「合作」ではなく
「競作」だった
『ましろ色シンフォニー』

もりやん


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いきなりですが、Wikipediaからシンフォニー=「交響曲」の説明文を引用してみましょう。

交響曲(こうきょうきょく)は、主に管弦楽によって演奏される多楽章からなる大規模な楽曲。シンフォニー(英:symphony、独:Sinfonie, Symphonie)、シンフォニア(伊:sinfonia)とも呼ばれ「管弦楽のためのソナタ」である。
原則として4つ程度の楽章によって構成され、そのうちの少なくとも1つの楽章がソナタ形式であることが定義であるが、特に近現代においては、例外も多い。
(交響曲 - Wikipedia)

そう、シンフォニーは、同一のテーマを持つ四部構成の楽曲なのです。となれば、これは愛理・アンジェ・桜乃・みうという計4本のシナリオによって成る、大きな構造をも意味していそうです。
本作は、4本のシナリオを、3人のシナリオライターが分担しています。担当は以下の通りです。

面白いのは、各シナリオライターによって、テーマの扱いが大きくことなることです。『ましろ色シンフォニー』に基づく明らかな共通テーマがありながら、その「変奏」は全く異なるものになっています。
本稿では、どういったテーマが共有されているか、そしてどういった「変奏」が行われているのかを検討していきます。

本作の共通テーマ

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『ましろ色シンフォニー』というタイトル。これは、本作の物語上におけるテーマとして、明確に意味付けされています。これが表れているのがプロローグの独白です。

そんな二人が出会ったらーーその間はいったい何色なんだろう。
きっと、うん。
まだまっしろ。
設えられたキャンバスのように。
”これから”の色をしてる。
だからきっとーー恋の色は、しろいいろ。
二人の色で染めてゆける、
無垢で、純真なしろいいろ。

要するに、このタイトルは男女の恋愛を表現しているといえそうです。
ここでいう「恋愛」は、概ね以下のように定義できます。

そして、もう一つ確認しておきたいのは、エロゲーで恋愛を表現するのは、意外と難しいということです。
エロゲーをごくごく単純に表現すれば、「ヒロインを攻略するゲーム」だといえます。つまり、基本的にエロゲーでは、主人公からヒロインへの一方的な働きかけしか描くことができないということです。
そのため、いわゆる葉鍵以来、「純愛系」と呼ばれる作品群では、ヒロインとの恋愛関係を構築することより、ヒロインの抱えた問題を解決することにシナリオ上の重点が置かれてきました。これは、葉鍵がそういうスタイルで成功した影響もさることながら、ゲームシステムに対して恋愛よりも合理的であるからなのです。
また、カップル成立後の恋愛描写――いわゆる「いちゃラブ」については、もっと直接的な問題が存在します。漫画や小説、テレビアニメやドラマにあるようなシリーズもの作品とは異なり、エロゲーは単発ものです。従って、自然な展開では、カップルが成立した時点でストーリーが完結してしまいます。
こういった、エロゲーにおける恋愛描写につきまとう問題についても、ライターごとに異なった回答が見られます。

コミュニティ

シンフォニー=交響曲というワードに注目してみれば、主人公とヒロインのカップルだけでなく、周囲の人々との関わりも――オーケストラのように――取り挙げられることが想定できます。
序盤の共通シナリオにおいて、コミュニティに関する事柄として真っ先に登場するのが、学園統合です。新吾・桜乃・隼太らが通う各務台学園が、愛理・アンジェ・みう・紗凪らの結姫女学園に統合されることとなり、そのテストクラスの一員として各務台の面々が結女に通うことになる――というのが、物語の始まりです。いわば、『グリーングリーン』の逆パターンですね。
文化的素地の全く異なる両校生徒の間に起きる摩擦を解消しようとする新吾の努力が、序盤の軸となります。
ついで、主人公の属する友人グループが明確に形成される、愛理の部屋イベントがあります。これは結女における統合反対派の急先鋒であった愛理の態度が軟化するきっかけになるとともに、秘密を共有するグループを周囲と線引きすることにもなりました。
かわいそうに椋梨君はここに含まれていません。男性サブキャラの悲哀ですね。とはいえ、彼はグループの一員として日常シーンに登場するのみならず、新吾の親友として各ルートで重要な役割を果たすことになります。
また、人間関係が主人公を中心とした放射線状ではなく、ヒロイン同士の関係も含むネットワークになっていることも本作の特徴です。裏方気質の新吾より、押し出しの強い愛理の方がむしろ中心人物といえるほどで、愛理は紗凪を含むヒロイン全員と新吾を介さない関係を持っています。みうとの繋がりは、ぱんにゃに懐かれているだけのようですが。

主人公のトラウマ

『Fate/stay night』以後、シナリオゲーの定番となったトラウマ持ち主人公。本作の主人公・瓜生新吾も例外ではありません。
彼は、かつて喘息に苦しんだ経験から、「空気が悪いのに耐えられない」という強迫観念を抱いています。ここでいう「空気」は物理的なものではなく(恐らくそれも含むのでしょうが)、いわゆる「場の空気」を指します。
このため、彼は常に「空気を読んで」周囲に気を遣い、良好な人間関係をもたらしています。一方で、本人は大きなストレスを受けてしまい、また空気を読むゆえにそれを表に出せないという問題にも繋がっているのです。
ヒロインの抱える問題=トラウマを解決することがエロゲーシナリオの定番であることはすでに述べました。こうした物語の「主役」は、プレイヤーの投影としての「主人公」である人物から外れ、実質的にはヒロインになっているともいえます。そこで、主人公にもトラウマを与えることによって、主人公自身の物語を立ち上げるのが、この手法の基本的な意義です。
従って、強迫観念からいかに新吾を救うかということは、本作の物語において重要なテーマとなっているのです。

各シナリオでのテーマ展開

以上のように、本作のテーマは大きく三つが挙げられます。

本章では、各ヒロインのシナリオで、この三つのテーマがどのように「変奏」されているのかを検討します。

愛理

メインライターである保住圭担当の愛理・アンジェシナリオでは、非常にスムーズなテーマの展開がなされています。

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愛理は、新吾に対応するように、強迫観念を抱えた人物として描かれています。一つは、母・蘭華の破天荒な性格に振り回された経験から、極端に変化を恐れること。学園統合に反対したのはこのためですね。もう一つは、蘭華に反発して一人暮らしをしていることから、自分は「ちゃんとやれる」、理想的な自己像を演じていることです。
先述の通り、エロゲーにおける恋愛描写にはいくつかの越えるべきハードルが存在します。そのうち、「主人公からの一方的な働きかけになってしまう」という点については、主人公とヒロインが互いに相手を救おうとすることによって、恋愛と結びつけられています。
新吾に気を許し、恋仲になることによって、愛理は理想的な自己像の強迫から逃れます。そして、自分を安心させるために常に緊張を強いられている新吾の姿に気付いたとき、自分もまた相手を安心させられる存在でありたいと願うようになるのです。
こうして、二人は恋人のため、そして恋人の影響によって変化して、恋愛という「新しい関係」が始まることになります。元々学級委員として、仕切りの愛理・フォローの新吾という優れたコンビネーションを発揮していた二人ですが、私生活においてもパートナーとして、互いに支え合い、補い合う関係となるわけです。
これはまた、「カップルが成立した時点で物語が終わってしまう」という問題への解答ともなっています。恋愛開始当初は二人の関係は完成ではなく、愛理に新吾を受け止められる度量が備わって初めて、幸福な関係が成立することになります。従って、その過程でいちゃいちゃを描くこともできるわけです。
恋人同士は結ばれただけで終わりではなく、その先にこそ無数の困難と喜びが待っている――これは、『こいびとどうしですることぜんぶ』とも共通する、恐らく保住圭の信念とも呼べるものです。

コミュニティ

グループ内では、重要なのは桜乃です。愛理の親友であり、新吾をよく知る者として、キューピッドとして振る舞うことになります。兄への淡い慕情を押し殺して愛理を励ます桜乃は健気でよかったですね。
また、そもそもこのグループは「愛理を見守る会」のようなものなので、徐々に角が取れてゆき、しまいにはデレッデレになる愛理を生温かく見守ることになるのは当然ですね。
加えて、学園統合推進のための署名集めが終盤の軸となるのですが、これはカップル成立後のセカンド・クライマックスとして機能しているだけでなく、二人の関係が周囲に承認・祝福されるための通過儀礼ともなっています。署名集めの過程で生徒たちに、そして集めた署名を渡す際には結女の学園長である蘭華に、二人の関係が前向きなものであることを認められるのです。
最終的には愛理と蘭華の親子関係も改善され、再び同居することになります。単に愛理のトラウマが払拭されるという筋ではなく、社会との関係を改善していく大きな流れの中で親子関係も修復される、というのがこのシナリオの特徴です。

主人公のトラウマ

新吾の救済は二段階で行われています。
まず、愛理に恋したことによって、無条件に誰にでも気を遣い続ける状態ではなくなります。しかし、これは悪く言えば視野狭搾、つまり対象が愛理一人になっただけであって、根本的には解決していません。
さらに、愛理が新吾にとって真に気を許せる、安心できる相手になることで、初めて新吾は救われることになります。気遣いを忘れるということではなく、メリハリがついて過剰な負担なく振る舞えるのが、この関係の美点ですね。

アンジェ

ライター陣で唯一、二人のヒロインを担当。そのため、愛理シナリオとアンジェシナリオは非常に似通っています。

この手法は、完全に共通です。

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アンジェの抱える問題も、二段階に分かれています。

アンジェは、新吾の強迫観念が常に彼を追い詰めていることに気付き、彼を救いたいという願いを抱くことで、新吾を仕えるべき主として見出します。つまり、二人の関係は最初から相互的なものです。
しかし、愛理に比べても明らかに病的なアンジェは、新吾との関係においても複雑な試行錯誤を繰り返すことになります。最終的に、互いが互いを素直な気持ちで求めることが、二人にとっての「旦那様」と「メイド」である……といった塩梅で、関係は安定します。

コミュニティ

アンジェシナリオでも、桜乃がヒロインのアドバイザーとなります。ただし、親友であった愛理の場合と違い、家事で競合するアンジェに対しては、当初は敵対的な態度でしたが。
出会いのきっかけとなった学校への恩返しとして、全校を巻き込んだクリスマスケーキ作りが行われます。終業式で、二人は疑似結婚式として、全校生徒とアンジェの保護者である蘭華に祝福され、「入刀」を披露することになります。この辺りは愛理シナリオと完全に符合していますね。
アンジェシナリオの特徴としては、まず、学内での業務に忙殺されるアンジェを新吾の家に送り出すために、愛理と隼太を中心とし、委員会が立ち上げられることです。
さらには、エピローグで、アンジェに憧れてメイドを目指す後輩のため、メイド部が、ついでメイド学科が立ち上げられ、二人が教師として母校に帰ってくることが描かれています。
カップルの間だけでなく、コミュニティとの間でも相互に影響を及ぼすわけです。それが常に組織的な運動であるのが面白いところです。

主人公のトラウマ

アンジェがかなりぶっ飛んだ人格の持ち主であるだけに、対する新吾もこのシナリオでは「歪み」を指摘されています。明確に問題視されているわけです。
しかし、この「歪み」は、新吾もアンジェも、なくなることはありません。それは長所にも繋がっているし、人格に根深く結びついているために、直すことはできないのです。アイデンティティを失うのではなく、互いや周囲との関係変化の中で、前向きに捉え直すという方向で描かれています。

桜乃

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桜乃シナリオは、古典的なインセストタブー(近親相姦禁忌)を扱っています。とはいえ、桜乃は義妹ですが。
互いの好意は早い段階で認識されますが、兄妹という関係が恋愛の障害となります。つまり、結ばれないことによって、恋愛を描いているのです。むろん、元々ただの兄妹として過ごしてきた二人の関係は、恋人同士という新たな局面を迎えることになります。
しかし、桜乃シナリオでは、他のルートのような、男女の相互影響による変化が見られません。これが少々退屈な印象を与える原因でしょう。

コミュニティ

このシナリオでは、いわゆる幼なじみもの・姉妹もので見られるような、「身近な存在であるゆえに恋愛対象として見られない」という問題はあまり重視されていません。
その代わりにクローズアップされているのが、近親相姦の社会的禁忌という側面です。これは、互いの好意のみではなく周囲との関わりによって成立する、本作の恋愛観に即したものです。
特に、両親に対する負い目が重い意味合いでもって描かれています。父母の許しがなければならないという二人の考えは、なかなか真面目で好感が持てるところです。とはいえ、あまりにあっさり許されてしまうのが拍子抜けですが。まして電話で報告するのはどうなんでしょう。蘭華とは対面だったわけで、両親にはこのシナリオ限定で帰国してもらった方がよかったように思われます。
本人のシナリオとは逆に、愛理が桜乃の相談相手となっているのは順当な処理です。もちろん、毎度のごとく新吾は隼太に悩みを打ち明けるわけですね。このように、両親や友人との関わりにはそれなりに気を遣っているのですが、最大の問題は学園に対してです。
義理の兄妹である以上、法律的には二人の恋愛関係は罪とはならないわけですが、それが社会的禁忌であることには変わりありません。学生にとって社会とは学園に他ならず、そこで二人の関係がどのように受け入れられるのかを描かずして、この物語は完成しないといっても過言ではないでしょう。
ところが、このシナリオでは学園統合は破談となってしまい、そもそも社会そのものが崩壊してしまいます。もちろん統合がなくなったからといって学生生活が終わるわけでもありませんが、このイベントによって実質的にそれを描くことは不可能になってしまっているのです。
さらに最悪なことに、二人はわざわざ校内で性行為に及んでしまいます。はっきり言ってこれはない。シナリオ全体を台無しにしてあまりあります。
いちおう、特別クラス解散で結女を去る前の思い出作りみたいな理由付けはあるんですが、修学旅行で文化財に落書きする学生じゃあるまいし、変な液を残してどうするのかと。社会に対するけじめってものが頭からすっぽ抜けている。なまじ、背徳感を楽しみたいだけの理由でないだけに筋が通らないでしょう。

主人公のトラウマ

描写なし。

みう

経歴的には外様なだけに、4つのシナリオの中でも一際異彩を放っています。良くも悪くも。個人的には、一番面白い「変奏」だと思います。

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みうシナリオは実質紗凪シナリオだとはしばしば言われるところですが、このシナリオの「恋愛」要素を象徴するのがサブヒロインの紗凪です。みうシナリオは新吾・みう・紗凪による三角関係を軸に展開します。
そもそも、恋愛をテーマにした創作において、三角関係は必須のものといっても過言ではありません。結ばれないからこそ強調される好意、ただ一人の相手を選ばなければならない近代的恋愛の宿命、恋敵の存在によって加速する恋の駆け引きなど、三角関係にはラヴストーリーの精髄が詰まっています。
これがエロゲーであまり見られないのは、ヒロイン攻略というゲーム性にそぐわないからに他ならないのですが、そうした「剰余」であるがゆえに「攻略」を超えて「恋愛」を描く上で非常に効果的なのです。この手法は紗凪が「攻略」と切り離されている方が有効であり、その意味で紗凪シナリオはない方がいいのです。
新吾とみうの関係自体は、愛理・アンジェシナリオと同じように、互いが互いを救おうとする相互的関係として描かれています。しかし、本編の大部分を占めるのはセックス描写であり、相手を救おうとする「努力」が描かれることはほとんどありません。
これは、おるごぅる得意のサルカップルを書きたかったということも当然あるでしょうし、みうが持つ包容力の表現でもあるでしょう。努力と訓練で作られたメイドであるアンジェが、天然でメイド=気回し屋のみうに対抗心を燃やすシーンに現れているように、みうが新吾を癒すためには特別の努力や決意は必要ないようです。逆に、ぱんにゃ関連のイベントで、みうを支えていこうとする新吾の決意はしっかり示されています。
かように類を見ない順調なカップルである新吾とみうを脇目に、自分が抱く慕情と、その相手がすでに奪われていることに気付いてしまった紗凪の苦しみを描く筆致は執拗なほどです。二人が幸福であるほどに紗凪の報われなさが際だち、エロシーンの裏で切ない心中を吐露する紗凪を描くに至っては、明確な意図の元に紗凪いじめを行っているようにすら見えます。
いっそ露悪的ですらある書き筋ですが、これもまた恋愛のひとつの姿ではありますし、ストライクゾーンぎりぎりをかすめるような解釈は「変奏」としては刺激的です。
ただし、紗凪がほとんど最初から諦めてしまうのは少々稚拙に感じられます。また、新吾は紗凪の気持ちに最後まで気付きません。修羅場を描く必要まではありませんが、この構図であれば、みうと紗凪については、いわゆる「友情と恋愛の狭間」を描くのがセオリーです。新吾も、紗凪に多少なりとも異性としての魅力を感じていたほうが、なぜか母親相手に発揮されていたみうの嫉妬深さが活きたのではないでしょうか。
紗凪個人にスポットライトを当てる意図があったのかもしれませんが、どうも、エロゲーという文化自体にラヴストーリー作りの経験がないことで起こった失敗のように思われます。話運びの稚拙さは他のシナリオにも感じるところですが、三角関係のセオリーが意識すらされていないような筆致は、特にそうした印象を与えるものです。

コミュニティ

紗凪の存在は新吾とみうが恋愛する上で全く意識されません。せっかく周囲との関わりの中で恋愛を描こうとする方向性が見えるのに、友達グループの中で付き合うことの最も直接的な問題を流してしまっているのはもったいないことです。
紗凪が失恋を乗り越える上で、愛理が助けになっているのは例のごとくですが、この場合に限っては、愛理が新吾に怒りをぶつける展開のひとつもほしいところですね。
面白いのは、友達グループのあり方が、共通ルートで構築され、他のシナリオではそのまま継続しているいわば「愛理グループ」から、みうを中心とする「ぬこ部」に変わっていることです。これがなければ紗凪が新吾に好意を抱くことも、それ以前に距離が縮まることすらなかったでしょう。愛理やアンジェも緊張感から解放されたようにキャラクターが崩壊していて、普段とは違った姿を見せてくれます。
また、ぬこ部の廃部騒動を通じて、グループ→学園→外部社会というコミュニティの入れ子構造を描いているのも特徴的です。恋愛以前に、人と人が付き合うことは当然「社会的」な行為だということですね。もはやエロゲーも学園統合も関係ねえですが。
ここで隼太が、本意ではないにしても「学園側」の人物として振る舞うのは、愛理グループからぬこ部への移行に伴うものです。部員最後の椅子を愛理にさらわれた隼太が悲しい。

主人公のトラウマ

みうが新吾を救うためにぬこ部に誘ったというエピソードはあるものの、最初からなかったかのように消え去っているのはさすがに違和感を覚えます。
もっとも、紗凪がそこに全く気付かなかったことが、みうとの決定的な違いであったと考えれば、その重要性はむしろ大きいといえるのかもしれません。新吾がみうに夢中になるほどに、紗凪が見えなくなっていくのも、また皮肉であって。
愛理・アンジェシナリオでは、新吾が先にヒロインを救おうとするのに対し、すでに救われた新吾が改めてみうを支えようとするのも面白いところです。愛理・アンジェに対する新吾の態度は強迫観念と区別しがたく、そこがまた面白いわけですが、みうとの非常に(性的な意味以外で)健全な関係も新鮮に感じられます。
悲しい思い出を抱えつつ、それに押し潰されずに生きているみうの人物像も面白い。そういう人だから支えたいという紗凪に新吾が共感するのもわかります。
つまり、病院行けと言いたくなるエロゲーヒロインや、それに負けない「個性」のある主人公には共感しづらいわけで……なんというか、身も蓋もないですね。本当だからこそ言っちゃいけないこともある。パンクにも程があります。
このように、みうシナリオにおけるテーマへのアンサーは、かなり独特なものです。空気読めてないわけではなく、むしろわかっててやってる気がするのですが。

「競作」の面白さ

ここまで、本作のテーマが多様な展開を見せていることを確認してきました。テーマそのものは共通するだけに、ともすれば「統一感がない」という悪印象にも繋がりかねないでしょう。
しかし、大規模な作品では必然ともいえる複数ライター体制においては、キャラクター性やテーマ解釈のずれは、程度の差はあれ必ず起きるものです。そこで可能な限りずれをなくすのもディレクターの正しい働きですが、逆に差異を許容し、違いを楽しめるような作品作りもまた正解の一つではないでしょうか。一つの終着点を見据えた「合作」ではなく、それぞれの解釈を比べる「競作」として捉えることで、本作はその魅力を最大限に享受できます。
複数のシナリオを通じて大きなテーマを表現するものが「組曲」だとすれば、小さなテーマの多様な展開が一つの作品を構成する「交響曲」が、『ましろ色シンフォニー』といえるのではないでしょうか。
一見ありきたりにも見える本作ですが、そういう意味ではなかなかに挑戦的なアイディアを盛り込んだものです。本作が「競作」の完成形とはいえませんが、面白い可能性を見せてくれたと思います。