完全世界への
アプローチ

simula

11eyesって、理不尽、不完全な世界から、各人の思う望む世界の追求って側面が結構あるのではないかと思っていて。


そもそも、ゲームが始まってすぐ

世界は、そういったものも含めた上で、バランスがとれている。
そう、思っていた───
そう、信じていた───
苦痛も、悲哀も、不幸も、不義も、苦悩も、絶望も。
いつかは埋め合わされていく。
世界はそんな完全な調和を保っている。
それが世界というものだと、信じていたんだ……。
そうじゃなくちゃいけないと思いたかった……。
あの日まで───

という駆の独白から始まっています。この言葉の意味は、全てが報われる完全な世界という信仰の挫折です。
そして、ラスボスであるリーゼロッテの目的は、ヴェラードの人類を皆殺しにするという望みから始まっています。その理由は、造物主(デミウルゴス)による不完全な世界を断ち切るには人類を滅ぼしてしまうしかないというものです。
つまりこれは、世界の不完全さに関する一アプローチである。


また、ゆかによる幻燈結界の夢の世界というのも同一です。彼女が望む幸せな世界というのがあの形である。彼女にとっては駆さえいれば良い、それこそが完全な世界なんですよね。

駆「理不尽が許せないのは……果てしない悲劇に憤るのは……」
駆「心の底から……!幸せな世界を望んでいるからじゃないのかよ……ッ!!」

とヴェラードに対して言うように、それらは元々は純粋な思いから生まれて、結果的に違った形になってしまったというものです。


そして、主人公である駆の持つ劫の眼は、可能性としてある世界を引き寄せ、未来を選ぶことの出来るものです。つまり、これもまた望む世界への一アプローチ。ボトムアップからの「最善」の追求です。
ただ、それもまた限界があって。劫の眼は使いすぎるとそれに取り込まれるというもので、駆はリーゼロッテを止めるという「未来」を選択することは出来たけれど、自分が死ぬこと、あるいは既に起ってしまったこと、仲間の死を変えることは出来ませんでした。つまり、ここに最善の限界がある。文字通り最善っていうのは、そこ以降がない訳で。
それ以上の「完全な世界」を実現するのが菊理と守護天使「デミウルゴス」による「神」の力です。


過去も未来も全て望むように変えてしまう力。
つまり、積み上げでは不可能なことを上からのトップダウンでやってしまうということです。
それならば、最善では不可能な領域へも到達できる。というより、その領域が出来るものがそもそもの定義みたいなもので。
そこに残る最後の問題が、何でも出来るということは、何でも全て自分の決定どおりになってしまうということです。そこでは世界が自分に従属してしまうために、全てを自制しなければならない。
それに対して最後に要請されたのがデミウルゴスです。
この物語の全てを観測してきた「神」からの、菊理の神の立場の開放。
これによって、「かく、あれかし」と望まれた、皆が幸せな完全な世界というものが初めて顕現し、物語を終えます。


という所が11eyesなのではないかと思うのですが、ちょっと悩むところも残っていて。完全な世界への不完全なアプローチ。それは良い。
けれども、実際に完全な世界を神が実現してしまうのはどうなのか。11eyesという作品という視点で見れば完全な世界を持って、この作品を完結するというのは確かに完成を見ているけれど、我々不完全な世界からそれを見たときに要するに共感、関連を見ることが出来ないものになってしまったのではないかということです。