『スマガ』は
誰のための
作品だったか

もりやん

目次

エンターテインメントは欲望とともに

entertainment

1. 楽しみ、娯楽{ごらく}
2. エンターテインメント、楽しませるもの、催し
3. もてなし、歓待{かんたい}、接待{せったい}

 世の中には多くのメディアがあり、様々なコンテンツが流通しています。その多くが、エンターテインメントに分類されるコンテンツです。
 エンタメは、不特定多数の受け手を楽しませるために発展してきました。そして、人を楽しませるのにもっとも直接的で有効な方法は、その欲望に答えることです。
 多くのエンタメ作品で見られる「勧善懲悪」というスタイルは、「悪党は懲らしめらてほしい」という大衆の普遍的欲望に答えるものといえます。
 異性との恋愛も普遍的欲望のひとつであり、恋愛を扱う作品はあらゆるジャンルに多数存在します。これは「自分の身に起こってほしい」欲望ですが、「人の不幸は密の味」というように、悲劇も古今東西、人気のあるジャンルです。
 このように、人の欲望にある程度の傾向があるとはいえ、その実体は個人ごとに様々です。従って、確実に受け手の欲望に訴えるためには、受け手の欲望をコントロールする必要があります。多くのエンタメがジャンルフィクション化するのは、こういった理由からです。例えば、「冒険活劇」というジャンルが成立していれば、壮大な舞台とピンチの連続、それを乗り越える主人公の勇気……といったものが求められていることは、かなり明確になります。
 全てのエンタメ作品が素直に受け手の欲望を叶えるわけではなく、あえて受け手にショックを与えるような作劇を行うものも少なからずあります。しかし、それも欲望に対応し、それを利用して受け手を引き込んでいる点で変わることはありません。  

美少女ゲームにおける欲望の様態

 では、美少女ゲームにおいて想定される受け手の欲望とはどういったものでしょうか。
 美少女ゲームの定義は色々と考えられますが、ここでは「美女・美少女の絵によるポルノグラフィ」「ゲーム」によって成立するものとします。
 そして、ここでの「ゲーム」とは「困難→達成→報償」のシークェンスを持つものとします。この定義はそのままゲームに対する欲望のありかたを表しています。つまり、困難を乗り越え報償を得る、ということが、受け手のゲームに対する欲望です。
 「美女・美少女の絵によるポルノグラフィ」についての欲望は、歴史の中で変遷と多様化が見られます。代表的なものを挙げれば、「現実で触れ得ない美少女の実在」「美少女との恋愛・コミュニケーション」「美少女の性的描写」「現実ではありえないエロティック・フェティッシュな性的描写」といったところでしょうか。
 これらの欲望は各個人・各作品により当然軽重があり、特にゲーム要素については基本的にオミットされていく傾向にあります。
 ただし、美少女ゲームがあくまでゲーム――インタラクティヴメディアであり、プレイヤーの作品世界への介入が行われる以上、それは小説・漫画・アニメ・映画といった諸メディアとは異なる様相を持ちます。すなわち、プレイヤーの代行者としてのキャラクター=プレイヤーキャラクターの存在です。
 典型的な美少女ゲームにおいては、物語の主人公は男性であり、主人公がプレイヤーキャラクターとなります。従って、主人公が欲望の主体、ヒロインが欲望の対象=客体となります。プレイヤーの美少女と恋愛したいという欲望を主人公が代行し、その欲望に従って物語が進行するわけです。
 もちろん現実の作品は遙かに多様化しており、このような一面的な理解が及ばない作品も少なくありません。しかしながらこの構造があくまでも美少女ゲームの基本形であり、そこからの変形として諸作品を捉えるのが問題の整理に役立つと考えます。  

 そして、そうした美少女ゲームの多様なありようのひとつとして――そして、『スマガ』という作品を解釈する上でも重要な前提議論のひとつとして「Kanon問題」を取り上げなければなりません。
 先述の通り、美少女ゲームにおいては「主体=主人公」、「客体=ヒロイン」という欲望の構造が基本となります。その前提に立って考えるのなら、ほとんどの美少女ゲームで採用されるヒロイン分岐構造は、欲望の対象を選定するシステムといえます。
 選定ということは、それは必ず取りこぼしを前提とします。これが議論されたのがいわゆる「Kanon問題」であるといえます。Kanon問題とは、簡単にいえば「『Kanon』において、あるヒロインを救済したとき、他のヒロインは救済されていないのではないか」という問題意識です。
 Kanon問題の是非については、ここでは述べません。しかしながら、ヒロイン分岐構造が本質的に取りこぼしを生む構造であることは疑いようがありません。そして、この問題の最も直接的な解決は、ハーレムルートという形になります。
 しかしながら、ある種の――物語性を重視する――作品においては、そうした「全部攻略」という解決に一直線に向かえない場合があります。しばしば、ヒロインを攻略することが、その不幸を救済することに繋がっているにもかかわず、です。
 そのような場合、個々のヒロインを個別的かつ同時に救済するのではなく、ヒロインを不幸にしている世界のシステムを問題解決の対象として、根幹を断つことによって結果として全員救済を得る、という作劇がしばしば取られるのです。例えば、『デュエルセイヴァージャスティス』や『CROSS†CHENNEL』といった作品です。
 『デュエルセイヴァージャスティス』のトゥルールートにおいて、主人公・大河は、ヒロイン全員と肉体関係を結んだ後、世界に滅びをもたらす根元である「神」と戦うため、世界を去ります。
 『CROSS†CHENNEL』では、繰り返す悲劇のループを断ち切るため、主人公・太一はヒロインのみならず、友人も含めた人間全員と別れるという選択を取ります。
 最終的に、大河はアヴァター世界に帰還し、太一は(おそらく)ラジオでのみ人と繋がり生涯を終えた、という違いはあるものの、世界のシステムにコミットすることは、愛する人々が生きる世界からの超越・乖離に繋がります。それはとりもなおさず、分岐する各ストーリーで個別に救済されるはずのヒロインを同時に救済したいという欲望が、世界をメタ視する、超越的なレイヤに位置するからです。
 ただし、Kanon問題とはあくまでも、個々のヒロインへの欲望から発生する問題意識であったということは確認しておかなければなりません。それは、「誰も不幸にならないハッピーエンド」への欲望ではない。であればこそ、『Kanon』以降のシナリオゲームはシンプルな大団円を必ずしも志向してきませんでした。
 ヒロインを選択するというメカニズムがもたらす快楽、ヒロインとの個別的な関係の上に成り立つ運命的な繋がりへの欲望が前提としてあり、その矛盾に焦点を当てたのがKanon問題であるといえます。

 では、美少女ゲームの一作品である『スマガ』においては、どういった欲望の有様が見られるのでしょうか。

『スマガ』における欲望の様態

 『スマガ』は全体が大きく2つに分かれており、その様相を大きく変えています。ここでは、ラジオの用語に従い、主人公がカチカチうんこマンとなるまでを1周目、以後を2周目とします。

1周目

 1周目は、「最初からやりなおし」を節として、スピカ編、ガーネット編、ミラ編に分かれる一本道のストーリーです。
 ゲーム開始当初のうんこマンは、自分に関する記憶の一切を失っており、すなわち自らの目的・欲望を持たない存在です。彼は、スピカとのファーストキスと死を経験することで、スピカへの恋愛感情と、彼女を救いたいという望みを持つことになります。最初の死、最初の復活の際、神様に語るうんこマンの意志は、ただスピカにだけ向かっている。
 ミラ・ガーネットを失いつつも、スピカの望む一応の結末にたどり着いたうんこマンは、なお満足せず、「スピカの親友」であるミラ・ガーネットをも救うべく、「最初からやりなおし」を選択することとなります。
 従って、ガーネット編当初のうんこマンの目的意識は――「青」の扉を通ってセカイに降り立ったにもかかわらず――引き続き、スピカの救済を最上位としています。彼の想い人は、やはりスピカのままとなっている。
 彼は、かつて愛し合った記憶を失っているスピカを相手に空回りを繰り返したあげく、彼女を死なせてしまいます。目的を失ったうんこマンは自殺を試みるものの、ハッピーエンドを望む神様に説得されてセカイに戻り、沖の助力と、ガーネットを救うという新たな目的を見いだすことによって、苦闘を再開することになります。
 ガーネットの望む「新たなセカイ」の開闢と崩壊を経て、うんこマンは全員生存のハッピーエンドを目指し、三度目の「ニューゲーム」を行います。ミラ編では、スピカとガーネットの三角関係が波紋を投げかける中、「みんなで仲良くしたい」というミラの望みから、なし崩し的に3人全員と肉体関係を結びます。うんこマンとミラは悪魔の親玉を倒し、今度こそ「全員が生き残る」最初の大団円にたどり着くことになります。
 ここで注目すべきは、うんこマンのヒロインへの欲望がほとんどストーリーの進行に影響していないことです。まっとうに惚れた女にモーションをかけることで成立しているのはスピカ編だけで、ガーネット編・ミラ編はヒロイン攻略としては大変に場当たり的です。ガーネット編に至っては、明らかにうんこマンの欲望よりも神様の欲望が結末により強く影響しています。
 1周目において、神様はうんこマンより上位の存在です。上位とはなにか。まず、神様はうんこマンの知り得ないセカイの姿を知り、うんこマンの生殺与奪権を握っています。そしてなにより、神様はうんこマンに諦めないことを望み、うんこマンはヒロインに幸せであることを望み、神様はうんこマンとヒロインがともにハッピーエンドに至ることを望む……という、欲望の主客関係において、神様は全ての欲望の根元に位置します。

 ここで問題になるのが、我々プレイヤーの欲望代行者は果たして誰なのかということです。「TVの向こう」の存在である神様は、ごく素直に解釈すれば「観客」のメタファといえます。ではプレイヤーは観客なのか。否、我々はうんこマンとしてセカイに参加しています。
 実際には、「観客」も「参加者」もプレイヤーの取りうる立場であり、我々の欲望はそのどちらにも代行されているというべきでしょう。スピカを失った絶望も、ガーネットを救ってほしいという希望も、我々の欲望の一部ではある。
 では、『スマガ』はプレイヤーの欲望を高度に拾い上げているといえるのか。むしろ、『スマガ』は我々の欲望を分裂せしめ、そのいずれも充分に反映していないというのが事実ではないか。
 それは、神様とうんこマンの欲望に、あまりに共通点がないことによります。うんこマンには、ヒロイン個々への執着を超越する、正義感や信念と呼ぶべき背景がなく、神様には、ヒロイン個人への思い入れがありません。従って、我々は「ヒロイン個々への欲望」と「大団円への欲望」の間に横たわる亀裂を、ただ突きつけられるだけとなっている。うんこマンに感情移入する立場から神様に共感することも、その逆も、非常に難しいというべきでしょう。

 そして、ヒロイン個々に対する欲望の赴くまま「人生リベンジ」を果たしたうんこマンは、セカイを俯瞰する視点を持つ「神様」の一柱へと、飛躍することになります。

「……なあ」
「なんでちか?」
「ホントに、これで良いのか?」
「どう見ても、めでたちめでたちでちよ」
「やわらかうんこマンも言っていまちた。
 『人生リベンジ完了』って」
「いや、もちろんそれはわかる。
 あいつは確かに幸せになれた」
「けど……あのセカイで、ひとりだけ、全然救われてない
ヤツがいるんじゃないか?」
「あのセカイが終わった後、『こんな結末で終わりたくな
い!』って願って、幸せの輪を外れて、たったひとり、ま
た最初からやり直すヤツがいるんじゃないか?」
(中略)
「アリデッドに、会いに行く」
 オレは、その時、はっきりと決意した。
「アリデッドに、でちか?」
「ああ」
「何回も、何回も、何回も……
 テレビ越しに、悲劇が繰り返されるのを見てきて――」
「オレ、もう我慢できない。
 あいつに伝えなきゃならないことがある」
「ってか……見直すたび、聞こえてくるんだ」
「あいつが本当に、欲しかったものが。
 オレがどうしても、気づけなかったものが」
「でも……今のオレなら、わかる。
 オレは、あいつの望みを叶えてやりたい」

2周目

 2周のシナリオ構造は、1周目の実質一本道から、典型的な美少女ゲームのような分岐構造へと変化します。ここにおいて、1周目で「主人公」であったカチカチうんこマンは直接セカイに「参加」せず、実際にセカイで活動するもうひとりの自分――やわらかうんこマンを、「観客」として眺めることになります。
 ここに至り、「うんこマン」は、参加者の視点と観客の視点を併せ持つことになります。では彼の――というより、2周目のストーリーにおける目的はなんなのか。それは、「1周目で救われなかったアリデッドの救済」です。神となったにもかかわらず、うんこマンの目的意識はあくまでも個人に依拠しているのです。
 ここにおいて、「アリデッドの救済」という個に依拠する目的意識が、「神の視点」に飛躍する理由は、対立するふたつの欲望ヒエラルキーにあります。
 1周目ですでに明らかになっでいることですが、このセカイには対立するふたつの意志があります。ひとつは、セカイを不幸なまま維持しようとする意志。いまひとつは、セカイを「ハッピーエンド」に導こうとする意志。前者の使者がアリデッドであり、後者の使者がうんこマンです。ゲームストーリーの目的が「ハッピーエンド」であることから、これはセカイのアドミニストレータサイドと、プレイヤーサイドの対立といえます。
 そして、このふたつの意志のそれぞれに、欲望の主客関係によるヒエラルキーが存在します。セカイのありようは「原器(アルマゲスト)」――その「物語」において最も優位な魔女(エトワール)によって決められることから、アドミニストレータ/プレイヤーの対立は、最終的に原器(アルマゲスト)候補である3人の魔女(エトワール)を巡るものとなります。
 
 有里(編集者)はアリデッド(作家)にセカイの永続を、アリデッドは魔女(エトワール)にセカイを永続させる原器(アルマゲスト)たることを望む。
 神様(観客)はうんこマン(参加者)にセカイのハッピーエンドを、うんこマンは魔女(エトワール)に幸福であることを望む。
 有里とアリデッド、神様とうんこマンはいずれもなんらかの意志の代行者=アヴァターであり、ただしそこには主客関係が存在するわけです。つまり、有里・神様はプライマリアヴァター、アリデッド・うんこマンはセカンダリアヴァターということができます。
 そして、実のところ神様が、同じセカイに生きるものとして本当に救いたいのは有里であり、うんこマンはセカイの参加者として――個に依拠する立場からアリデッドの救済を望んでいるのです。しかし、セカイのシステムの一部であるアリデッドを救済せんとする欲望は、すなわちセカイの構造変革への欲望となります。これは、セカイの構造を未だ知らないやわらかうんこマンには、そも持つことすらできないものです。
 従って、セカイの構造を知り、その変革を望む者となったカチカチうんこマンは、すでにプレイヤー側のプライマリアヴァター=神様となっているのです。
 しかるに、カチカチうんこマンは、「魔女(エトワール)とハッピーエンドを迎える」というレイヤの欲望は、すでに持っていないか、持っていたとしても叶えることができません。ここで、「セカイの構造そのものに対する欲望を持ったとき、彼はセカイから乖離する」という問題が立ち現れます。
 プレイヤーとともに物語を歩んできた「主人公」はカチカチうんこマンであり、通常我々が第一に感情移入するのは「カチカチうんこマン」であると考えられます。これは、やわらかうんこマンが声付きであることからも明らかです。*2
 ところが、カチカチうんこマンは直接にヒロインと結ばれることができません。2週目でのみ可能な――そしてアリデッド攻略の前提条件となる姫々と雨火の攻略については、プレイヤーが「直接」に行うことは不可能です。いみじくも雨火シナリオで指摘される通り、対等の立場にない者に恋愛は不可能であり――神様であるカチカチうんこマンにおいてはなにをかを況や。
 それどころか、カチカチうんこマンは一貫してアリデッドの救済を目的としており、悪意のある言い方をすれば、姫々と雨火の攻略は目的達成の必要上仕方なく行われる、あるいはたまたま起こってしまうことだとすらいえます。結果論的ではありますが、1週目のうんこマンが2人の救済を志したことはついぞなかったのですから。
 ここでもやはり、「観客」と「参加者」の欲望は、プレイヤーサイドの内部ですら分裂を来しており、プレイヤーの作品全体に対する共感を妨げています。
 女を愛するがゆえ神となった大河、怪物として人を愛した太一に比べ、うんこマンの二面性の狭間には人格的というべき飛躍があり、両者を一体的に捉えることがきわめて難しい。雨火とうんこマンの、『スマガ』各編でも白眉のラヴストーリーも、それが「すでに自分でなくなった自分」の身に起こっているという乖離状態において、どれほど共感的に受け止めることが可能でしょうか。
 否、それ以前の問題として、そもそもプレイヤーは魔女(エトワール)たちの、アリデッドの救済を欲望してゲームを進めてきたといえるのか。
 ここまで触れてきませんでしたが、「最初からやりなおし」する際の物語の起点より前の段階で、我々は川嶋有里と出逢っています。

CQ。CQ。CQ。
……CQ、CQ! CQ!
聞こえますか?
……あの、繋がってますよね?
聞こえますよね?
大丈夫、です……よね?

聞こえる/聞こえない
*3

 この「謎の少女」=川嶋有里こそ、スピカとキスするより早く我々にモチベーションを植え付ける「ヒロイン」であり、にもかかわらず、「主人公」であるうんこマンは、この冒頭の会話を記憶していません。
 従って、プレイヤーは「謎の少女」への欲望を宙ぶらりんにされたまま、延々と「どーでもいい」ヒロインの救済にかけずり回らされることとなるわけです。そもそもが、最初から、プレイヤーと主人公の間の、最も基本的な欲望の代行関係においてすでに、『スマガ』は支障を来している。
 欲望の主客関係に隔てられるがゆえ、カチカチうんこマンがやわらかうんこマンではないように、有里はアリデッドではなく*1、ひとつの大きなハードルを越えてなお、プレイヤーは有里と再会できないままです。――アドミニストレータ/プレイヤーの、対立構図の両岸で。  

 さて、再びセカイを巡り、「アリデッドに、会いに行く」ための準備を整えたカチカチうんこマンは、やわらかうんこマンの肉体に宿ることで「再会」を果たし、ついに彼女を「思い出し」ます。
 うんこマンは、ゲーム開始以前から有里と関係を築いていた「先輩」であり。
 川嶋有里は、「先輩」への告白の結果を永遠に先延ばしにするため、悲劇で駆動するセカイを作った神だった。
 どこにどうやって感情移入しろと。
 ここにおいて、「オレ」はカチカチうんこマン=「先輩」でありやわらかうんこマンでもあり、「彼女」は川嶋有里でありアリデッドでもあるわけですが、しかし主体である「先輩」と川嶋有里こそ、プレイヤーの知らざる経験を持ち、プレイヤーの欲望と関わりないところで生きている「他人」であるという状態が発生します。
 なおかつ、その後「現実世界」に帰還する「先輩」はやわらかうんこマンと「チャンネルが合わなく」なることが示唆されており、これは川嶋有里/アリデッドも同様です。「先輩」は、ついさっきまでアリデッドを救おうとしていたにもかかわらず有里のために走り、アリデッドをやわらかうんこマンの手に委ねます。
 セカイの「参加者」=「うんこマン」と、セカイの「観客」=「先輩」は人物レベルの断絶に至り、物語の積み重ねに従って欲望の位階を上ってきたプレイヤーは、「物語」以前の世界である現実世界の壁に弾かれ、突然観客席で始まった「物語」を、舞台と観客席の狭間で呆然と眺めることとなります。
 そして、隕石という死を目の前にした有里と「先輩」を救ったのは、下位アヴァターであるうんこマンと魔女(エトワール)たちの起こした、理不尽な奇跡であり。
 ともにプライマリアヴァターである有里と「先輩」の恋を欲望すべき、いわばルートアヴァターの席には、だれもいない。
 これまでの論旨に従えば、悲劇を固定するセカイの構造を変革する欲望が、より上位のヒエラルキーの存在を規定するはずです。有里が幸せになれない原因を取り除かんとする欲望が、プライマリアヴァターを超越し、「先輩」に対するさらなる上位存在者としてセカイを俯瞰する意志となる、はずでした。
 しかしながら、有里を悲劇に固定する構造は、「現実世界」のどこにも見いだすことができません。隕石は、悲劇の根元ではない。有里をして下位存在者を欲望せしめた原因は、迫りくる死ではなく、ただ自らの臆病さにすぎません。
 セカイを俯瞰し、自らの存在者としての幸福ではなく、そこに起こる悲劇を無私でもって回避しようとする神の視点は、ここでは持つことができません。
 理不尽に対して怒り、悲劇と戦い、魔女(エトワール)たちをハッピーエンドに導くことを欲望してきたはずのプレイヤーが、なにを強制されるでもなく下位存在者を虐げてきた有里を救済しようと望むことが、それでもなお可能でしょうか。
 現実世界において、行動力に溢れ、天文部の再建に成功し、後輩とイチャつき、告白され、かつての恋人たちを悲劇に縛り付けていた張本人をなんらの呵責なくあっさりと赦す「先輩」に感情移入することが、我々にできるでしょうか。
 たとえスピカが、ミラが、ガーネットが、88人の魔女(エトワール)全員が彼女を許そうと、同じセカイに生きる「先輩」だけは、川嶋有里の横っ面を引っぱたいてやらなければならなかったのではないでしょうか。
 積み重ねられた、分厚い日記帳の重みでもって。

おわりに 新世代の神

 プレイヤーがキャラクターの誰にも感情移入せず、最初から物語の至る結末だけを見ていたとしたら。
 『スマガ』は、まあ、わりと面白い作品かもしれません。シナリオ構造には工夫が見られますし、真のハッピーエンドに至るまでの段階的発展というのは、メタゲーとしては王道ですしね。
 してみると、『スマガ』が対応していたのは、メタな構造の面白さをベタに欲望するプレイヤーだったのかもしれませんね。もはや、エロゲーである意味がぜんぜんわかりませんけど。
 『スマガ』の人気は、エロゲーを出されてエロゲーっぽいものを全く期待しないというか、そういったものが脳裏に浮かびすらしない新世代のプレイヤーの登場を意味しているのかもしれません。
 そんな新世代の神々が作っていくこれからのエロゲー業界を、引き続きベタに生きていこうと思いました。ベタ大好きなんで。

脚注

*1:声優から邪推を働かせたプレイヤーの中には、有里とアリデッドが「同一人物」であるのだろう/あってほしいと思っていたくちが少なくないのではないか。筆者も含めて
*2:一方で、やわらか/カチカチうんこマンが会話するシーンでは、明らかに感情移入されるのはやわらかうんこマンだったりする。
*3:テキストは筆者による。実際には表示されない。