『Dies irae』は
本当に
「燃える」のか?

もりやん

「燃え」には感情移入が必要である

「燃え」とはなんだろうか。同音異義語である『萌え』と同じく、説明は難しい。しかし、それが作品の受け手(プレイヤー)の感情を大きく揺らがすことを意味するとして、大筋間違いはないだろう。
プレイヤーの感情を動かす上では「感情移入」が重要になってくる。これまた便利に使われる一方で定義があやふやな語であるが、ここでは「物語を我が事として捉えること」と考える。海の向こうの知らない人の身に起こる悲劇に涙する人が少ないように、ただでさえ絵空事である物語がさらに他人事であれば、そこで登場人物がどんなに激しく感情を振るわせようと、プレイヤーの感情が一緒に動くことはない。
エロゲーの主人公がしばしば無個性なのは、不特定多数のプレイヤーが主人公に「感情移入」し、その身に起こる出来事を「我が事」として受け取れるための配慮である。そこで語られる物語がどういった色合いのものであろうとも、プレイヤーを感動させるためにはまずこの「他人事」の壁を破らなければならない。
そうした観点からみて、本作はどのように評価されるだろうか。
本作の主人公・藤井蓮は、取り立ててエキセントリックな性格をしているわけではない。危地に臨んで異常に冷静であるという個性付けはされているものの、それはむしろ「透明」な印象を与えるものだ。設定上、単なる「平凡な学生」でこそないが、性格面において、いわゆる無個性な主人公の枠内に収まるものとしてそれほど問題はなかろう。
しかし、実際にプレイヤーが『Dies irae』の物語を「我が事」として受け取るには、無視できない問題がいくつかある。

すでに崩壊している日常

「感情移入」を可能にする仕掛けとして重要な意味を持つのが「日常」だ。そもそもフィクションには読者が経験し得ない非現実性がしばしば求められる。エンターテインメントであれば特にそうだ。しかし、それは「感情移入」の難しさをも意味する。
そこで、「平凡な少年が、大事件に巻き込まれる」類型が有効になってくる。我々が実際に体験しており、共感できる背景を持つ人物が、非現実的な事態に直面するという筋立てである。若者向けフィクションの多くで主人公が学生に設定させるのはそのためだ。
その点、藤井蓮は確かに「平凡な学生」ではあるのだが、物語開始時点での彼は少々特殊な状況に置かれている。親友・遊佐司狼と大喧嘩をやらかし、派手な殴り合いの末に入院しているのだ。
この出来事自体は、読者の共感を妨げるものとまではいえないかもしれない。しかし時期が問題となる。彼にとっての「基準」となる日常はこの事件の前の状態であるから、我々は主人公の人格的ベースとなる日常を体験できないままに非現実的な事件に向き合わなければならない。
ヒロインの一人にして蓮・司狼の幼なじみである綾瀬香純は、本来なら「日常の象徴」となりうる人物であるが、最初から司狼を欠いている香純の「日常」は、そうした力を持ち得ない。むしろ氷室玲愛のほうがそれらしいくらいだ。
いや、蓮本人の認識としては二人ともが彼の日常に不可欠の人物だという反論もあろう。実際、設定的にも香純と玲愛は一組のキャラクターといえる。しかし、いかにも日常サイドの匂いを漂わせる香純が機能不全に陥り、その役目を横から奪いかねない玲愛が存在することによって、そもそも蓮の「日常」がどういった姿をしているのかがわかりにくくなっている。これでは蓮への「感情移入」も難しくなろうというものだ。

主人公の動機不足

ここまでは、主人公がニュートラルであるかどうか、という点について書いてきた。しかし、主人公とプレイヤーが同一人物ではない以上、いかに平凡なクセのない人物であろうと、それは「感情移入を阻害しにくい」ことを意味するにすぎない。
「感情移入」に対して積極的な効果を発揮するのは主人公の動機である。主人公とプレイヤーの状況に対する意志が重なったとき、その行動の帰結がプレイヤーの感情を揺さぶる下地ができる。
そして、蓮の主要な動機は「平穏な日常を取り戻す」こととなっているのだが、これが大きな問題となる。取り戻そうにもその「日常」を我々がちゃんと経験できないことはすでに述べた通りだ。
あるいは、ものがエロゲーである以上、主人公の動機とは概ねヒロインへの思い入れとなる、とも言ってよかろう。その点、ヒロインから主人公への思い入れ・愛情はビシビシ感じられるのだが、主人公の方がヒロインにいかほど執着があるものかは、いまいち伝わりにくい描写になっていると感じた。クール系主人公の弊害である。
唯一桜井螢については、互いの恋愛感情の高まりが納得のゆく水準で描かれていたと評価できるが、逆にマリィなどは、いつの間にあんなに惚れ込んだものやら、どうにも飲み込みきれない思いがするのである。
また、どのシナリオにしても終盤はほとんど戦闘シーンに終始しており、当初の目的を忘れて戦いにのめり込んでいるようですらある。終盤での動機の整理ははっきりと不足しているといえる。
そうした問題は特に蓮の「渇望」に関する描写で表面化しているように思える。蓮の渇望は「時間の停止」、すなわち過ぎ去ってゆく日常を永遠に止めようとする運動であると説明されているが、その日常への渇望がヒロインとうまく結びつかないために、単なる「手からビームが出る理由」に堕した感がある。そのため、決死の戦いに臨む蓮の切実さが、なかなかこちらに迫ってこないのだ。

蚊帳の外の主人公

このように、連に「感情移入」して本作をプレイすることは少々難しい。だが仮に、蓮に充分な「感情移入」が起こったとしても、蓮にとって一連の事件が「他人事」であれば意味がない。本作の物語は、必ずしも「藤井蓮の物語」として括れるものではなくなっている。
本作において、敵役となる聖槍十三騎士団の存在感がとりわけ大きいことは、すでにプレイされた方には実感されることだろう。特にラインハルト、メルクリウスの両名については、実質的な主役といえるほどだ。
敵役の個性が強いことは歓迎こそすれ、批判すべきこととはいえない。しかし、主人公や仲間たちとほとんど感情的な接点が持てないようでは、その強烈なパーソナリティも徒に物語の焦点をぶれさせるのみとなってしまう。メルクリウスなどは、恋敵である蓮にもっと含むところがあってよかったのではないだろうか。双方、相手を自分の目的の障害(ないし道具)としてしか見なしていない節があり、両者の感情が噛み合う場面はごく少ない。
さらにいえば、ナチスドイツという因子が、現代に生きる蓮たちと聖槍十三騎士団の「事情」をすれ違わせてしまっている。ラインハルト・ハイドリヒとメルクリウス=カール・エルンスト・クラフトは歴史上の同名人物をモデルとしており、同じくナチスをモティーフとした『HELLSING』よりも実在のナチスとの結びつきは強い。
60年前の海の向こうの「事実」となれば、完全な架空よりもいっそ強い断絶を感じさせてしまう。蓮にとっても他人事であるならば、ディスプレイのこちら側にとっては全く無関係の出来事といっても過言ではない。
いや、「聖槍十三騎士団の物語」が「我が事」となる人物はいるのだ。蓮のパーソナリティの元となった大戦期のドイツ人、ロートス・ライヒハートこそ、本作の最終的な主人公ともいえる。
そうだ、『AIR』だって結局のところ柳也と神無備命の物語みたいなもんだったではないか。ロートスと蓮の繋がりをして、ナチスドイツの時代に心を飛ばすことは可能ではないのか。ところがその二人の繋がりが問題なのだ。柳也と往人の関係と異なり、ロートスと蓮は人格的にはほぼ完全な同一人物であるが、送った人生が異なるのだからそんな設定の綾はどうでもよい。重要なのは受け継がれる意志があるかどうかだ。それは前世ものの必須要件といってよい。
ロートスはメルクリウスに利用されて命を落としただけであり、未来に向かって某かの希望を託したわけでは全くない。マキナとの因縁を除けば、やはり蓮にとってロートスの事情は「他人事」なのだ。いや、むしろロートスにとって現代日本で起こった事件が「他人事」だったのだとすらいえる。玲愛シナリオで語られる、あの場所あの時代でのロートスとルサルカのほろ苦い出会いこそ、よほど「感情移入」に値するではないか。こうなるともはや、この物語をどこから見たらよいのかさっぱりわからなくなる。
『Dies irae』は、実は群像劇に近い物語なのかもしれない。

『Dies irae』の先祖は『ヴァルキリープロファイル』?

『ヴァルキリープロファイル』をご存じだろうか。実は、本作を最後までプレイして真っ先に連想したのがこのプレイステーションの傑作RPGだった。
北欧神話に題材を取り、プレイヤーは戦乙女ヴァルキリーとなり、神界大戦に備えて英雄の魂(エインフェリア)を集めるというのがあらすじである。主人公レナス・ヴァルキュリアは、その過程で英雄たちが死に至る悲劇をいくつも目の当たりにすることとなる。そういえば聖槍十三騎士団はエインフェリアと呼ばれ、ヴァルキュリア=ベアトリスというキャラクターも登場するではないか。
英雄たちの群像劇、という点で近いものを感じたのだが、蓮たちと聖槍十三騎士団を隔てる時代という壁は、人界と神界の境よりも遙かに強固であるように思われてならない。その時代という断絶をベアトリスが指摘したというのが、また皮肉に感じられる。

あえて小手先と断ずる

本作は優れたテキスト描写がしばしば最大の魅力として語られる。大きな批判にあった2007年版に比べ、完全版の評価が総じて高いものになっているのはその違いだともいう。
人は文体に燃えるのか。それは一面の真実ではあるが、それが全てというわけではもちろんあるまい。プレイヤーは、少なくともぼくは、「他人事」に本気で感動できるほど繊細じゃあないのだ。『Dies irae』は、物語をプレイヤーに届けるために、全ての手を尽くしたとは思えない。いや、これほどテキストにばかり注目が集まることこそ、その証左といえる。
近年、シナリオ重視のエロゲーにおいては、全体の筋立てよりも細部に凝る傾向が見られる。本作もそうした傾向に沿うものではあるが、「感情移入」なんてのはそれ以前、物語作品としては前提条件だ。
もちろん、透明で平凡な主人公を導入せよと主張するわけではない。感情的なフックが必要なのだ。それなくして「燃え」を志向しようというのであれば、それは小手先の感動にすぎないのではないか。だからぼくは、二つの時代を繋ぐ意志を持ったベアトリスとルサルカに魅力を感じるのだ。