『11eyes』にみるディティール戦略、
つまり中二病が全て

もりやん

シナリオゲーの現在

 月刊ERO-GAMERSでは、一貫して「シナリオ重視」と呼ばれるようなゲーム、いわゆるシナリオゲーを扱ってきた。
 美少女ゲーム、エロゲーがポルノとゲームと美少女で成るにもかかわらず、こうした作品は長らく業界において大きなシェアを握ってきた。歴史上、こうしたストリームは旧御三家の一角、エルフにまで遡るのが筋であろうが、現在主流となっているシナリオゲーの直接の祖先はいわゆる葉鍵=Leaf・Keyとするのが適切といえる。
 すなわち、Leafビジュアルノベル三部作――『雫』『痕』『ToHeart』、および『ONE』『Kanon』『AIR』である。(『MOON』を忘れてはいない、念のため。)
 年代にして1995年から2000年。これが葉鍵時代である。
 その後、葉鍵が築いた「シナリオゲー」という土壌において、いくつもの新興勢力が芽吹く。埼玉連合・千代田区連合に属する各ブランド、BasiL、Liarsoft、August、GROOVER、個別作品としては『CROSS†CHANNEL』など、そうそうたる面々が覇を競った。年代にして1999年から2003年。これがポスト葉鍵時代として定義できる。そして、この百家騒鳴のかつてない戦国時代を勝ち抜き圧倒的な覇権を築いたのが、天才那須きのこ擁するTYPE-MOON。『月姫』によって同人界から成り上がった彼らが満を持して送り出した、美少女ゲーム史上空前の大ヒット作『Fate/stay night』であった。
 『Fate』が登場した2004年以降、市場はTYPE-MOON一人勝ちの様相を呈する。Fate時代としか言いようのない時代の到来である。同人ドリームの後継者として竜騎士07という天才と『ひぐらしのなく頃に』というモンスター作品を輩出したものの、彼は18禁エロゲー市場に舞い降りることなく、慢性的な市場の縮小傾向が言われた。
 新たなリーダーとなるクリエイター・ブランドが現れることなく、頂点に君臨したまま『Fate』の記憶はいつしか薄れ、また新たな潮流が隠然と胎動を始めた。年代にして2007年以降。ポストFate時代。我々がいま直面している時代である。

ポストFate時代のシナリオゲーとは?

 葉鍵から始まるシナリオゲーの歴史は、一貫してより大きな物語の感動をプレイヤーに与えることを至上の目的としてきた。葉鍵時代において泣きゲー、ポスト葉鍵時代において鬱ゲー・燃えゲー、そして『Fate』において読み物としてのひとつの極地に至る。
 ――ほんとうは『Fate』みたいな穴だらけの作品に対して極地とか言いたくないのだが、その後の歴史は異なる方向を指し示すので、どうにも、そう表現するしかない。
 さて、時代はポストFateとなった。ERO-GAMERSにおいては、ポストFate時代のシナリオゲーを主に扱うことが主要メンバー間で合意されており、これまでのラインナップもその方向に沿うものである。

 ポストFate時代のシナリオゲーにほとんど興味を持てず、文句ばっか言ってろくにプレイもしなかったぼくも、否応なくこれら作品をプレイするハメに陥った。おかげで毎月スケジュールがヒーヒーである。なげーよ。
 さておく。
 ぼくがプレイする中で共通する特徴と感じたのが、「より大きな物語の感動を与えること」を必ずしも至上目的に設定していないことである。
 大きなストーリーより日常描写に傾注するものあり。メタフィクション的な仕掛けに凝るものあり。パロディに淫するものあり。かつてのシナリオゲーに比べ、エロに力が入っていることも共通する。いずれも、よりミクロな快楽に重点が置くものである。
 これらの要素自体は、『Fate』以前のシナリオゲーにも見られたものだ。しかし、それは最終的にストーリーの感動に回収されるものだった。
 例えば、現在人気のある、男性キャラ込みでコミカルな日常を描く作品の始祖ともいえる『グリーングリーン』にしても、シナリオは最終的にヒロインとの鬱なストーリーに落着していた。どちらがこの作品の人気の源泉であったかといえば、それは楽しい日常のほうに決まっているのだが、しかし主従関係で言えば日常が従、といえる面が確かにある。たぶん。エア批評だけど。なんでグリグリを例にしたんだろ。
 ともあれ、そうした過去の作品と比べると、最近のシナリオゲーのストーリーは明らかにユルい。そして軽い。実は『水平線まで何マイル?』とかInoccent Grey作品とかアヤしいのもあるのだが、プレイしてないので措いておく。ここでは、全体がストーリーに奉仕するのではなく、ミクロな快楽を提供するディティール自体が、作品の主要構造として明確に押し出されているといえる。
 そういう意味では、ポストFate時代のシナリオゲーの無視できない割合が、もはやシナリオゲーと呼ぶにふさわしくないものになっているのだ。しかし、他に適切なカテゴライズが思いつかないし、葉鍵の延長線上のものであることは間違いないので、ここではとりあえずシナリオゲーと呼ぶことにする。
 そういうわけで、以下では『11eyes』を題材として、現代的なシナリオゲーのありようを探ってゆく。

『11eyes』におけるディティール戦略

 先程は「ディティール戦略」と簡単にまとめてしまったが、それだけじゃあんまり適当なので、『11eyes』におけるその表れを確認してみよう。

中二病ネタ

 『11eyes』に対する形容として、しばしば「中二病」が用いられる。ここで言う「中二病」は、明らかに「ありがちなネタ」という意味合いを含んでいよう。
 この作品に含まれるパロディ的なネタの量は膨大であり、それこそ病的といえるほどだ。まずは、ラジオ放送前に作成したまとめ記事を示す。

 羅列しただけで詳細な説明はしていないが、いくらかはラジオで触れているのでご参照いただきたい。
 この中にはパクリというには牽強付会なものもあるし、オタク作品ではなくその原典を直接当たっているだろうものも存在する。しかしそれが「ありがち」なことは変わりないし、いくらなんでも「禁書目録聖省」を偶然と言い張るのは無理がある。少なくともオリジナリティを出そうとしたならば、ググるくらいはしてしかるべきだろう。
 結果として、『11eyes』は非常にパロディめいた印象の作品になっている。ラストバトルなんかほとんどギャグだ。どこを切っても見たことあるネタでは、物語をシリアスに受け取ることなどできようはずもない。
 後述するが、物語のメタフィクション的構造がまた見事な中二病マインドに満ちており、ベタにみてもメタに見ても、真剣に物語を楽しませようとしているには、到底思われないのだ。
 というと批判に聞こえるだろうし、実際半分はそうなのだが、ぼくはこの中二病の嵐からそれほど悪い印象はうけなかった。それは作品全体がディティール戦略の元に構築されているからだ。「設定はストーリーの道具である」という固定観念さえ捨て去ってしまえば、このパクリの山は宝の山に等しい。ありがちということは、みんな好きということだからだ。

クロスビジョンシステム

 『11eyes』のディティール戦略、逆に言えば「ストーリーの相対化」を支えるのがクロスビジョンシステムだ。これにより、主人公・駆視点で語られるメインストーリーの進行に従って他視点、他時間のシーンが解放され、自由に閲覧できるようになる。
 このシステムは設定上のトリックで肝になっているのだが、もうひとつ、シナリオを分節化・操作の対象化し、よってその絶対性を薄れさせていることも無視できない。
 ひと綴りのストーリーとして書かれたテキストに比べ、文節化されたテキストがストーリーとしての重みを弱めること――ゲームシナリオライターの文化的地位が小説家ほどに高くない所以でもある――は、経験的に了解されるだろう。単に過去編として提示されるエピソードより、ゲームシステム上の操作対象として提示されるもののほうが、その持ちうる「重力」は必然的に小さくなる。
 言い換えれば、これはゲームの本性への小さな回帰なのだ。そして、シナリオゲーにおいて、そのゲーム的要素を前面に押し出すこと自体、ディティール戦略に寄与するものといえる。それが単に「シナリオを読むため」の機能であっても――だからこそ。ディティール戦略においては、なにものも、他の要素を従属させるほどに、絶対的重要性を持ってはならないからだ。

メタフィクション

 そして、『11eyes』の物語としての「真剣味」を決定的に崩壊させるのが終盤のメタフィクション的展開だ。本作におけるメタフィクションは他のメタゲーほど理解の難しいものではないが、せっかくなのでおさらいしておこう。
 そもそも『11eyes』の世界は、魔女リーゼロッテの魂の欠片を宿した6人の少年少女が属する、6つの平行世界が重なりあった結界である。それゆえ彼らは、リーゼロッテを滅ぼした後に別れる運命にある。
 これを憂いた菊理は、他の欠片たちと駆を殺害し、取り込んだ上で新たに世界を創造することによって、皆が共に過ごせる未来を得んとした。その代償として、神に等しい力を得た菊理は、自らの強すぎる影響力ゆえ、世界から去ることを決意する。クロスビジョンシステムは、実はこの時点での菊理の視点であると考えられる。
 ここで、菊理の力の象徴であるデミウルゴスは、劫の眼に宿る魂たちと合一したことで人格を得、神の役割を肩代わりし、菊理を世界に戻す。これにてハッピーエンドとなる。
 こうしてみると、途中までは、他のメタゲーでもしばしば見られる、「世界そのものを救おうとする者は、救った世界に生きられない」という認識を辿っていることがわかる。それは、「神」の権能を持つ者は、人としての幸せを求めてはならないという、物語的倫理観の表れといえる。
 しかし本作はそこに留まらず、「無意識」にして「集合意識」――「プレイヤー」の象徴であるデミウルゴスに「神」を肩代わりさせてしまう。
 それしかない。確かに菊理を救う方法はそれしかないのだが、明らかにやりすぎている。それをやらないのが物語の節度であって、ここまでナンデモアリだと「泣ける」ストーリーではなくなってしまう。文学的な余韻など得られようはずもない。
 しかし、そこまでやりすぎてしまうがゆえに、本作のメタフィクション的な仕掛けは非常に高い完成度を持っている。ストーリーを考えず、単体として評価するならば、この奇想とトリックの妙は確かに面白いのだ。

ストーリーの後退と各要素の独立

 このように、『11eyes』においては、全体がストーリーの特権的地位を剥奪するよう構成されている。同時に、作品を構成する各要素が、独立して――連動してひとつの「重要な」構造を生み出すことなく――それぞれにミクロな快楽を生み出している。
 まとめれば、「『11eyes』は中二病」ということになってしまうわけだ。個別の中二病的要素の単なる羅列、それこそが本質なのだから。

ディティール戦略におけるストーリーの機能

 さて、ここまで確認してきたように、ディティール戦略を取る『11eyes』においてストーリーの比重は高いものではない。では、それは単に羅列された中二病要素のひとつに留まるのみだろうか。いや、そうではない。ストーリーには特有の機能が持たされている。それが、作品への導入と離脱だ。

導入――平凡な少年の物語

 『11eyes』の主人公・駆は、「平凡な少年」のテンプレートに沿って作られている。万事に積極的でなく、日常を過ぎ去るままにやり過ごし、将来に期待せず生きている。
 もちろん、こうしたキャラクター像は、ヒーローならぬプレイヤーが自らを投影し、中二病と美少女に満ちた世界にダイヴするためにある。
 その機能を強化するため、序盤では駆が前向きさを取り戻す、成長物語的な展開が多く用意されている。香央里や賢久に説教され、また非日常での出会いを通じて人間関係と視野を広げていくという筋である。こうしたストーリーは、作品へのスムーズな導入を促すものだ。
 一方で、それはやはり導入以上の意味を持ち得てはいない。駆は問題にぶつかりながら徐々に成長するというより、バタバタしてるうちにいつの間にか熱血し始めるというほうが実態に近い。駆のトラウマとなっている姉の自殺についても、明確に乗り越えたらしきシーンはないままに放置される。役割を終えた後は、あまり出しゃばられても困るとでも言わんばかりだ。
 人生と世界に絶望し、日常に飽いた少年――という主人公像は、まさにそのためにのみある。

離脱――平行世界とデミウルゴス

 では、我々は中二病と美少女の世界で永遠に戯れ続けるのか。否、そうはならない。物語は進み、必ず終わりを迎える。その有限性こそ、ディティール戦略におけるストーリーの持つ最大の意味といってもいい。
 そして、『11eyes』のストーリーはただ終わるだけでなく、プレイヤーの「世界」からの離脱を支援すべく、巧妙に組み上げられている。先程の終盤おさらいを思い返してほしい。
 プレイヤーの離脱は二段階で行われる。一段階目は、世界からの大きな異能の消失である。欠片たちの持つ強力な異能は、リーゼロッテの魂、エメラルド・タブレットの欠片によってもたらされている。再構成後の世界ではこれが失われているため、彼らは皆、普通の少年少女に戻っている。美鈴だけは異能を残しているが、それとても陰陽師としては常識的なものにすぎない。
 クライマックスで新世界創造――プレイヤーが主人公として過ごしてきた旧世界との断絶を作り出すことで「ここからはキャラクター自身に任せましょうや」的な雰囲気を作り出す作例は多いが、本作の場合、物語を駆動していた異能という要素を失わしめることでより効果を高めている。
 二段階目は、プレイヤーキャラクターの遷移である。当初、プレイヤーの代行者、そしてクロスビジョンシステムの「視点人物」は駆として認識される。それが菊理へ、そしてデミウルゴスへと塗り変えられていき、伴って世界の「外」へと居場所を移していくわけだ。
 駆として戦いに身を投じたプレイヤーは、菊理として悲劇に幕を引き、デミウルゴスとして救われた世界を見守ることになる。綺麗に足抜けできるようになっているのだ。

 このように、導入と離脱の機能が担保されることで、我々は安心してディティールに耽溺することができる。

なぜ、ディティール戦略を取るのか

 ここまで、『11eyes』がいかにしてディティール戦略を成立させているか確認してきた。ついで、ディティール戦略自体の是非を問うてみようと思う。エロゲーでディティール戦略を取ることに、どういった必然性・蓋然性があるのだろうか。
 まず、シナリオゲーの歴史上の反動、という言い方ができる。そもそもシナリオゲーは、「ポルノ」「ゲーム」という媒体を用いるにもかかわらず、その定義において必須ではない物語要素を最重要視するという倒錯した状況にあった。これがある種の限界を抱えるのは当然である。
 それでも現実問題として一番本数が出るのはそのテの作品であったので、巨費を投じるプロジェクトにおいては必然的にそこを目指さざるを得ない。その矛盾に、一見電子読み物的な体裁を取りつつも、実際にはストーリーに比重を置かないという戦略が成立し得たとはいえまいか。ヒロインごとに分岐するシナリオ構造を採用するにもかかわらず、明らかに個別ルートに比重が置かれていないことも、同様のやるせない理由による面があるだろう。
 つまるところ、需要とマーケティングのミスマッチという状況の産物という解釈だ。なんだか全然わけわかんない状況だが、ムービーゲー死ねとさんざん言われつつグラフィックの悪い作品は売れない、という一時のコンシューマゲームにおける状況と似たようなものだろう、たぶん。なんでゲームってそういうことになっちゃうのかな、てのも興味深い問題ではあるが、本稿では指摘に留める。
 一方で、メディアの形式に基づく適応的進化という見方もできる。エロゲーを含むゲームはマルチメディアアートである。オーディオ・ビジュアル両面を含むのみならず、テキストやゲーム性といった情報を多彩なインターフェイスで提供する。しかも、エロゲーではポルノ要素までも投入されるわけだ。これほど多様な表現力を持った――そして各要素個別の表現力において劣る媒体は他に類を見ない。
 アニメ、漫画、小説、そして非美少女ゲームといった特化した媒体に比べ、エロゲーの個別要素における表現力は明らかに劣る。唯一、2D一枚絵の美しさだけは頂点を極めるが、それとてもCG集という形態で提供可能だ。
 そうした不利に対して、多彩な表現を集中運用し、さらに莫大な物量を注ぎ込むことで大きな感動を与えようとしたのがシナリオゲーの戦略だったわけだが、必然的に制作コストは右肩上がりになり、そしてごく一部の大手ブランドを除いては追随できない領域に辿り着いてしまった。
 その上、メディアとしての洗練の歴史が浅い、というかそもそも思いっ切りキメラ的なスタイルのため、どんなに頑張ってもすげえチープな印象が拭えない。先行き不透明な感じだったわけだ。
 そこで、単一の見せ方に湯水のごとくコストを注ぎ込むのではなく、各要素を個別的に見せるスタイルが発生したと考えられる。実際、かつてのシナリオゲーに比べて、ある意味まとまった印象があるのは確かだ。
 ポルノというもの自体が、即物的な快楽を提供すべきともいえる。かつて、エロゲーはにっかつロマンポルノに例えられた。零落したクリエイターが最後に辿り着く、自由な表現を受け入れるメディアとして共通点が見いだされたのだ。
 しかし、ロマンポルノの時代はいつまでも続かなかった。その後に隆盛したのは気楽なエロビデオである。誰も彼も重厚で感動的なストーリーなんか求めちゃいなかったのだ。それは、モノがポルノである以上、決して否定されることではない。重厚で感動的なストーリーがほしければ、小説を読みゃーいい話である。
 そして、この戦略に必要なのはなによりもセンスである。それは「優れた」センスということではなく、決して融合しない各要素をそれでもひとつのパッケージにまとめうる統一的なフィーリングだ。その意味で、全体を「中二病」というセンスでまとめあげた『11eyes』は、どこまでも正しい。

ディティール戦略の未来

 現状、ぼくの知る限り、『11eyes』以上にディティール戦略を完璧にこなした作品はない。しかし、それでもなお本作がナンバーワンの作品ではないということは、指摘されるべきだろう。
 快楽は忘れられるが、感動は心に残る。歴史上名作として記憶される作品は、やはり感動を与えるものにほかならない。そして、感動とは、なにもストーリーから、「泣き」からだけ生まれるものではないのだ。感動的なギャグ、感動的なゲーム、感動的なエロもまた存在する。感動を生み出すのは、即物的な快楽を突破した表現である。マルチメディアアートがそこに至る道は、やはり各要素の協調的な働きに見出されるだろう。
 ストーリー偏重を捨てたことはおそらく正しい。しかし、ディティール戦略もまた、いずれ限界に行き当たる。そのときに思い出されるのは、かつて目指された、シナリオとCGとBGMとその他全てのものがともに手を取り合ってひとつの感動を生み出すスタイルではないだろうか。
 『11eyes』のなしえたことが、そうした輝かしい未来に繋がることを祈り、本稿を終える。