遊佐童心と
いふ男

勝山ペケ

本文

ボクは『装甲悪鬼村正』という物語の中で、童心というキャラクターが一番好きだ。その理由を切々と書いていきたい。
村正という作品には、一つだけ絶対の理が存在している。それはもちろん「善悪相殺」などではなくて、なんらかの行動原理から、ある種の整合性をもって目的を追求することは正しいというものである。言い換えるなら、二心が無いのであれば、それがどれほど社会通念に反していようと肯定されるというものだ。
最終的には武帝になった主人公の景明、復讐のために自らの慕情すらも殺した糸目、自ら信じるもののために村正に乗り込んだ一条は、それぞれのEDでその生き方に何らかの価値を認められている。その上、あの大量殺人者の光でさえ、彼女を倒した魔剣は、愛を勝ち取るという光の目的を叶えるものだった。少なくとも、この作品世界の理において、二心の無さは、殺人というタブーを超えて認めれるものである。
そして、登場人物のほとんどは、この理を自らの中に内面化して生きているように見受けられる。彼らはときに自らの心を押し殺してまで、行動の一貫性を求めていく。その代表が、運命の悪戯から悪鬼の道を強要された湊斗景明であることは言うまでもない。彼らの振る舞いはときにかなり奇妙だ。にも関わらず、この物語にはそれを指摘するような視点がほとんど存在しない。
その唯一の例外が、遊佐童心という男であるように、ボクには思えるのだ。バサラ大名を名乗る彼の行動理念は「楽」である。「楽しい」というのはどこまでも内心の問題であって、そこから行動の一貫性を導き出すことは無理だろう。*1つまり、彼の行動を規定するのはどこまでも気分なのだ。これが如実に出たのが、英雄編における一幕である。あの和製ロミオとジュリエットみたいな美談を、童心は一瞬で粉砕してみせるわけだが、その行動を何らかの原理に還元するのは不可能だ。邦氏への牽制としては、院政を敷こうと思っている身としてはどう見ても薬が強すぎるし、姫へ語った言葉の真偽はどうあれ*2、彼女への鬼畜の所業を説明するには到底足りない。結局、本人が楽しそうだと思ったから、という理由付けが限界なわけだ。
他のキャラクターが行動の一貫性に捕らわれている中で、いかにも童心は自由闊達に見える。だがそれは必ずしも、彼の幸福の証左ではないようだ。作中において、童心が茶々丸の内面に肉薄するのも、そうでありながら正解に辿り着けないのも、彼が行動の一貫性から自由なためだ。彼は茶々丸たちを縛るものの外にいるために、その行動を客観的に見ることが可能なのだが、外にいるが故に、その動機を本当の意味で理解することが叶わないのだ。気分で動く彼ともっと厳密な原理で動いている人々は、ある地点までしか近づくことがない。そういう意味で、童心の自由は孤独という代価を必要とする。
たぶん、彼に確固たる行動原理がないのは、悪役の内情を描写すると底が透けてしまうというライターの技術上の配慮の結果に過ぎない。だが、その結果産まれた童心は、天からの正義の使い求める存在になった。「楽」という際限のない動機で行動する以上、他の人々と違い、その停止は外部的な要因でしかありえない。六波羅四天王として、大和に並ぶもののいない童心が天の名を口にするのは、一種の驕りに過ぎないのかもしれない。しかしそれを、創造主によって物語の外に半ば押し出された登場人物の、悲痛な叫びと考えることも出来るのではないだろうか。

脚注

*1その日は楽しかった行動が、他の日にも楽しい保障はどこにもないから。
*2たぶん本当だろうけど。