偽史・
『Fate/stay night』から『スマガ』へ

勝山ペケ

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『スマガ』をプレイしてから数ヶ月が経ち、もはや内容について何か語ることは出来ない状態である。しかしプレイした当時から、ボクが注目したのは、その形式だけであることを考えるなら、別段これから書く内容に問題はないだろう。

『スマガ』はある意味で『Fate』以降のシナリオ系のエロゲを総括しようとした作品である。にも関わらず、『スマガ』と『Fate』の間に内容の類似を見つけ出すことはボクには出来ない。もし『Fate』から『スマガ』へと至る何らかの必然性があったと想定するのであれば、それは形式における相似に求めるしかないだろう。

『スマガ』という作品において、プレイヤーキャラクターであるうんこマンがバットエンドに至ったとき、うんこマンは自らのいる世界より上位の神さまTVの前に召還される。これと同じ構造を『Fate』におけるタイガー道場に見ることは容易である。

だが、両者の間には明確な差異も存在する。『Fate』のタイガー道場は、直接にプレイヤーに語りかけてくるのであり、タイガ道場は絶対に物語の中に吸収されることはない。言うならばタイガー道場は、物語とゲームというエロゲ特有の中間領域に存在しているのであり、そこにおいてプレイヤーの存在は作品の中で明言されないまでも、是認されている。

それに対して、『スマガ』の神さまTVは物語内の存在であり、ここにおけるうんこマンはタイガー道場におけるプレイヤーの位置を演じている。そうであるが故に、プレイヤーはこの空間の中に立場を見出すことが出来ない。このプレイヤーの扱いの差こそが、『Fate』から『スマガ』へと至る「物語重視」の流れを象徴しているようにボクには思えてならない。

ここで言う「物語重視」とは、別所でもりやんさんが言っている「主人公の復権」と後述する二つの特徴からなる作品傾向である。ボクが考えるに、この三つの要素は独立にではなく、それぞれが絡み合うように展開される性質のものである。この傾向を象徴的に表すのが、個別のヒロインシナリオ後に導かれるグランドエンドという制度だ。

一般にグランドエンドはそれまでパラレルに存在した物語群を、主人公を核にした一つ物語へと再構築していく。ここで意図されているのは、ヒロインの物語から主人公の物語への巻き返しであり、「主人公の復権」を顕著に示す制度であると言えるだろう。だが、グランドエンドが個別シナリオとしばしば内容的に矛盾することを考えるなら、ここで目的とされているのは単純な「主人公の復権」であるとは考えることは出来ない。

思うに、ここで意志されているのは、物語の「完結性の追求」である。作品の最後につくグランドエンドやは、エロゲ特有のシナリオの読解順序の自由さを否定する性質のものだ。しかし、これによってライターはより自らの意図した物語を読者に提供することが可能になる。その顕著な例としてループゲーの存在を挙げることが可能だろう。ループゲーの金字塔の一つである『CROSS†CHANNEL』を作った田中ロミオは、ループゲーとは作品内の無矛盾性への追求における解決策であると発言している。*1

だが、「完結性の追求」はその果てに、一つのジレンマを抱えてしまう。プレイヤーの存在そのものが「完結性の追求」と相容れない

のだ。前述のロミオの発言からも分かるように、「完結性の追求」とは今までは、エロゲのゲーム的側面が吸収していた齟齬を、物語の内部で解消しようとする意志に他ならない。

それ故に、プレイヤーという物語に吸収しきれない存在は、完結性を損なう余剰として立ち現れしまう。

この余剰に対応するように、三つ目の要素「自律性の追求」が現れる。近頃の作品によく見られる選択肢の簡素化は、プレイヤーの存在を物語内からなるべく消去しようという意志がうかがうことが出来るだろう。

しかし、一つの動かしがたい事実として、エロゲはプレイヤーのクリック無くして、物語を展開出来ないメディアである。*2この問題の解決にしばしば使われるのが、物語の最終局面におけるプレイヤーの暗黙裡の切り離しである。ぜんまいを巻き切った後、玩具が勝手に動き始めるかのように、エロゲにおけるプレイヤーも、しばしば作品外へと追放される。『俺つば』におけるISHも、『るい智』における智姉も、『シュガスパ』におけるエブリシングナイスも、全てプレイヤーと物語の関係をやんわりと切り離すためのガジェットであると言えるだろう。プレイヤーの存在そのものは認めながら、物語内においては拒否することによって、「自律性の追求」を達成するわけだ。

そして、『スマガ』の神様TVにおいて意図されたのは、この暗黙裡の関係性を物語内において白日の下にさらすことだったのではないかとボクは考える。カチカチとやわらかの間の関係は、まさに「物語重視」のエロゲにおけるプレイヤーキャラクターとプレイヤーの戯画である。

一週目に溜め込まれたプレイヤーの欲望を元に、展開されていく二週目は、もはやプレイヤーから隔絶した一個の物語と考えることが出来るのではないだろうか。前述したように、うんこマンに今までの役割を演じられたプレイヤーには物語内における立場が存在しない。プレイヤーもはや作中の神さまの様に、画面の向こうから物語を鑑賞する観客に過ぎないのだ。ここに示されているのは、「物語重視」を突き詰めたエロゲが、いかにプレイヤーにとって味気なく、空疎なものであるかということである。

もちろん、ニトロプラスが意図したのは、「物語重視」のエロゲを理論的に徹底してみせるということだったはずだ。彼らが目指したのは、メタやループといった様々な要素を用いて、エロゲを一つの整合性の取れた物語に集約することであって*3、作品からプレイヤーを追放することではなかったことは、EDに現れる「you are hero」という言葉からも知ることが出来る。にも関わらず、真っ当に物語を読んでしまえば、あのyouがプレイヤーではなくうんこマンそのものしか指しえないことは自明である。あるいは構造上バットエンドを回収することによってしか、まず達成しえないコングラッチュレーションのCGは実に虚ろだ。*4

『スマガ』は製作者の意図を超えて、『Fate』以降の「物語重視」のエロゲを象徴している。そこにあるのは本来であれば、何よりも重視しなければいけないはずのプレイヤーを拒絶する態度だ。だが、エロゲはその名の示すようにゲームでもある。ボクたちは、ゲームと物語の価値について、一度考え直す時期に来ているのではないだろうか。

脚注

*1:「一人のヒロインルートに進むことが、他のヒロインを脇役に追いやることになる。全キャラをクリアせる、それ自体が矛盾を含むようになる。ゲームというメディアはそれを吸収してくれるとはいえ、(中略)その解決策の一つが、ループにあるのは確実です」『腐り姫読本』より
*2:オートモードがそれを限りなくゼロに出来るとしても
*3:「大樹 ありがとうございます。」以下16行参照 小学館::ガガガ文庫:ガガガ編集部ログ: 「スマガA」発売記念特別企画! 下倉バイオ先生インタビュー!  (聞き手/大樹連司先生:構成/ガガガ文庫編集部)
*4:この現象自体は他のエロゲでもよく見るが、一体何がめでたいのだろう?