全ては
個のために

simula

スマガという物語が何のために語られるのかといえば。

それは正しいとか、間違ってるとか関係なく、あくまで個人を軸にすえた物語だったのではないかと思います。

スマガって、一貫した方向性とかあんまりないですよね。最初はスピカを幸せにする、次はガーネット、ミラ、雨火、姫々、アリデット、川島というように、どんどんその方向性を変えていく。

そこになんらかの共通性を読み込もうとするなら、不幸になる人はいてはならないというものだと思います。

例えばミラシナリオから。川島から、彼女を殺せば悲劇としての伊都夏市の物語は終わると言われたときに、うんこマンとミラはそれを拒絶します。

「繰り返される悲劇……
あなたたちのセカイができた原因は、私です」
「あなた方には、私を憎む資格がある」
「それがどーした!」
「ミラはね、かわしまんがかわいそう。
だから、助けてあげたいと思う」
「とゆーか!泣きそーな人をほうっておいては正義の味方の名が廃るぞー!」
(中略)
「いいか、良く聞け!」
「そりゃ、確かに無謀かもしれない。
オレひとりの手には余って、いろんな物がこぼれ落ちてるのかもしれない」
「でも、それでも──
オレは、全員を幸せにするために生き返ったんだ!」
「スピカも、ガーネットも、ミラも。
沖や日下部も樋々も」
「アリデッドも、もちろんおまえも!
オレは、幸せにしてやるっつの!!」

ここで語られる彼らが彼女を救う理由は、彼女への意思と言うとちょっと違っていて。普通は好きな人だから、友達だからというように、その人に関する感情があるから救うという理路になります。

でも、彼らがそうするのは、「泣きそうな人」、そして、「みんな」の中の一人だからなんですよね。川島自身に対する感情があり、その上で救おうとすると読むにはかなり弱い。

「みんな」を救おうとするからその中に川島も入って、それで救おうとすると読んだ方が適切です。人生リベンジ、ありえないことを起こす奇跡というのは、それを実現するための手段な訳です。その奇跡を起こして、ミラエンドで今まで出来なかった全員を救うことを実現してハッピーエンドを迎えます。

にもかかわらず。テレビを見ている、かちかちうんこマンは納得していません。

彼の望みは、ほんとうに全員を救うことなのです。

何週も世界をループするやわらかうんこマンとしてハッピーエンドを迎えた後、数々のセカイを見るかちかちうんこマンとしてさらにもっとハッピーな、ハッピーエンドを起こそうとするんですよね。その対象は原器として、ずっとセカイを見続けてきたアリデッドです。

「……なあ」
「なんでちか?」
「ホントに、これで良いのか?」
「どう見ても、めでたちめでたちでちよ」
「やわらかうんこマンも言っていまちた。
『人生リベンジ完了』って
「いや、もちろん、それはわかる。
あいつは確かに幸せになれた」
「けど……あのセカイで、ひとりだけ、全然救われてないヤツがいるんじゃないか?
「あのセカイが終わった後、『こんな結末で終わりたくない!』って願って、幸せの輪を外れて、たったひとり、また最初からやり直すヤツがいるんじゃないか?」
(中略)
「アリデッドに、会いに行く」

そして、アリデッドを説得し、隕石が落ちてくることによって死んでしまうことが分かりながらも、「先輩」は川島のいる現実世界へ行きます。そして、死んでしまうことを受け入れていたのですが、数々のセカイの力によって隕石が破壊され、ハッピーエンドを迎えたところで物語は幕を閉じます。

これは論理性よりも、志向性の問題で。全ての人が救われなければ終わらないんですよね。何度死んでもやりなおす、「人生リベンジ」の物語は。

全員を幸せにすることによって、初めてエンドマークを打つことが出来る訳です。

ハッピーエンドなんて、いらない。

そして、外伝としてのスマガスペシャル。これは本編のリフレインです。

すなわち、本編に出てきた魔女達だけでない、他の魔女も含めた皆を幸せにするという。

この作品の舞台は、デネブとカペラという二人の魔女が作ったセカイを永遠に繰り返すというものです。

そして、そのセカイの行く末をどうするかといったときに、

「正しいセカイへと戻る」という選択肢と、「ハッピーエンドなんていらない」という選択肢が提示されます。

ここで、「正しいセカイへと戻る」を選択すると、デネブ、カペラは元のセカイへと戻り、ハッピーエンドを迎えるのですが、それをうんこマンは

カペラやデネブが、なにひとつ諦めないで、心の底から、納得できるような形で、物語を閉じてやりたいんだ!

として、そのエンドを断り、やり直しへと向かいます。

ここで問われているのは、正しさではないんですよね。永遠に繰り返すというセカイは普通に考えれば間違っていて、正されるべきである。でも、彼が立つのはそういった理念の側ではなくて、それを望んだ人の側である。

本編のガーネットルートなどでも、ガーネットがこの「このセカイなんて、大っ嫌いだーーー!!」と言って新たなセカイを作ったときに、主人公によっては否定されないんですよね。むしろ、積極的にセカイのために個人が犠牲になるなんておかしいと彼女の行いを肯定している。ガーネットが失敗したのは「たったひとりでは、セカイは変えられない。」からであって。「だがもしも、新たな神を、皆が望めば?」それは、作品として肯定するものとなる。

このまま永遠に続くセカイに留まるハッピーネバーエンドというのは、皆に望まれた、そういう形だと思うのです。

という感じで、スマガ、スマガスペシャルという物語は、正しさだって踏みつけて、みんなで個人を救おうとする、そんな作品だったのではないかと思います。

例えば、隕石が落ちてきて死なねばならないとか、永遠なんてなくて、いつか死んでしまうことが嫌だとかってそれが起きてしまうことはどうしようもないことなので、それを拒絶してもしょうがないということは思わなくもないです。そして、それは「正しい」ことなんですけど、そのことをを認めず、あくまで人の側に立って引っくり返すというのがこの作品でした。

正直なところ、このことに納得できたかというとかなり微妙な面もあるんですが、それが見せてくれたビジョンは興味深かったです。