ギャグを超えられなかった
『装甲悪鬼村正』

もりやん

――これは、英雄の物語ではない。

本作における笑いの技術

本作の最も優れた点はなにか。それは笑いであるとぼくは考える。しかも、明るさ・楽しさ・ハイテンションによるものではない、笑いの根本的な技術に基づくものである。
笑いの本質は、“ズレ”にある。自分の想定から外れた出来事を前にして、人は笑う。コンビ漫才においては、ボケ役がズレたことを言い、ツッコミ役がそれを指摘するのが基本的な手筋である。
本作において、景明のボケ、村正のツッコミによるコンビ漫才が、基本パターンの一つとなっていることは、非常にわかりやすいだろう。
では、ボケ役がズレを生み出すにはどうすればよいのか。そこで求められるのが意外性である。観客が持つ常識の空隙を突き、いかに想定外の言動を行うかによって笑いの基本的な質が決まってくる。
その点、本作の意外性への意識は非常に優れている。謎の大蜘蛛の正体から始まり、一条の名前ネタ、香奈枝の本性など、常にプレイヤーの意識の裏を狙ってきている。単にスラップスティック(どたばた)を繰り広げるだけでなく、脚本・演出の両面において、急転直下の切り返しで裏をかくことによって、他と一線を画する笑いの質を獲得しているのだ。個人的に一番笑ったのは蜘蛛イメージプレイ@独房なのだが、これも直前のシリアス展開とのギャップが肝になっている。
逆に言えば、そこでどんな“常識”を想定するのかが、笑いの技術においては重要といえる。お笑いにおいて、あるあるネタが一定の勢力を保っているのは、逆説的に、ズレの基準となる“常識”を確保するのが容易ゆえと考えられる。
では、本作が想定している“常識”とはなんだろうか。それは「正義」であり「英雄」にほかならない。

なにをやってもギャグにしかならない件について

本作の主人公・湊斗景明は、正統的なヒーローではない。のみならず、そのストーリーもまた、典型的なエンターテインメントの技法に沿ったものではない。ヒーローの活躍、巨悪との戦い、その中で結ばれるヒロインとの恋愛といった、広く好まれる展開は、努めて避けられている。
ヒーローは常に挫折し、倒すべき悪は悪といえず、自らの行いを誇ること叶わない。ヒロインとの恋愛は破綻すべき関係によってしか得られず、最終的に主要人物が誰も幸せにならない、そんな物語である。
これが、ブラックな笑いをもたらす上で非常に有効に働いていることは、注目に値する。重苦しい運命に強制された戦いの最中に行われる景明と村正の軽妙な会話は、クスリという笑いを起こさせるとともに、一層戦いの悲惨さを引き立てている。
しかし、それがただ意外であるうちは、決してプレイヤーを泣かせるものにはならないのも、また事実である。読み手の想像を裏切るのは良い物語だが、期待を裏切ることは必ずしもプラスに働かない。
英雄編・復讐編の終盤でブッ壊れる一条・香奈枝の姿は、物語の感動を見事に台無しにしてくれる。望まず無辜の人を手に掛ける景明の後悔と恐怖も、同時に繰り広げられる顔芸のせいで苦笑しかもたらさない。長坂右京金神様フォームはギャグでなければなんなのかわからない。魔 剣 装 甲 悪 鬼(シャキーン)とか武帝(笑)とかはもうツッコミ疲れてついていけない。
現状の『装甲悪鬼村正』は、壮大なギャグとしか評しようのない作品である。

コメディを超えて感動をもたらすには

本作は、絶対的な正義も否定している。各ヒロインがそれぞれに奉じる「正義」も、常に相対化され、物語の結論としては採用されないものである。
であれば、固有の「正義」、固有の「善」を打ち立てることなしに、脱・コメディを遂げることはできない。ほかの誰のものでもない、湊斗景明の個人的な「正義」が必要とされる。
それが武帝(笑)だったわけだけれども、あれで納得しろというのは無理な話である。どれだけアホらしいか語り始めると長くなるからやめるけれども、ライターも受け入れられると思って書いていないと思う。
そんなパンク精神に溢れた作品に対して「まともなことをやれ」というのもアホらしい話ではある。道中の話がこれだけややこしいのに、最後だけいい話にするのははっきり言って無理だ。
とはいえ、納得いかないので色々考えてみたところ、やはり統の教えに立ち返る以外、景明の物語をまっとうに終わらせる方法はないと思われる。景明は、不殺の武力として世の平和に貢献すべきだった。本人が納得するかどうかなぞ関係ない。守り切れないものも出てくるだろうが、相手を殺したら自分で殺すハメになるのでやっぱりそうするしかない。三世村正は知らぬことだが、それこそ初代村正が「善悪相殺」に込めた願いのはずである。
個人的には、茶々丸EDが正史でいいような気もするが。なんかほら、景明さんイキイキしてるし。