劇としての
Dies irae

simula

作品のビジョンに悩んでるので、ラスト中心で。ラストがああいう形になった理由について。

玲愛以外のルートって、ハッピーエンドにはならないよなーというのが印象としてあって。
各シナリオラストでの、メインキャラクター((蓮、司狼、香純、先輩、螢、エリー))について整理すると、

となります。どのエンドにしろ、なにかしら欠けが存在する。
僕はこう見てきたときに、作品世界観として完全なハッピーエンドという形には、都合が良すぎるものとして描いていないのかなという印象を持っていました。

その上で玲愛ルートのラストを見てみると、凄まじい紆余曲折はあったにせよ、蓮が希求する日常を構成するメンバーという形で司狼、香純、先輩、螢、エリーが生きている。そのためこのエンドを見て、トゥルーエンドであるからこそ欠けのない完全な世界にしたのかなと思ったのです。
ここでは欠けのない完全な世界と言いましたが、流れを見るともう少し違った形に見える。このシナリオは作中登場人物一人一人、つまり皆にスポットを当てているのではないかと思います。
この話の前に、この作品の作り方について話すと、この作品は数多くの謎があり、登場人物が多くいます。そして、各シナリオごとに明かす謎や主に活躍するキャラクターを変えることにより話を構成するエンターテイメントとして作っています。複数シナリオという形を取っているためこの形は良いんですが、この形を取った上でトゥルー的なシナリオをやろうとすると印象として落ちるキャラクターが出てきます。ある種の結論として受け止められてしまうラストシナリオで出番の少ない、あるいはほぼないキャラというのは、作品全体として存在感のないキャラという印象を与える可能性が結構ある。

で、実際の玲愛シナリオはどうだったかというと、ラストはメルクリウスと獣殿の一騎打ちです。なんですが、獣殿の闘いは聖槍十三騎士団が獣殿と共に闘うというものです。
そして、このシナリオでは特に因果関係が語られます。ヴァレリアやリザの戦いが戦いとしては敗北してしまうものであっても後の展開で影響を与えるものであるものです。蓮と三騎士との戦いの勝利の理由は蓮そのものの力というよりも、ヴァレリアやリザ、ルサルカにあると語られている。
また、メルクリウスと獣殿の一騎打ちになった理由がヴァレリアがイザークに言った言葉であると言われ、ヴァレリアを動かしたのが玲愛の行動、蓮への慕情であると言われます。そして、これらの影響や、もちろん蓮や司狼などの戦いなどすべての要素の結果として、先のメルクリウスと獣殿の一騎打ちが起こることとなる。そして、この結果としてメルクリウスは再び永劫回帰を行おうとするのですが、マリィがそれを止め、新たな流出の座につきます。
そのため、このシナリオのラストは全ての要素、登場人物たちの動きによってそこに至ったものとして描かれています。
Dies iraeという作品の最終版タイトルである「Acta est Fabula」、劇の終わりとして、皆にスポットが当たっている訳です。

と言ってみたんですが、これはかなり好意的に読んでみた話で。正直なところ、最終バトルが主人公おいてけぼりの獣殿とメルクリウスとのバトルってどーなの?と思う訳です。公式のSSで蓮ならメルクリウスと獣殿に勝てると玲愛とマリイは言うけれど、ベストの状態の獣殿とメルクリウスに勝てるというビジョンが見せられなかったからこうなってしまったのではないかという疑いを持ってしまうんですよね。この作品は燃えゲーであるとしばしば言われますが、燃えというのをある種の説得力という一面があるのではないかと僕は捉えています。ベストの状態の獣殿とメルクリウスを蓮が倒すという「燃え」を作ることが出来なかったから、この形になったのではないかと邪推してしまうのです。この二人の相手が出来るのは結局お互いしかいなかったのではないか。メルクリウスとの一騎打ちに入る前に獣殿が「ゆえに観客よ、見ていてくれ」と蓮たちを思う様を見るとこう思ってしまったんですよね。
そういうことを考えたときに、どーにもすっきりしない作品だなーと思ってしまっています。

ということまで書いたんですが、この既知感を乗り越えられないかともうちょっと考えてみます。上で言ったことを言い換えると、戦いで必要なのは説得力である。つまり、戦いというのは価値観同士のぶつかり合いと、どちらかの勝利による正しさの表現とするならば。相手を説得できたということはつまり勝ちな訳です。戦闘の勝敗によらず。
獣殿はラスト、人間であればいいのだと言います。これは蓮との戦い、対話を通じて辿り着いた結論である。それは、蓮の力というよりも、幻想を肯定する獣殿への説得によって、あの結末へと至ります。
蓮の望みというのは歪んだ形な訳です。マリィルートで言われるように。
であるとするならば、彼がその一瞬を永遠にする力で勝って一番上に立ってしまうとおかしなことになる。要するに、お前が言うなとなってしまう訳で。彼の考え方は、一瞬を大切にしないものへのカウンターとしてのみ正しい。
とするとこのラストへの流れというのは、非常に正しいのではないかと。

美しく思う刹那を永遠に……そんな馬鹿げた願望を捨てられないし、叶えられないから渇きは癒えない。
不満で、不安で、いつも揺れて……
ロートス「だけど、それが人間だろう?」
だから、俺はそうしたものでかまわない。
「俺たちは永遠になれない刹那だ。どれだけ憧れて求めても、幻想にはなれないんだよ」
ハイドリヒ「それこそが生に真摯であること─」

というように、刹那を求めながらもそれを断念するのは「俺たち」、二人な訳ですから。

この辺り、よくある「現実へ帰れ」というメッセージに見えるんですがそうだとすると、非日常、劇の終わりにはそれが続いていかないことを示すことが必要です。そしてそれは、作中登場人物の態度を示すことによって意味がある。言葉だけ言ったところで説得力がないですから。
とすると、家に帰るまでが遠足的な意味で、「劇」を描いた作品ではないかなあと思います。
今現実に帰れと言って意味があるのかということは悩みどころなのですが、その辺も含めてドラマCDのアフターでなんらかのビジョンがあったらいいなあと期待してますというところで終わりにします。