風間ファミリーと
その閉鎖性について

なしお

今回は「ラジオで話された内容を受けて」書きましたので、できれば一度ラジオ(の録音)の方を聞いていただけるとありがたいです。
ラジオでも少し話題に上っていた、「風間ファミリーとその閉鎖性」について。

風間ファミリーへの加入条件というか、そこにおける選民性・選択性が強いかというと、それは普通(普通の程度)ではないかなと、個人的には思うのです。彼らは”ただの友達集団”なんだから、誰でも彼でもその仲間になれるわけがない。これは現実における僕らも同じですね、よくつるむ・仲の良い集団に、誰もが加われるワケではない。趣味が合うとか気が合うとか遊んでて楽しいとか、その場のノリとか雰囲気とか、あるいは学生だったら教室での席が近いとか部活やバイトが同じとか、そういうファジーな基準から、つるむ・遊ぶ・仲が良くなる相手というのが纏まっていって、集団になっていく。
風間ファミリーは男女混合年齢も多少上下あるという風に色々な人間がいるけれど、その殆どが「超人」あるいは「おさななじみ」なので、そこを見ると非常に選民性・選択性が高いように見えるけれど、それは結果的にであって、何もそういう人間を集めようという目的があった訳ではない。その上で何故このメンツかというと、それは楽しかったり居心地良かったりしたからでしょう。
もちろん、スクールカーストというとアレですけど、大体の住み分けみたいなのはあるでしょう。たとえば(服装が)オシャレな奴らの集団にダサい奴が滅多に入れないのは、オシャレな奴というのは、たいてい人の目ないし自分の目を気にするからオシャレなのであって(もちろんノリや周囲に流されてオシャレな奴もいる)、その集団にダサい奴がいたら、人の目ないし自分の目に、自分もダサい奴と同類と思われてしまうからこそ、そこに選択性と閉鎖性が生じる。そういった選択性や閉鎖性(といっても、学生時分においては、むしろ「ノリ」に近いものかと思うのですが)と同じ様に、風間ファミリーにもある種の選択性と閉鎖性があるのは確かでしょう。――というか、この世にある全ての集団において、選択性も閉鎖性も微塵もないものは、無い。宇宙船地球号の乗組員になるのにだって、選択性や閉鎖性は存在する。

俺達は、積極的に仲間を増やそうとしなかった。
今のままでも充分楽しいから。
【ユキを仲間に入れるの断ったとこの回想】

風間ファミリーの加入基準というのは……といっても、作中で示されている限りでは、一番の理由は「ノリ」じゃないかと思われるので、それでも敢えていうと、基本的には「楽しく遊べるための仲間」というのが集団加入の条件じゃないでしょうか。そしてその基準は、この世に数多在る子供のコミュニティその殆ど全てと似たようなモノ――つまり”普通”であるのではないかと(もちろん、往時の京のような例外――むしろ放っておくと楽しくないから仲間に入れた、結果的に楽しく遊べる仲間だったけれど、というような存在もいるけれど)。たとえば自分のことなんかを思い返してもらえればだいたいそうでしょう、小学校でも、中学校でも、高校でも、”つるむ奴ら”というのは、単純に気が合ったり、遊ぶと楽しい奴らであって、そこに無理して新しいメンバーを求めたり、探したりするなんてことは普通はしない。まあこの時の大和は京回想でも語られるように、おそらく「ニヒル」時代の大和でしょうから、こうも無下に断った面もあるのでしょうが、友達集団に外部から「いれてー」と誰かが加入を求めてきたところで、普通は無条件に承認しませんよね。一緒に遊ぶと楽しい奴だから仲間に加える(加わる)というもの。クリス・まゆっち加入時に、「軽い気持ちでおためし・気が合わなかったらやめよう」みたいなことが(キャップから)述べられていたのが、まさにそういうところの付き合い方でしょう。その”友達集団”が、別の誰かと遊ぶことはある。たとえば大和とサブルートのヒロインとか、モロとスグルとか、キャップとクマちゃんとか、そうやって一対一で遊んでる場面も当然あるし、その延長線上で複数人同士で遊ぶというのがあってもおかしくない(ちょっと変則的なものなら作中に十分ありますが)。現実の僕らだって同じですね。”友達集団”みたいのがあっても、それと関係なく遊んでる相手とか当然いるでしょう。だからといって、ソイツがその集団に入るかどうかは別の話。その”友達集団”の殆ど全員を絡めて遊ぶ”誰か”がいたところで、ソイツがその”友達集団”に入るかどうかはまた別の話である。まゆっち・クリスのところで言ってた「おためし期間」のように、気が合ったり、遊んでて面白かったりすれば入るかもしれません。そこで入らなかったのが、これまでに語られてこなかった”誰か”たちであったり、あるいはクマちゃんやヨンパチやスグルであったりするのかもしれない。そして最終的にそこで入ったのが、ゲンさんである。つまり彼らにおける選民性・選択性を敢えて言うなら、「楽しいかどうか」「居心地いいかどうか」(無論両者にとって)。でいいのではないだろうか……(あいまい)。何故かつてユキを仲間に加えなかったかといえば、大和が言うように、 「今のままでも充分楽しいから」 。「充分」というように現時点で満ちていて、それでいてユキと面識がほぼないのに、そんな彼女を仲間に加えたら十中八九楽しくなるなんて保証はどこにもなくて(その点はラストに仲間入りしたゲンさんとは逆で、ゲンさんは既に「お試し期間」を通過していて、楽しさ・居心地の良さが保証されていたわけですね)、じゃあその何処の誰とも知らない者を、楽しいかどうか・居心地いいかどうかイチかバチかで仲間に入れるかというと、「普通」は、しないんじゃないか、と。リスクとリターンのおはなし。
つまり。そういう閉鎖性というのは「普通」のことである。どこの友達集団だってそうで、誰でも仲間に入れてくれるわけではない。一回二回遊ぶだけなら、誰だって、何だっていいかもしれないけれど、継続的に付き合う関係――「仲間」になるのであったら、そこに何らかの選民性・選択性は生まれ、何らかの閉鎖性は生じる。たとえば僕がマシュマロ持って「仲間に入れてー。友達にしてー」と、キミが友達と遊んでいるところに押しかけたとしたら、仲間に入れてくれるだろうか? たとえばキミが見知らぬ誰かのところにマシュマロ持って「仲間に入れてー。友達にしてー」と押しかけて、その見知らぬ誰かはキミを友達にしてくれると思えるだろうか?

上で「普通」と書いてきましたが、言い換えると「現実的」と言えるのではないでしょうか。そりゃ世の中には来る者拒まず誰でも受け入れる集団や、誰だろうが何だろうが絶対拒絶する集団もいるかもしれないけれど、「普通は」、ケースバイケースで決めるでしょう。そいつは気が合うのか、楽しいか、ウザくないか、趣味は合うか、家は近いか、金は持ってるか、話してて楽しいか、一緒にいたいと思うか、何かよく分からんけど気に入った・気に入らない、その日のノリ、勘、断ると色々厄介だから・仲間にすると色々厄介そうだから、面倒だから適当に断る・受け入れる、などなど。……外の人間が排除される、外の人間が加われない。そんなの、世界のありとあらゆる場所で、人の集団のありとあらゆる場合で、当たり前のように起こっていることでしょう。それは現実において、そして「まじこい」という物語においても同じ。「お話の中にだって救いはなーい」とユキが云うように、「まじこい」はそんなポンポンと救いが落ちてるお話じゃなくて。奇跡が起きるお話じゃなくて。お話なんだから安易に、”その現実的な閉鎖性”が払拭されている物語じゃなくて。
僕はタカヒロ作品を、『つよきす』『君が主で執事が俺で』そして『真剣で私に恋しなさい』とプレイしましたが(プレイの順番は逆でしたが)、そこで抱いたのが「意外とリアルだ」という感想でした。もちろん、つよきすの乙女さんとか館長やオウムの存在とか、きみあるのナトセさんとかデニーロとか、まじこいにおいては武道家たちはじめ登場人物の半分以上が、とてもではないけど「現実にありえない」ような存在であるのは確かですけど、そういうぶっ飛んだキャラクターや世界を含めた舞台や背景・設定を抜かすと、意外なほど現実的に思えたのです。舞台・背景・設定という前提は非現実的でも、その中で生きる人間は、その前提を背負った上で現実的であると。
端的に言うと「奇跡がない」「都合が良すぎない」。救いは、天から恵みのように降ってくるものではなく――それぞれの個別シナリオや、あるいは冬馬のように、救われるというのは、天から恵まれるのではなくて、歩みの先にそれを獲得したり、そこに辿り着いたりするもの。其処に至るに努力や才能・性能や偶然はあっても、奇跡は無いわけです(無論、そのこと自体を奇跡と捉えれば別ですが)。奇跡で一気に獲得できてやったー大団円!……というものはなく、一歩一歩進んでいくもの。そんな状況でも、一歩一歩歩いた先にしか、救いのようなものはない。つまり「奇跡も無く標も無く、ただ夜が広がるのみ」「揺るぎない意思を糧として、闇の旅を進んでいく」というヤツですね。
「まじこい」の、「問題解決」や「救い」とか、そういうものの全ては、その川神魂的なものが根幹にあると思うのです。だから僕としては、彼らが何か奇跡のようなものに恵まれたり、天啓のように才能を閃いたり、運命のように何かに目覚めたりみたいなところが(過去はともかく、作中で語られる時間内では)無いことをとても評価しています。ラストバトルが淡白という感想をちょくちょく拝見するけど、逆にそこで「全てを出し切らない」――彼らにとって全てがかかった何か・大事・つまり「運命」みたいなものではない、というところが、僕としては評価できる。それは寧ろ「現実的」なことを示している。舞台も設定も背景も、キャラの能力も性能も非現実的だけれど、そういう前提の上で流れるお話は、奇跡や運命に頼らず、現実的なしがらみや厄介なところ・都合の悪さも消しきらず。たとえば、『まじこい』の百代シナリオでは、主人公が努力の末に目的を達成するというカタチでしたが――他の個別シナリオもまた、クリスにしろまゆっちにしろ京にしろ、主人公or彼女たちの努力というものは大なり小なり重要でした(ワン子は「努力が報われない」という話ですが、ラストに「それでも今までが無駄になっているわけではない」という断りを入れている)――たとえばそれは『つよきす』における乙女さんシナリオと非常に酷似した形状でしょう。目標や目的に届くために、(それに見合う)高い向上心を持った上で、それに届くように努力して、一歩一歩進んで、はじめて達成されうる。勿論ワン子のように達成されえない場合もあるけれど、それでも、「だから無駄」ではなく、「己の血肉になっている」と肯定されている(それは『きみある』における上杉錬も近いでしょう、かつて体験してきた色々なことが今役に立っている、あんなことも無駄ではなかった、という描写が幾度もなされています)。こういった考え方は、川神魂や学園の教育方針、また『つよきす』の館長の教育方針やそこで育ったことにより得てきた性質(=「竜鳴魂」という単語が作中で一度だけ出ていましたが)などに通じるのではないでしょうか。向上心を持って、努力し、一歩づつ進んで、怖れず戦え。その所作は、まっとうに現実的なものではないでしょうか。都合が良くない中で進んでいく為の所作である。それこそ、願いや想いや絆で奇跡が起きちゃうフィクションに比べれば。
で、話戻りまして、閉鎖性というのも、そう。やはりここでも現実と同じで、(前提として)閉鎖的であるのは当たり前。フィクションだからといって、安易に非閉鎖的であったりはしない。リアルとかリアリティというとちょっとアレですけど、単純に言えば、お話だからって”そんな都合良くない”ということです。そして、その閉鎖性は、もちろんマイナス面があって、それが形としてたまたま現われたのがユキであったということ。
たぶん、どこのコミュニティにも、当たり前のようにありえたかもしれない事。
最後のゲンさん加入が、冬馬に閉鎖的と突っ込まれたことに対するものでもあったと語られていますが(※初回特典冊子参照)、これは単純に冬馬への対抗心とか当て付けとかそういうのじゃなくて、「冬馬にコミュニティの脆弱なところを指摘されたので、それを直した」とか、そういうレベルのことだと思うのですね。真に閉鎖的ならば、ユキのようなことがまた繰り返されるかもしれない。だからこそ、ある程度の柔軟性が必要である。
真に閉鎖的なコミュニティというのは、本作の場合だと板垣ファミリーがそれに当てはまるでしょう。

大和 「……姉妹同士、姉弟同士は仲良いのになぁ」
辰子 「家族で仲良いのは当たり前だよ〜」
大和 「赤の他人は?」
天使 「どーなろうとまったくまったくまったく関係ねー」

家族内は仲が良いし、危険があれば守るだろうけど、その外側の人間はどうなろうが関係ない。危害だって(実際に作中で描かれているように)平気で加える。外側と内側を恐ろしく区別していて、内側は大事だけど外側は心底どうでもよくて、そして内側に入る条件は「家族」のように、外側の人間はまず殆ど必ずといっていいほど、内側に入れない。
そこまで閉鎖性のある集団だとどうなるかというと。風間ファミリーの閉鎖性はユキを救えませんでした(拾えませんでした)が、板垣ファミリーの閉鎖性はユキや京のような人間を作り出すでしょう。

京 「…これは作り話だけどある仲良し集団がいてね」
京 「その人達はもう、平然と人を害する悪党集団なんだけど仲間がやられると凄く怒るの」
京 「どうして、人を害せるの? って質問に自分達と関係ないから害せると返すの…」
京 「別に人を害したいとか、そんなんじゃなくて」
京 「極端な話、そういう集団に憧れるの」
京 「自分達以外、一切無関心みたいな、ね」

京シナリオの一幕ですが、(元ネタがあるとはいえ)この言葉はおそらく裏返しでしょう。これは、まんま京がやられてきたことであるからこそ、これはつまり京が思う世界の(他人の)形でもある。他者は彼らの更なる他者を理由もなく排斥する。そういうふうにできている。なぜなら、今まで生きてきて京が触れてきた他者が、そうだったから。ずっとそういうことをされてきたから。だから、(この時点の)京には、風間ファミリーの外側は自分を「何の理由も無く害してもおかしくない」ものに見えた――というか、そういうものが、普通だった。何せ今まで風間ファミリーという例外を抜かせば、そういうのしか見てこなかったのだから。
そして言うまでもないですが、京のその「作り話」というのは、板垣ファミリーと相似しています。つまり、板垣ファミリーの閉鎖性はユキや京のような人間を作り出しておかしくない。そして、風間ファミリーの閉鎖性は、ユキや京を救いきれなくても(拾いきれなくても)おかしくない。
たとえば現実において、板垣ファミリーほど指向性と閉鎖性の強い集団は、そうそう多くはないでしょうけど、恐らく居てもおかしくないでしょう。では風間ファミリーくらいの閉鎖性だったらどうか――それはごまんと居るでしょう。てゆうか、自分自身を思い返せばいい。あるいは、自分が小学校の頃の、中学の頃の、高校の頃の、クラスのグループ分け/仲間分けを思い返せばいい。その程度の閉鎖性は現実でも当たり前で、そして『まじこい』という物語でも当たり前である。
でも、歩き続ければ、闇の旅を続けた先で、いつかは何処かに――歩いたからこそ辿り着ける救いや、歩いたからこそ叶った奇跡のようなことに――辿り着けるかもしれないのも当たり前。その時に、少しでも救いの間口が広いかどうか、というのが、ラストのゲンさん加入が冬馬への反応であるというところ――風間ファミリー自体の柔軟性・変化、もうユキのようなことを繰り返さないということ――ではないかと、思うのです。