空気清浄者(エア・クリーナー)
・瓜生新吾

八柾山崎

えー今回は主人公の瓜生新吾について書いてみようと思います。いやまあ、おまえ毎回主人公のことしか語ってないじゃんと言われればそれまでなんですが。ただし、取り扱うのは愛理・アンジェルートの新吾に限ります。つまり、保住圭がシナリオを担当したとされている部分ですね。以下、そのつもりで読んでいただければ。

僕がこのゲームをやって思ったのは、瓜生新吾というキャラクターはきわめて現代的でひひょー的だなーということです。何に対して「現代的」で「ひひょー的」なのか。それはもちろん、ここ数年のエロゲー主人公と比較してのことです。近頃のエロゲーでは主人公というのはしばしば、ヒロインを攻略することによってヒロインたちを繋ぐ役割を担うわけです(ゼロ年代美少女ゲーム論やりたいなあ - 地質学的変動)。そして「繋ぐ」ということは人間関係の結節点、調整役となって活動すること、「常に場の空気を読んで、その維持・改善に努める」ことを意味します。なぜ彼がそんな損な役回りを引き受けるのか(女の子だらけの擬似ハーレムでウハウハ、というのは現実的に考えれば精神的ストレスの耐えない悲惨な環境であろうことは想像に難くないでしょう)。たとえば和久津智@『るいは智を呼ぶ』(ノロイ持ちのみんなで同盟してこの先生きのこるために)や星野航『この青空に約束を―』(廃止の決まった寮で思い出作ろうぜ!)のように、物語の水準でもっともらしい理由づけが用意されているゲームもあります。しかしそうでないゲームもある。先ほどの註のリンク先で挙げられている久住直樹@『月は東に日は西に』などでは、主人公がヒロインたちを繋ぐことに積極的・明確な理由がこれといって与えられてはいません。彼らはただ。なんとなく繋いでいるように見受けられる。もちろん、このような振る舞いにはシステムレベルではプレイヤーの欲望とかストーリーの面白さとかにのっとった、合目的的なものとして正当性を付与することができます。しかし物語レベルにそれがない、となればツッコミを入れる余地が出てくる。そしてここで、瓜生新吾というキャラには後者のゲームに対してツッコんでる、問題意識を発揮しているように見えるわけです。彼が終始場の雰囲気のメンテナンス役として振る舞うのはただ単に空気が悪いのが許せないからだ、ということはゲーム中再三にわたって強調されます。彼にはヒロインをオトしたいとかクラスカーストの頂点に登りつめたいとか、そういった目的意識や野望のようなものがあるわけではない。にもかかわらず空気を読む。ときに自身を犠牲にしてまで場の雰囲気を良好に保とうとする。その結果としてヒロインたちとの友人グループが、仮統合クラスが繋がれてしまう(彼の存在なくしてはグループは成立しえませんでした。とりわけ、他学年である桜乃やみう先輩が輪に加わることはなかったはずです)。これははっきり言って人間の在り方として異常でしょう(とはいえ、異常であるがゆえに現実に一定数存在する人格なのですが)。なぜこのようなキャラクターが主人公として設定されたのかと考えたときに、ワケもなく空気を読んで人間関係を最適化する完璧主人公に対するひとつのアンサー、批評として組み立てられたのだといえるわけです。なぜそんなことをするのか→そうせずにはいられないという「歪み」を抱えているからだ、と。ゆえ、瓜生新吾というキャラクターは、「とにかく空気が悪いのが耐えられない」とやらいう、幼少時に患った喘息とそれに付随する家族への申し訳なさに端を発する、ヒロインに「病的」とまで評される強迫観念じみた渇望を抱えさせられているわけです。

ところでこれは余談ですが、上に挙げた後者と『ましろ色シンフォニー』の関係は、ちょうどここしばらくの「正義の味方」の取り扱われ方とパラレルにあるとも言えるでしょう。「誰もを救いたい」という意思を持って、それを貫くこと、それ自体が既に病気である。っていうか、現在においては、道徳も良い事も徳も(その結果や意味や価値も)自明じゃないんだから、それを無前提に貫くなんて”おかしい”わけです。そのような発想に乗ったところに、おそらく衛宮士郎@『Fate/stay night』、阿良々木暦@『化物語』、ギー@『赫炎のインガノック』、藤井蓮@『Dies irae』のような、周囲からその異常性を幾度も指摘されてなお止まることのない主人公たちがいるのではないでしょうか。

閑話休題。さて、このように歪んでいる新吾の在り方は果たしてどうなるのでしょうか。そこで出てくるのが、これまたエロゲーの現代的な要素である「ヒロインとの関係の中で相手の問題だけでなく主人公自身の問題も解決される」過程です(具体的な例としては『ef -a fairy tale of the two.』『StarTRain』『ユメミルクスリ』『Clover Heart's』など)。本作の個別ルートはいずれも各ヒロインの問題と新吾の問題が相互的に解決される場となっています。ここで強調したいのは、問題の解決とはすなわち解消を意味しないことです。たとえばアンジェルートでは、新吾の極端に自己犠牲的な「気遣い病」もアンジェの「メイド病」も、結局は治癒することがありません。本編から数年後とされるエンディングの時点でも相変わらず新吾は空気を読み続けますし、アンジェは人前でヘッドドレスを外されると泣き叫んでしまうはずです。しかしそのことは問題とされない。重要なのは、アンジェが新吾の手助けを得ながら自分の中で「メイド」というものを肯定的に捉え直し、彼と「旦那様‐メイド」の関係になることで互いに手を携えあって生きていけるようになる、ということです。これは新吾についても同様です。この点、新吾の空気読み病も愛理の「変化を恐れる病」もすっかり片付いてしまう愛理ルートとは対称的だといえます。

ヒロインたちを繋ぐ主人公の振る舞いが解決すべき異常なものとして取り扱われ、しかもそれがヒロインとの関係を通して全面的に解消してしまうわけでもない。歪みは歪みとして抱えたまま生きていく。以上二点において、『ましろ色シンフォニー』は現代的・ひひょー的なゲームだといえるでしょう。