とある
悪鬼の
物語

simula

悪鬼編、そして装甲悪鬼村正という作品のラストが誰にとっても引っかかるものだという意識は共有されているのではないかと思います。そこでああいった形にならざるをえなかった理由について考えてみます。


それはこの作品が、ラストに作品としての正しさを持ってくるのではなく、登場人物個人としての必然性からの結末を描いたためではないかと思います。
主人公である景明という人は自分のことを「悪」だと思っています。そのため、復讐編で顕著なように自分は悪として裁かれるべき人間であると思っている。
とはいうものの、彼にその悪としての責任が必ずしもあるかというと結構微妙なところで。世の中を崩壊させてしまいかねない銀星号を作ったのは二世村正、プラス善悪相殺という概念を生み出した一世村正であるし、それを操縦しているのは光です。そして、それを倒すために景明を巻き込んだのが三世村正。光を銀星号を利用して神にならせようとした動機は父親という存在であるけれど、実の父親である景明や、光が父親だと思っている所長をそうしたのは統です。統をその様にさせたのは景明に光の兄になって欲しかったという思いである。ついでに言うと、光が重病になるまで動こうとしなかった本家にも幾分かの責任がある。
こういった複雑な連鎖の中で、果たして、銀星号の卵保有者、および善悪相殺によってそれに対する存在を殺してきた景明は悪であるのか。

人を殺す者は皆、悪鬼だ。

と景明は言いますが、それはどうなのか。


それへの回答が

己のために人を殺す者は、即ち悪鬼だ。

というものです。つまり、自分の欲望として「己のため」として引き受ける。
それがラストの「悪鬼」だったのではないかと。

過去、俺が人を殺したのは──
災いを封じたかったから。
目の前の一人を殺すことで、大勢の人の死が未然に防がれると信じたから。
──だから殺した。
その原点──
己が選んだ道を思い出す。
人を殺して平和を求める。
そんな道に、俺は立っていたのだ。

という言葉は、今まで銀星号のために人を殺してきたことを己のためにするという読み替えです。自分がやりたいからやった。必ずしも全て彼の責任ではないからこそ、雪車町が言うように、嫌々ながらではなく、自らそれを引き受けなければ彼のためにやったことにはなりません。忠保の言う

忠保「雄飛が死んだことの意味です」
(中略)
忠保「でもお姉さんは……その意味を大事にして、守ってください。
せめて」
忠保「あなたはそのために、雄飛を犠牲にしたのですから」

にはならない。
最後の景明の「武帝」、善悪相殺の理を世の中に広めるというその内容自体は、事後的に意味が立てられものに過ぎないんですよね。


もちろんそれを成す事は正しくありません。倫理的な意味においても、景明のためにとっても。
過去に死んだ人のためにと言いながら、現在生きている人を殺すことが正しいはずがない。善悪相殺という理も、作品であっても全肯定されている概念かというとそうでもない訳で。
光(ひかり)が「和を以って尊しとす」と言ったCGが輝かしいものとして描かれるように、それと、そのような行いが正しく、それを教えた景明は本来的にはそうすべきであった。統の教えのように誰も殺さないよう、ほとんど不可能と思われるようなことであっても、それでも最善を目指すのが正しい。
そして、悪鬼編で村正と穏やかな生活が描かれたように、なにより景明の幸せを考えるのであればそれをすることは相応しくない。元々彼は普通に暮らしていくのが本来の姿であったはずなので。


であるけれど。景明にとっては、ラスト以外の形をほとんど選びえないのではないか。
村正を殺した(と思われた)雪車町を本当に自分だけのためには殺せず、自分が殺してきた者に対して「己のために」という形で引き受けた。そういう人がいる。武帝という存在が魔王編の最初に描かれ、光との戦いで未来に飛ばされたときに一条に過去の存在として見られるように、彼にはその在り方しかなくて、作品としてもそれを振り返るような目線で描かれています。
つまりここに作品としての価値判断はなく、ただそうあったということを群像劇、あるいは歴史的な目線で描いているのではないかと。

景明「俺は……俺の邪悪を信じる」
我が目的の為、既に幾多の命を奪った。
その事実に懸けて信仰する。
邪悪。
魂の底に溜る、暗黒を。

夕暮れの中、悪鬼として口の端を吊り上げる景明。
「事実」という言葉が出てくるように、景明にとっては自分の意思、内面というものは、それによって善性を主張するものには成りえません。事実や自分が殺してきた相手、それを悲しむ人にどう見られるかということが優先される。だからこそ、彼は悪鬼に相応しい表情をした。そうせざるをえなかった、彼の姿になんとも言い難い哀しさを覚えます。
そして、作中俯瞰的な存在がいないこの作品であるからこそ、それを見ているプレイヤーがそういった気持ちを持つべきである、あるいは持つことが出来るのではないかということがこの作品に対して僕が持つ意見です。