メタ作品に
侵された
ヒロインの物語

MAKKI

 美少女ゲームは、ループ構造・メタフィクションとの親和性が高く、これまで数多もの「ループもの」「メタフィクション」が作られてきた。だが、それら既存の作品群と比べたとしても「スマガ」は更に特出した作品と言える。
 魔女(エトワール)は「語り部」であり、それに関わる事の出来ない神様たちは「視聴者」に位置づけられる。彼らは天蓋(グレンツェン)の中で繰り返される悲劇を見ていることしかできず、それはセカイの創り手である川島有里ですら例外ではない。だがうんこマンは違う。彼は天蓋の中で伊都夏市に生きる人間である共に、天蓋の外からセカイを展望する事の出来る「視聴者」と同じ視点に立つ事ができる。
 ここで指摘しておきたいのは、「スマガ」のゲームを攻略する我々プレイヤーは必然的に分裂した視点を持たされてしまう事だ。プレイヤーが「スマガ」に触れるにあたって、視点は当然うんこマンに合わせる事になる。すると、プレイヤーは一週目(「やわらかうんこマン」)にはうんこマンと視点を同一化させながら魔女たち三人の各ノーマルルートを攻略していく一方で、二週目以降の「かちかちうんこマン」では神様として「やわらかうんこマン」の一人称を見ることになる。*1
 「やわらかうんこマン」にとって、自分の「行動」がメタ的である自覚はあっても、彼の「視点」は違う。彼にとって、「人生リベンジ」を含めた全てが一本道の彼の人生であり、そこにメタだのといった訳の分からない感覚が混在する余地はない。そして、「かちかちうんこマン」にとって「やわらかうんこマン」は、自身と関係のない別の人間、別の人生であり、それを見る彼は所詮「視聴者」にすぎない。だが、その二人を更に俯瞰するプレイヤーは違う。「やわらかうんこマン」と「かちかちうんこマン」は、プレイヤーからのメタ視点において同一人物だ。
 キャラクターが、うんこマンが「物語」を否定することは、物語を生きるキャラクターの「人生」を否定することに繋がる。しかしうんこマンは突き進む。悲劇と共にヒロインの生をそのまま否定し、ハッピーエンドを目指してうんこマンが悲劇を塗り替える「人生リベンジ」。本来許容され得ないそれが「視聴者」に肯定されるのは、それがうんこマン本人の人生だからである。彼は自分の人生に対する責任がある。自分の死をやり直す為にリベンジするからこそ、彼の行動は正当化される。プレイヤーの視点からすればうんこマンは他の人々同様一個のキャラクター、一個の人間であり、彼の物語がヒロインよりも優位に立てる理由はない。
 作品自体の構造からして「うんこマンの物語」が「ヒロインの物語」よりも上位にあるのはたしかだ。しかし、うんこマンもヒロインもプレイヤーにとっては「キャラクター」であり、彼らの物語は「キャラクターの物語」なのだ。そこに優劣は存在しない。したがって、プレイヤーの前には、構造上の帰結では片付ける事の出来ない、物語による物語の上書きといううんこマンのエゴが表面化する事になる。*2
 「人生リベンジ」には二種類ある。一つは、彼が死んだその日の朝に戻ってやり直す通常の人生リベンジ。そしてもう一つが、物語が完結した後で、記憶を継承したまま、伊都夏市に落ちてくる所からやりなおす「アンコール」。繰り返しになるが、前者は物語をやり直す理由が「彼の死」で納得できる。しかし、「うんこマン自身がその結果を気にくわない」という理由で物語を最初からやり直す「アンコール」は、うんこマンのエゴとしか言いようがない。
 それが最大限に膨らんでしまうのは第一週目、「She May Go(スピカノーマルエンド)→Sad Mad Good-bye(ガーネットノーマルエンド)→Shoot the Miracle Goal(ハーレムエンド)」の一連のルートだ。そこで語られるスピカとガーネットの物語、それはたしかに悲劇だが、それ以上に彼女たちの物語である。うんこマンを愛したスピカの物語が終わると、彼は選択を迫られる。アンコールを望むか、ピリオドを打つか。下倉バイオはここでプレイヤーに選択肢を提示する事で、うんこマンが自分の意思(エゴ)でアンコールを選択するのだと強調し、訴える。
 そして「She May Go」を上書きしたガーネットルートでは「前回から受け継いだスピカへの思いとどう向き合うか」の問題が描かれる。このルートの終盤で、うんこマンは胸の内でスピカへの思いと向き合い、そして過去を過去として乗り越える決心をした上でガーネットを選ぶ。ここで初めてスピカルート→ガーネットルートへの移行・超克が完遂される。うんこマンはそうする事でスピカの物語を上書きした彼のエゴと向き合ったのだ。  そしてガーネットルートの終盤、彼女は言う。

「私は――」
「もしかしたら、もう取り返しのつかないものを、失っちゃうかもしれないけど――」
「それでも――」
「幸せになりたい」
 ガーネットが、顔を上げる。
「エゴって言われても、いい」
「私は、わがままを言うの。
 聞いてくれるかな?」
(「Sad Mad Good-bye」終盤)
 セカイを壊してでも、彼女は幸せになりたいと叫ぶ。大嫌いだと、セカイを否定する。そうやって、(正にうんこマンと同様に)彼女のエゴはセカイを塗り替えようとする。だが、神様ではない彼女はそれに失敗し、セカイと共に自壊する。他の人間がいない事では自分の幸せを信じることができなかったガーネット。しかし、それでもそこには幸せがあった。うんこマンとの想いがあった。彼女のセカイは否定されようとも、彼女の想いは誰にも否定できなかった。
 ここで「Sad Mad good-bye」は完結するが、しかし同時にうんこマンのエゴはここで最大限に膨らみ、それを踏みにじる。もはや「She May Go」→「Sad Mad Good-bye」への移行時のような選択肢は出現せず、当然のようにアンコールを望む(既に一度目のアンコールで悲劇をやりなおすと選択したうんこマンがここで選択を変える理由はないのだから)。そこではうんこマンは自身のエゴを当然のように受け入れている。「Sad Mad Good-bye→Shoot the Miracle Goal」への移行は全くお粗末なものだ。
 うんこマンのエゴが承認されてガーネットのエゴが否定されるのは、うんこマンが上位に存在する作品構造からくる当然の結果であり、それを批判する気はない。しかし、彼が継承したスピカとガーネットへの思いは、学園祭においてハーレムという「バカとエロ」*3によってうやむやにされる。そして更に言えば、ミラノーマルエンド(『スマガ&スマガスペシャルビジュアルファンブック』より)であるはずのこのルートでは、ミラは完全に後景に退いてしまっている。自由奔放で、いつもまっすぐなミラはこの「バカとエロ」に吸収され、物語が「ミラの物語」ではなく「うんこマンの物語」になってしまっている。スピカの物語を継承したガーネットの物語を踏みにじりたどり着いた結末は、ミラの物語すら飲み込んでしまった「うんこマンの物語」であった。
 ハッピーエンド至上主義は、「視聴者」の最大公約数ではあっても、絶対的な正義では断じてない。
「アタシたちは確かに存在する。てめーらが存在するのと、同じくらい、確かにな」
(「Star Mine Girl」終盤、アリデッドの台詞)
うんこマンは川島有里=アリデッドの作った運命をぶちこわす形で「キャラクターによる創り手への反乱」を描き、物語は神様の手を離れたのだと訴える。だが一方で、ヒロインたちの物語は、結局神様からうんこマンへとに隷属の相手を変えただけであった。これを、おぞましいと呼ばすになんと呼ぶ。
 私は、ハッピーエンド至上主義に踏みにじられてしまったガーネットの想いを哀れまずにはいられない。だからこそ私は、傑作である『スマガ』を永遠に否定し続けるのだ。*4

*1:一週目では主人公のボイスは流れず、二週目になると再生されるようになる。この演出は、視点が完全な一人称から一人称的三人称に変化した事を表現している。

*2:うんこマンは佐草を嫌っている。彼は、自分が精一杯「生き直している」人生をニヒリスティックに諦観する佐草がしゃくに障って仕方がない。これは、神様の立場に立って全てを操る(傍観する)アリデッドのエゴに対しての怒りと同様のものだ。しかし、それはあくまで同族嫌悪の表れでしかなく、うんこマンが佐草やアリデッドのエゴに怒りを覚えれば覚えるほど、彼はその怒りがそのまま自分に跳ね返ってくることに気がついていない。

*3:『スマガスペシャル』収録「シークレットまさかのがっかり映像」終盤、「『スマガスペシャル』で訴えたかった事って何ですか?」という質問に対する下倉バイオ氏の回答。。これは『スマガ』及び『スマガスペシャル』で一貫しているテーマと言ってよい。それはハッピーエンド至上主義に必要不可欠であり、全てを包括しうる最大の武器である。だが、ヒロイン二人分の物語を前にして、それが包括できているかというと、否である。

*4:ちゃんと補足しておくが、ニトロプラスは『スマガスペシャル』でこの問題点を補完している。「幸せになりたい」という想いから生まれた永遠のセカイが『スマガ』では完膚無きまでに否定しつくされたが、『スマガスペシャル』では永遠のセカイを肯定する。その辺りの回収をファンディスクでしっかりと補完してきたニトロプラスは見事だと言えよう。