善悪相殺という
欺瞞

紅茶の人

湊斗景明は装甲悪鬼である。
この結論自体に誤りはない。
悪鬼とは何か。
彼は言う。

湊斗「人を殺してでも人を救いたかったからだ」
雪車町「てめぇはそれを……また、嫌々、泣きながら、やるのか?」
湊斗「嫌なら、やらん。やりたいから、やったのだ」
湊斗「……当たり前のことだろうが?本当にやりたくない事をやる人間が何処にいる?」
湊斗「殺したいから殺す」
湊斗「俺は……俺の邪悪を信じる」

この言葉が真実でもあり、同時に自嘲でもあることはコンプリートした方なら同意して頂けるだろう。
では、そこに顕われる善悪とは何か。
彼は光を愛しつつも銀星号を悪と見なし、銀星号である光を憎まざるを得なかった。
それ故、銀星号に被害を受けた者は彼にとって善であった。
それは良い。
しかし、では、銀星号と関わりない者はどうなのか。善か悪か?
六波羅は、進駐軍は彼の心算のみで計れる悪か善か?
武帝としての彼はそこに客観を導入することに成功したように見える。
しかし、それは彼自身にとっての愛憎と関わりが無いものを扱っているからにすぎない、とは言えないか。
善悪相殺の呪いというが、何故、常に一番近しいものに呪いが向けられたのか?
武帝としての行動は、それに答えを与えてくれるものではない。
そこにあるのは既に形骸化した理想にすぎないからだ。
――そもそも、善悪だけを云々するなら、彼と関わり無いものであってもそこに優劣は一切無い筈である。
しかし物語における彼の行動は、道端の善人と綾弥一条ら相殺の対象になった者の命は善の度合いにおいて差がある、と彼自身が認めてしまっている事を示している。
「善人なら誰でもいい」わけではない――ということ、それ自体が既に欺瞞である。これは復讐編において明確に示されている事実だ。
復讐者たりうる理由を持つ者に殺されることこそ至高とした景明は、その時点でそれが最も「彼にとって」正しい善であることを受け入れてしまっているのである。
この欺瞞は魔王編、悪鬼編に至っても解決はされない。
彼ら「善人」が死んだ理由を説明はしても、「何故他の誰かではなかったのか」という理由は「近しい人間か否か」すなわち「愛憎の強度」以外に説明できないからだ。
ここではすなわち、善悪よりむしろ仕手の愛憎のほうが相殺の判断においては結局は重要である事が示されている。村正の呪いなど、その意味ではいくらでも出し抜きがきく程度のものであり、だからこそ湊斗景明は罪を村正に押しつけようとはしない――出来ないのだ。
――善悪を判断できる仕手を得て始めて、愛憎と善悪は一致する。
そしてその仕手をもってしても、愛憎は善悪に優越する。
善悪相殺という幻は、ただ湊斗景明にとっての正義であり善であった統を殺したのが他ならぬ自分である、という罪の意識によってのみ支えられている。
それ故に、彼は罪からけして逃げることを許されない。
統はまさにその正しさ、善良さによって景明に呪いをもたらし、結果として光をも不幸にした。
「母こそがおれの敵であった」とする光は完璧に正しいのだ。
そしてその光も、悪鬼編ではすでに存在しない。
悪鬼編の景明は死ぬべき場所を失った亡霊である。
彼が武帝になろうとしたのも、結局の所は村正と殺してきた人間に殉じたためであり、積極的に生きようとしたためではない。彼は形骸の理想に殉じたのであって、武帝になってもそれで救われたわけではないのだ。
武の悪を知らしめるため――というが、悪も善も同じだけ殺すなら、バランスの失われた世界を「これ以上悪化する」ことは防げても「善に向かう」ことはできない。
それは悪が満ち溢れた世界だけに存在を許される天秤だ。
すなわち、故に僕は「村正の求める善悪相殺とは最初から矛盾しており、幻である」と言わざるを得ない。
より正確に言えば、仕手を必要としている時点で幻にならざるを得ない、ということになろうか。
――最も、この矛盾はそもそも剱冑が最初から抱えるものとして受け入れるべきなのかもしれない。
剱冑を打つ鍛冶が全能でない以上、彼らが鍛え、己を捧げた剱冑が拠って立つ論理も完全なものとはなりえない。
正宗の論理が矛盾を内包していたように、村正の論理もまた矛盾を内包する。
これを設定自体が抱える欠陥と捉えるか、元よりそういう矛盾を前提として描かれた物語ととるか、は人によって異なるかもしれないが――個人的にはその矛盾もまたこの物語の一部であると捉えたい。

もう一度言う。善悪相殺は最初から矛盾を抱えている。
愛憎を抜きにそれを唱えるのは単なる欺瞞にすぎず、愛憎を無視すればそれはただの呪いにすぎない。
何しろ一度発動したが最後、正しくあろうとすればするほど、積み重ねた過去は止まることを許さなくなるのだから。
これが呪いでなくてなんだというのか。

――ああ、だからこそ。
魔王編において、卵の支配から還ってきた景明を前に村正は泣くのだ。
自分が既に「意味のない呪い」であることを知ってしまっているから。
そして、村正が泣けることを知っているからこそ、湊斗景明は己が殺してきた過去に殉じるのだ。
それが欺瞞と知りつつも、己が善悪相殺を為すための悪鬼であると嘯くのだ。

これは英雄の物語ではない。
しかし悪鬼の物語でもない。
勿論、善悪を示す物語でもない。
唯、愛憎を描いた物語である。
そう思う。