既知感は打破されたか
〜涼宮ハイドリヒちゃんの流出〜

紅茶の人

 この作品を語る際、しばしば既存の何某と世界観が似ているなどと言われることがある。
 それをさしてやや自虐的に「既知感」がどうのこうの、と言うこともあるようだ。
 しかし、顧みればまず正田崇自身の前作として、ほぼ同じテーマを扱っているParadise Lost(2004)があるのだ。パラロスとDiesは世界観がある程度連続している、とは正田自身の語る所でもある。
 故に、それ以外でさらに直接影響を及ぼした作品を敢えて求めるとすれば、最低限パラロス以前に遡るべきではないか――そう僕は考える。

 とりあえず思いつくのはこれくらいか。この中で人物配置等が一見一番似ていると思われるのはトリニティ・ブラッドだが、当時はそのトリブラ自体が様々な作品(例えば「トライガン」であるとか)の影響を囁かれたのも今となっては懐かしくもある。
(今気づいたけどグリマルキン+バラライカ→ザミエルだよなあ、とか。広江氏の影響は結構大きいのかもしれない)
 さておき、ここからさらに遡れば「魔界転生」であったり「エイリアン黙示録」であったり「キマイラ」シリーズであったりするかもしれないのだが、後で述べるように僕自身は元ネタが何であろうとどうでもいいのだった。
(一例を挙げれば螢ルートのエピローグなどは極めて菊地秀行的、もっと言えばハリウッド映画的である)

「燃え」に求められるもの

 僕が常々物語を、そしてノベルゲーを読む際に一番重視しているのは何かと聞かれればそれは構造や元ネタのオリジナリティではない。勿論それがあまりに杜撰であれば楽しめないが、基本的にはテキストが良ければ楽しめる、という考えの人間だ。
 そうした観点からこの作品を見たとき、ナチ残党、ループ世界、神との戦いなど、個々のパーツ、プロット自体はありふれたものと言って差し支えない、とは僕も感じる。
 その上で、この作品を特別たらしめるものが何かと問われれば、やはりそれは一にも二にも語り口調なのだと思う。
 パラロスでもジューダスの口上やリル、アストの詠唱が話題になったように(無論それにも「ホノリウスの書」などの元ネタは存在するわけだが)、燃え作品としては陳腐とも切り捨てられかねないプロットに強度を与えているのはまぎれもなく正田崇の管理したテキストであり、2007年版が物足りなかった最大の原因もそれ――すなわち正田の不在にあったのだと僕は思う。
 つまるところ燃えとは物語そのものとは本来あまり関係ない、と言えるのではないか。
 それは関係性の軋みの中で生まれるそれぞれのキャラクターの生み出す炎、その炎をいかに熱っぽく描写出来るかというテキストの問題なのではないか?
 さて、その上でなお構造によってより増す「燃え」があるとすれば、本作におけるそれについて考えてみたい――が、その前に一つ。

閉じた物語

 Diesにおいては永劫回帰という一種メタな構造が取り入れられている。
 この構造の中で、2007年版ではパラロスのサタナイルのように「神に挑む者」に近い存在だったメルクリウスはファーブラで文字通りの作中神になり、半ば道化でしかなかったラインハルト・ハイドリヒ――黄金の獣は替わってサタナイルと同様の神に挑む剛毅さをより強調された。
 しかし、この二人のラスボスのキャラの強烈さは一方で「神に挑む者」としての主人公たる蓮の存在意義を若干希薄にした感は否めない。
 メルクリウスの代替、すなわち神の手駒としての蓮が強調される場面も多いため、神の視点を持って物語を進めるプレイヤーは時に主人公よりラスボスであるメルクリウスに強制的な感情移入を迫られる場面もあったりする。
 では、こうした構造の下においてDiesはメタな物語として外部へ解放されていると言えるだろうか?
 メタゲーにおいて、神に挑む者としての作中人物の言葉はしばしばプレイヤーに向けられるものと読み替えることができる。最近では「俺たちに翼はない」などにおいてそれは顕著だ。
 しかし、作中に神を置いてしまった場合は、神に対しての言葉はあくまでその作中神に対してのものとして収束させてしまうことが出来る。つまり、「メタ構造をあらかじめ内包した物語」というもう一つの枠内に収まってしまうということだ。
 そう見た場合、Diesは従来のメタ構造を取り入れた作品と比較した場合、メルクリウスの存在により自己言及的な要素を作中に止めることによってより「閉じた物語」を志向していると言えよう。プレイヤーをセカイの中に完全に取り込むことをせず、あくまで観客の位置に止めようとする姿勢がそこには見える。
 作中神は自らの手で作品の幕を閉じる――さもあらん。そもそも「Acta est Fabula」はアウグストゥスが己の人生を顧みて劇とし、自ら幕を引くために放った言葉なのだから。

既知感を打破するための試み

 しかし――「閉じた物語」として見た場合、ここで問題が生じる。
 Dies完全版は周知の如く複雑な成立過程を辿っている。
 そのため前述の如くテキストに多くを負う燃えゲーでありながら、肝心のテキスト自体にいくつかの弱点を抱えることになってしまった。具体的には声の取り直しなどによる不整合や読み間違いのチェックが不完全であること、またシナリオの修正自体にも一部で不整合が見られること、などが挙げられるが、ここで重視している「燃え」にとっての一番大きな問題は四つのルートが「香純・マリィ」「螢・玲愛」と二度に分けて提供されたことによる「クライマックスの分散」である。
 結果、全員が満足できるルートはこの物語に存在しなくなった。
 玲愛ルートは確かに謎解きとメルクリウスに引導を渡すという意味においてグランドルートの名にふさわしいが、しかし蓮のあのザマはどうか。
 ニート大勝利(なんと圧倒的な楽園!)で終わるあのエンドで果して「燃えゲー」として愉しもうとした向きが爽快感を得られただろうか?
 僕自身は獣殿や騎士団連中の漢っぷり(あるいは姐御っぷり?)を充分に愉しんだが、さりとて蓮=主人公が最終決戦をただの傍観者として見るしかない、という状況はやはり肩すかしだったと言わざるを得ない。
 顧みて香純ルートはどうか。
 後味の悪さのせいで前座扱いされてはいるものの、それぞれの登場人物自体はそれなりに自らの生を全うしたと言っても良い扱いを受けている。
 マリィルートもまた然り。確かにほぼ皆殺しエンドだったとは言え、出演した全員にしっかりと見せ場はあったし、獣殿と三騎士との最終決戦は文字通りアドレナリンの噴出する展開目白押しであった。
 それ故「燃え」という観点から見ると中継ぎの「Dies irae Also sprach Zarathustra-die Wiederkunftkunft」でブラッシュアップされたこの二ルートはほぼ文句なしの出来映えだったと言える。
 しかし、後に作られた螢と先輩ルートではそれらと「同じ展開」を用意するわけにはいかなかった。だからこその「俺たちの戦いはこれからだ」エンドでありニート大勝利エンドだった、とは言えないか。
 分割されて発表された故にプレイヤーの「既知感」を避けるための処置は過剰に必要となった。それ故、「全部詰め込んだルート」というのは存在できなくなってしまった。
 それはヒロインに個別の物語を提供するという点では非常に正しいのだが、同時に単体で見たときそのルートは真に魅力的だったのか?という疑問を残すこととなった。

永劫回帰がもたらしたもの

 そう考えると、「燃える話」というものを複数ルートのノベルゲーで提供するに当っては、常に難しい舵取りが必要なのだとは思う。11eyesやプリンセスワルツのように「ヒロインが違うだけで筋はほぼ同じ」話がしばしば燃えゲーに見られるのは故無きことではないのだ。たぶん。
 過去最大限に成功したと呼べる「斬魔大聖デモンベイン」ですらライカや瑠璃ルートの読後感は微妙だったりする。ただ、「デモンベイン」はアル・アジフを明確にメインヒロインとすることでそれが「正史」であるとすることができた。それ故プレイヤーはサブヒロインルートの読後感は忘れることができた。
 (FATEや月姫はやってないので言及は避ける) 
 しかし、残念なことにDiesにおいては突出した魅力を持つヒロインが居ない。
 幼馴染みだったり女神だったり先輩だったり馬鹿だったり、という特性はそれぞれ魅力的ではあるが、それが彼女らに特権を与える事は無い。
 僕自身は螢が大好きなのだけど、彼女の魅力はヒロインというよりむしろ敵役や駄目な味方キャラとしての部分に拠るところが大きいのであって、その意味では個別ルートより他ルートでの彼女のほうが輝いていたとさえ言える。
 ……いいすぎ?
 さておき、それ故どのルートもその重みは等価である、と見ることは可能であって、そしてそれこそがマリィルートや先輩ルートですら正史と呼ぶことを躊躇わせるのだ。
 永劫回帰はその設定によりルートの順番を自動的にプレイヤーに予測させてしまう。
 すなわち香純→螢→マリィ→玲愛という流れだ。
(マリィ→玲愛には異論もあるようだし、個人的にもこの→はあまり納得したくはないのだが)
 しかし、逆に言えば順番があるということは「どれも実際にあった」ということでもある。
 パラレルワールドの話を「なかったことにして忘れる」という選択は僕たちには無いのだ。
 だからこそ「クライマックスの分散」を僕たちは受け入れざるを得ず――そしてそれ故に不完全燃焼をずっと抱えることになる。
 そして「閉じた物語」であるが故に、そこから先の解放はどこからも与えられない。
 最後の大団円はある。良い終わりを迎える物語も、そうでない物語もある。しかし、最初から全てを包括して大団円にたどり着く物語はない。
 Dies iraeという作品を僕は愛している。
 その上で、僕がなお釈然としないものを感じているとすれば、それは恐らく上記のような理由によるものだろう。

終わりに

 これから出るドラマCDでは玲愛ルートのアフターが語られるという。
 それはそれで今度こそ良き大団円を描くものになるのだろう。
 2007年版から「Acta est Fabula」に至る流れの中で何度も既知感を味わった身としてはまさに「見たかった未知」の筈だ。
 しかし、全てが未知だったころの高揚は既に僕の手の届かぬところにある。
 だからこそ、これから事前の情報無しに「Acta〜」をプレイする人は幸いである――そう思うのだが、そう言う人にとってはこの文章こそが他ならぬ「事前の情報」なわけで。
 ままならねーですね、ええ本当に。