郎たちを楽しませようとも、「彼らが楽しかった」経験は彼女=われわれに蓄積されることはないのである。そして、ややもするとポストFate時代における典型的な問題であるかもしれないこの図式に対する解法として「獅子ヶ崎の声」シナリオは用意されている。
 どういうことか。「獅子ヶ崎の声」シナリオが四つのルートのクリア後に解放されるということは先に述べた。ここではそのシステム上の条件がストーリー上の枠組みにあたかもフィードバックされているかのごとく、時間軸は「各ルートにおいてそれぞれ表面化する校舎についての四つの問題がすべて解決されたあとの夏休み」の世界であるとされ、慎一郎は当然これらの問題すべてに携わった「スーパー慎一郎」であるという(*20)。ここで〈獅子ヶ崎の声〉は夏海に憑依して慎一郎たちと追いかけっこを「楽しみ」、その顛末として獅子ヶ崎学園の生徒たちとの「獅子ヶ崎トライオン」が成立する。本来は二者間において「心と心を通じ合わせる」効果を持つトライオンを多人数で行なうことの意味するところはなにか。〈獅子ヶ崎の声〉にとってはそれは、これまでの人知れぬ労苦が肯定され、しかも慎一郎をはじめとする生徒たち全員と「楽しかった経験の感覚」を共有する瞬間である。まさにここにおいて彼女は/われわれは遂に「本来自分のものではないものを自分のものとして獲得する」ことに成功したのである。

注釈

*01:等身大/完璧:ゼロ年代後半のエロゲー主人公像における新たな潮流について、おもに『ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!』と『スマガ』から - 極南の空へ
*02:たとえば『スマガ』であれば、ここでは90年代以降のハリウッド映画における主人公像の変化――たとえば『スパイダーマン』シリーズ――を傍証に論じることも可能だろう。が、あいにくと筆者はその方面の知識は限りなく薄いのでここでは単なる指摘を行なうに留めておく。
*03:いずれとも、東浩紀「萌えの手前、不能性にとどまること」(東浩紀編『美少女ゲームの臨界点 波状言論臨時増刊号』2004年、波状言論)168ページ。なお、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(2007年、講談社)にも収録されている。
*04:ここで注意しなければならないのはダメ主人公スレにおいても衛宮士郎は批判の対象となっているという事実である。これがある種の誤解/誤読に基づくものであることは言を俟たない――そもそもヘタレ主人公批判とは『君望』の孝之を例に挙げるまでもなく、ある意味では常に「誤読」に基づくものであるし、それでなくとも当該パートスレにおいても士郎の評価はやや分かれる傾向にある――のだが、そうは云っても彼を駆動する倫理がプレイヤーに正確に理解されているとはいいづらいのが現状である。なお、士郎の倫理を明らかにしようとする意欲的な批評としては、本論の後半でも触れられている、村上裕一「逆接の倫理――『Fate/stay night』再考」(村上裕一・峰尾俊彦編『最終批評神話』2008年、最終批評神話。ただし現在では講談社BOXの『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』(2009年、講談社)に同人誌ごと収録されている)が挙げられる。
*05:東、前掲書、166ページ。
*06:ただしFateにおいては『stay night』『hollow ataraxia』ともに攻略に頭を悩ませられる、(東の定義によれば)極めて超家父長制的な構成をとっていることに注意する必要があるだろう。東は攻略順制限の観点から『stay night』を批判したが、ここでいう超家父長制的な身振りとはバッドエンドやタイガー道場などのおまけ要素のコンプリートに煩わせる手数のことである。
*07:PULTTOP『てとてトライオン!』(2008年、ウィル)、十倉手鞠ルート、7月14日(月)。なお、強調はすべて原著者により、二重引用部分の脚注はすべて筆者が改変したか新たに付け加えたものである。以下同様。
*08:「てとてトライオン」雑感 - 好き好きほにゃらら超愛してる
*09:一応指摘しておけばこの問題意識は『スマガ』にも近いものがあるのだが、ここではこれ以上の深い言及は避けて次回への課題としたい。
*10:PULLTOP、前掲ゲーム、「獅子ヶ崎の声」シナリオ。
*11:PULLTOP、前掲ゲーム、十倉手鞠ルート、7月14日(月)。
*12:好き好きほにゃらら超愛してる、前掲記事
*13:「いちゃラブから始まる物語」(INFOREST MOOK Animated Angels MANIAX #009『完全保存版 「いちゃラブ」大全 デレデレな女の子を集大成!! It enjoys looking at lovers who seem to be dally.』、2009年、インフォレスト)6ページ。詳細な定義については同書を参照せよ。
*14:たとえば胡桃沢鈴姫ルートの7月19日(土)における告白シーンや、7月20日(日)のサニーサイドにおけるバイトのシーンなど。
*15:村上、前掲書、72ページ。
*16:村上、前掲書、70ページ。
*17:村上、前掲書、69ページ。
*18:いずれとも、村上、前掲書、72ページ。
*19:指摘しておけば村上の「肯定の思想」という用語はおそらく佐藤心「すべての生を祝福する『AIR』」(『美少女ゲームの臨界点 波状言論臨時増刊号』所収)を念頭に置いたものだろう。
*20:『てとてトライオン! ビジュアルファンブック』(2009年、一迅社)スタッフ座談会より。