全ては止揚する――
『真剣で私に恋しなさい!』におけるテーマの展開

もりやん

二大テーマ「武」と「ファミリー」

 『真剣で私に恋しなさい!』(以下『まじこい』)を考察するに当たって、まずはその両輪となる二大テーマについて確認します。
 『まじこい』は「武士娘恋愛AVG」を謳っており、5人のメインヒロインは全てそれぞれ特徴を持った「武士娘」です。「武」とは武士道の「武」であり、武術の「武」でもあります。
 舞台となる川神町は、武芸の殿堂・川神流のお膝元であり、多くの弟子を抱える川神道場が存在します。町には川神流との腕試しを望む武芸者が集まり、武術のメッカの様相を呈しています。川神流を学ぶ川神姉妹を含め、ヒロインたちもまた、そこに生きる武芸者です。
 さらに、主要キャラクターが在学する川神学園は、川神流師範・川神鉄心が学長を務め、制度としての決闘が存在するというこれまた武芸盛んな環境です。地元の若者のみならず、その校風に惹かれた留学生もやってくるこの学園は男塾並に地上最強。『まじこい』の「武」テーマを体現する存在です。
 もうひとつの『まじこい』の特徴は、主人公およびヒロインが属する「風間ファミリー」の存在です。物語は風間ファミリーの内部において展開され、各キャラのファミリーへの強い思い入れが描かれています。
 ヒロインのみならず、風間ファミリーの男性陣もまた物語において重要な存在です。ファミリーの「キャプテン」が主人公ではなく風間翔一であることが示している通り、風間ファミリーは主人公のハーレムというより、ひとつのコミュニティとしての色を濃くしています。
 また、シナリオライター・タカヒロ作品の特徴として挙げられる魅力的なサブキャラは本作でも健在で、老若男女内外問わず、膨大な登場人物が物語を彩っています。個別EDも5人のヒロインだけでなく、ファミリーの男性陣およびクラスメイト女子・担任教師まで用意されており、ファミリーを中心としたコミュニティの拡がりが『まじこい』の大きな魅力となっています。
 このように、「武」と「ファミリー」が『まじこい』の主要なテーマであることについては、異論のないところでしょう。
 では、『まじこい』はこの二大テーマをどのように展開するのでしょうか。その最大の特徴と言えるのが、「武」と「ファミリー」がそれぞれ二面性を持つことです。
 結論から述べるなら、「武」は暴力と理性、「ファミリー」は閉鎖性と外交性というふたつの異なる面を持っています。次章では、その二面性を含めて、二大テーマの個別ルートでの展開について確認していきます。

武:人生における生き様と成長

 『まじこい』における「武」テーマを検討するにあたって、まずはこれをよく象徴する作中のテキストを引用します。
 ひとつめは、ヒロインの自己紹介です。

百代
「川神百代3年、武器は拳1つ。好きな言葉は誠」
一子
「川神一子2年、武器は薙刀。勇気の勇の字が好き」
クリス
「2年クリスだ。武器はレイピア。義を重んじる」

「椎名京2年弓道を少々。好きな言葉は仁…女は愛」
由紀江
「1年黛由紀江です。刀を使います。礼を尊びます」

 この「好きな言葉」は、各ヒロインの信奉する「武士道」のあり方、すなわち生き様を象徴するものです。各ヒロインには明確な目的意識とプライドがあり、それが武術を修める動機ともなっています。当然、個別ルートにおいてはその生き様が描かれることになります。
 ふたつめは、学長・川神鉄心の演説です。

鉄心
「――ただお前達、腹は減っておるかの?」
鉄心
「名誉や金、力に飢えてはおらんか?」
鉄心
「女や男はどうだ? 飢えてはおらんか?」
鉄心
「飢えているならそれはいい。とても正しい」
鉄心
「どんどん飢えてハングリーになりなさい」
鉄心
「奪い取り、つかみ取るために努力しなさい」
鉄心
「競い合い切磋琢磨していきなさい」
鉄心
「そのために決闘というシステムも用意しとる
 白黒つけたければ活用しなさい」
鉄心
「そして“何か”をつかみ取ってみなさい」
鉄心
「勝つという快感はやめられんよ。
 人生はより楽しくなる。ワシからのオススメじゃ」
鉄心
「成功する秘訣は夢ではなく野心ということよの」
鉄心
「といっても、ただ飢えるだけでは獣と変わらん」
鉄心
「理性と本能を両立させて、楽しい人生を
 送ってくれることを願うぞい」
鉄心
「なーんも飢えとらん、平凡で普通の人生を
 送るのが一番だと思う奴、それはそれでいい。
 精神は腐っていきそうじゃが、それも生き方よのぅ」
鉄心
「ただ、その生活をするのにも、
 ある程度の学力と健康な体が必要だ。
 今のうちに鍛えておきなさい」
鉄心
「願わくば、皆が何かしらの野心を抱いた
 飢えた若者達であることを願うぞい」

 ここで、『まじこい』における「武」の象徴である川神学園の教育方針が語られています。それすなわち『まじこい』における「成長」の意味であり、人間がいかに成長するかという信念が「武」によって表現されているといえます。従って、大和が勉学と政治の道に己の生き様を見いだすように、広義では勉学も芸術も「武」の一環なのです。
 「武」によって個人の生き様と接続される『まじこい』の成長概念は、よくあるビルドゥングス・ロマンのように、特定の理念――例えば正義――への馴致によって表現されるものではありません。常に全面に押し出される「武術」という形すら絶対的なものではないわけです。それは個人の生来的な「偏り」とわかちがたく結びついており、その「偏り」といかにうまく付き合ってゆくか、という問題意識ともいえます。
 個人の「偏り」を前提としていかに成長するかということを考えたとき、そこにはふたつのあり方が自然と想定されるでしょう。それを象徴するのが、川神百代・一子姉妹です。
 百代を衝き動かしているのはより強い者との戦いを求める渇望であり、その暴力的な衝動が天体じみた百代の成長を支えています。一方、一子の激烈な鍛錬を支えているのは百代への憧れと川神流への恩義であり、他者を思いやる気持ちと克己の意志によって素質以上の成長が成されているとされます。
 言うなれば、百代にとっての「武」は自己表現であり、戦いへの衝動という「業」を抱えた身において、居場所を求める叫びといえます。それゆえ、彼女は己と互角以上に戦える強者の存在を愛し、心中に棲む「獣」を解放する喜びに飢えています。果てなき戦闘衝動は百代の苦しみでもありますが、その武力によって風間ファミリーに求められ、居場所を見いだしたように、人生においてなくてはならない要素でもあります。
 一方で、一子にとっての「武」は何もないところから身につけたものであり、修練とは自己の拡大、成せることを増やすという意味合いを持ちます。一子はそもそも風間ファミリーと川神流という居場所を与えられており、武術を修めることによって「ファミリー」と「川神流」の象徴というべき百代に貢献し、居場所を守ろうとしています。従ってその手段は武術に限られたものではなく、一子ルートにおいて武術の道を断たれたとき、彼女は管理栄養士という新たな道で、己の居場所への貢献を目指すことになります。
 このように、川神姉妹における「武」のありようは非常に対照的です。ここでは、百代的な「武」を「暴力」、一子的な「武」を「理性」と定義することにします。これは対立すると同時に「成長」というひとつの事象における異なる側面を表してもいます。サブも含めた全キャラについて、各EDで異なる「その後」が描かれることが象徴的です。『まじこい』における「武」とは、敷衍すれば各人の「人生」――その来し方・行く末を表すものといえます。

ファミリー:社会における独立と連帯

 近年の美少女ゲームにおいて主人公の属するコミュニティを描くものは有力なカテゴリとなっており、多くの作例がありますが、『まじこい』における風間ファミリーはその歴史性が強調されるところにひとつの特徴があります。まずは、風間ファミリーが作中の姿に至るまでの略歴を確認します。
 由紀江とクリスの加入は物語開始後の出来事であり、そこではファミリーの性質における有意な変化は認められません。現在のファミリーの形は、京加入時にほぼ固まっているといっていいでしょう。従って、ここでは京加入時までに形成されたファミリーの性格について述べることにします。
 風間ファミリーはまず一般的な「幼なじみグループ」として出発しており、その意味では自然発生的・地縁血縁的なコミュニティといえます。いわゆる社会学にいうゲマインシャフトであり、そこには強固な身内意識と感情的な繋がりがあります。ファミリーへの侮辱に対して我が事のように怒る現在の彼らの姿は、そうした起源に基づくものです。
 また、一般的な「温かみ」のない家庭に育った翔一と大和、親を失った一子らにしてみれば、風間ファミリーは文字通り「家族」の代替ともいえます。一子はファミリーの縁によって新たな家庭を得ることになりますし、劣悪な家庭環境にある京にとってファミリーは真実の「家族」となります。彼らが後に秘密基地――というより単に第二の「家」というべき廃ビルを根城にするのも、そうした拠り所を求める心情によるものでしょう。
 また、ここにはある種のエリーティズムを見いだすことができます。そもそもリーダーである翔一はかなりの快楽主義者であり、サブリーダーである大和は相当に打算的な性格です。彼らは気の合わない者、利のない者をファミリーに受け入れることはありません。百代が当初傭兵としてファミリーに縁を持ったことからもわかるように、風間ファミリーは能力があり、「面白い」者を選別しています。事情あってファミリーに加入した京にしてみても、その端緒は大和と「気が合い」、「面白い」と認められたことにありました。
 そしてファミリーにとって決定的な出来事となった京の加入は、以前より内外に強固な線引きをもたらすものでした。母親との確執を抱え、学校では苛めを受けていた京にとって、自分の味方といえるものはファミリーの内部にしかありませんでした。以来、京(と、彼女に密かな好意を抱く卓也)は非常に排他的な態度を取り、ファミリーは変わらない「聖域」としてあり続けることになります。
 ここで、一般的なものとして「風間ファミリーは『閉鎖的』である」という見方が成立するわけですが、これは一考を要します。
 まず、クリス・由紀江の加入に明らかなように、ファミリーは「面白い奴」を受け入れる素地を失ったわけではありません。この点については内部でも温度差がありますが、リーダー・サブリーダーが拒まない以上、風間ファミリーは常に狭き門戸を開いているといえるでしょう。エリーティズムは閉鎖性のみを意味するのではなく、条件に合う者を受け入れる理由ともなるわけです。
 また、京加入時のいきさつについても、決して京を外部から隔離することを意図したものではなく、むしろ彼女がうまく他人と付き合うために行われたと解釈すべきです。京を引き入れた大和本人にしてからが、京ルートで彼女を外部とふれあわせようとすることからも、それは明らかでしょう。
 生来内向的な由紀江にしても、ファミリーという囲いの中に安住せず、常に外に友達を作ろうとしており、ファミリーにおいても応援されています。大和・岳人は展開によっては外部に恋人を持ちますし、卓也は積極的にサークル活動を行っています。『まじこい』がファミリー外部のサブキャラクターを積極的に登場させていることは、いうまでもないでしょう。
 しかし、それによって風間ファミリーというアイデンティティが失われることはなく、彼らはまずファミリーの一員として――「川神魂」をもって――外部とふれあいながら生きています。
 そして、町の治安悪化に対して風間ファミリーとして対処し、「川神大戦」において全校がS組側とF組側に分かれて争ったように、ファミリーは他のコミュニティやより大きなコミュニティに対して一丸となって事に当たる場合があります。境界線によって内外を区切るのは、ある意味では外部と交流するための前提条件なのです。これがすなわち、「閉鎖性」と「外交性」というファミリーの二面性を表しています。そしてまた、それは小さなコミュニティの集合がより大きなコミュニティを成すという、現実世界における社会のありようをそのまま表現しているものです。

トゥルールート:両輪の合一

個別ルートでは合一しないテーマ

 このように、「武」「ファミリー」という『まじこい』の二大テーマは、各個別ルートで断片的に表現されているのですが、しかしこれが物語の主要なテーマとして問われることはありません。比較的核心に近づいているといえる一子ルートや京ルートにおいても、これらテーマはラヴストーリーの味付け程度の役割に終始しており、テーマの昇華が見られたかといえば苦しいものがあります。
 例えば、京ルートでは閉鎖的な風間ファミリーの性格自体が問題視されることはなく、単に京個人の戦いとして描かれています。
 さらには、「武」と「ファミリー」の持つ二面性、そしてこのふたつのテーマをいかにして合一させるのかという期待には、『まじこい』の個別ルートは全く答えていません。各ヒロインを一通り攻略した時点では、『まじこい』は少々分裂気味な印象のまま完結するかと思われました。
 しかし、トゥルールートでこうした疑問は完全に氷解しました。トゥルールートのストーリーは、「武」と「ファミリー」の持つ相対するふたつの側面を一体に昇華するのみならず、両輪のテーマによってなる『まじこい』のストーリー性をついに立ち上げるものといえます。

テーマのダークサイドを担う冬馬ファミリー

 トゥルールートでは、風間ファミリーと相対する敵側のキャラクターとして、冬馬ファミリーというべき一派が登場します。彼らは「武」「ファミリー」のダークサイドを表現し、それによって二面性の対立する局面を作り出しています。
 「武」のダークサイドとして登場するのが、いわば悪の武術家である釈迦堂と板垣姉妹です。釈迦堂は暴力的な性向によって川神院を逐われた経歴を持っており、暴力によって他者を傷つけることを何とも思わず、むしろ楽しみさえします。彼の弟子である板垣姉妹も同様で、彼女たちはむしろそうした「似た者同士」として釈迦堂に見いだされたものです。
 冬馬・準・小雪の幼なじみグループを中核とし、釈迦堂らを含む一大武装勢力となっている冬馬ファミリーは、ファミリーのダークサイドを象徴します。彼らは外部に一切の価値を見いださず、むしろ憎み、結束して外部を攻撃します。
 彼ら冬馬ファミリーは「武」における「暴力」、ファミリーにおける「閉鎖性」を象徴しています。では、風間ファミリーにおける「暴力」と「閉鎖性」の象徴といえる百代と京はどうでしょう。
 百代は、「獣」を抑えつけられている現状を、「私は今の人間くさい自分が好きなんだ」と肯定します。京は、ファミリーのためだけでなく、川神町全体を守る目的意識をもって戦います。ここにおいて、彼女らはむしろ「理性」と「外交性」の象徴として意味づけられるのです。
 一方で、百代は釈迦堂に共感する気持ちを否定せず、衝動のままに暴走する辰子を愛しむ面も描かれています。京は、小雪を救わなかった大和を許し、逆に風間ファミリーに依存する小雪に共感してもいます。
 風間ファミリーに百代と京があるように、冬馬ファミリーの存在もまた、一概に否定の対象とはなっていないのです。

ライトサイドとダークサイドの止揚

 ここで、「武」と「ファミリー」における相反する二面性の衝突というべき、ふたつの戦いがあります。ルーVS釈迦堂、京VS小雪です。この戦いにおいて、ダークサイドがそれぞれに敗北するわけですが、それすなわち「暴力」「閉鎖性」の否定と解釈することはできません。
 釈迦堂は、生まれ持った暴力性を捨てて生きることはできませんでした。そして、釈迦堂の孤独を、小雪の絶望を救いうるものはやはり、冬馬ファミリーでしかなかったのです。なによりも、利他の「武」、外部と折衝する「ファミリー」という性質において、「武」に救いを求める者、社会に望む居場所を得られなかった者の存在は、捨ておくことができないのです。
 ここでのルーと京の勝利はむしろ、避難的にダークサイドに属せざるを得なかったものに対しても、さらなる発展の機会が与えられるものと解釈すべきです。ある意味では、ルーは釈迦堂のさらなる成長のために自らを鍛えていたのだし、川神町は破滅に突き進む冬馬ファミリーをよってたかって止めたといえます。
 自ら「粛清」した釈迦堂にかけたルーの言葉が、まさにその点を率直に表現しています。

ルー
「百代や釈迦堂は川神院で危険な拳と思っていたガ…」
ルー
「決めつけると、己の視野狭めるから気をつけよウ」
ルー
「…拳の道は光も闇も飛び越えた先にあるはズ!」
ルー
「それを追い求めル!!」

 釈迦堂ら「暴力」の武術家は、単に「武」が生んでしまった忌み子なのではありません。それは「武」の更なる発展においては必要不可欠な、積極的に求められる存在なのです。そして、「閉鎖的」なファミリーもまた、こうした異分子を進歩のサイクルに取り込むために、肯定されるわけです。
 これは、「武」と「ファミリー」のライトサイド、すなわち、百代の存在が一子を育て、風間ファミリーが京と社会との緩衝材となったという事実が、拡大して現れたものといえます。この見事な符合によって、二大テーマの二面性――「暴力」/「理性」、「閉鎖性」/「外交性」は、ついに昇華します。
 のみならず、「未だ発展途上である」というテーゼによって、「武」と「ファミリー」というふたつのテーマもまた、個人と社会、すなわち人間存在がいかに進歩発展するかという究極のテーマとして、合一を見るわけです。そして、ダークサイドの存在もまた、「武」と「ファミリー」の相互作用によって正のサイクルに戻り得るということが、『まじこい』の謳う人間賛歌なのです。