勝山ペケ
エロゲにおける分岐構造が、どの程度まで製作者の発想に影響を与えるかは定かではない。しかし、一定の影響を仮構するのはそれほど的外れなものではないだろう。何故ならば、選択肢分岐は多くの場合において、ストーリーの分岐と直接的な関係を有しているからである。また、このことから選択肢の数が減るほど、分岐の持つ物語上の意味は相対的に増していくと考えられるだろう。
そのような観点から『てとてトライオン』を見たとき、選択肢分岐の数はルート分けに必要な最低数であり、個々の分岐の持つ意味に注目する価値は大きいと言えるだろう。今回はその中でも、「夏海/鈴姫」の明らかな対関係他の例としては、『るいは智を呼ぶ』のるいと花鶏がある*1を元に考察を行ってみたいと思う。
まず下図を上から順に説明していこう。
夏海 | 鈴姫 | ||
---|---|---|---|
ポジション | メインヒロイン | 太眉毛 | |
基本設定 | 特活 | サニーサイド | 小鹿亭 |
特性 | 巫女 | 警備部長 | |
分岐 | 地下→洞窟 | 地下→遊園地 | |
ストーリー | 告白 | 慎一郎→夏海 | 鈴姫→慎一郎 |
トラブル | システムの外部性 | システムの内部性 | |
運命 | 名前 | 幼なじみ |
織原夏海は言わずとしれた今作品のメインヒロインである。その性格はおおらかで、ノリの良いトライオンの面々を代表していると言えるだろう。対して、胡桃沢鈴姫の最大の特徴はその太眉にある。『お願いお星さま』からの流れを加味にしなければいけないにしても、その色物ぶりは否定できない要素だろう。性格は自他ともに厳しく、トライオンのメンバーとも他愛もないものではあるが、衝突しがちである。
両者は文字通り対面をなす、ライバル店舗の従業員である。夏海の勤めるサニーサイドで、慎一郎が特活を始めるという事実もそれなりに示唆的だろう。
「獅子ヶ崎の声」シナリオからも分かるように、夏海は巫女として明らかに獅子ヶ崎の中心を占めるキャラクターだ。全てのシナリオにおいて、慎一郎への恋慕の吐露もまた、この作品における正ルートの存在を暗喩していると考えられる。
逆に鈴姫は、警備部長として、浮かれ騒ぐ獅子ヶ崎の面々を制止しようとする役回りを演じている。これは、彼女が攻略ヒロイン中で最も獅子ヶ崎から離れた人物として設定されていることでもある。
前言を覆すようだが、この分岐は特例に属するだろう。何故なら、この分岐は選択肢から直接発生するものではなく、ライターが別個に設けたものである。この作品の選択肢は二つしかないが、最初の選択肢の時点で夏海と鈴姫のどちらかは既にルートに入れないことが確定している。つまり、この分岐はライターが存在しない分岐を擬製したものであり、両者の対構造を強調するために置かれたものと考えられる。
鈴姫以外で自分から告白したヒロインはいないので、誰とでも対をなせるのではあるが、慎一郎に告白した鈴姫が付き合っていると思い込んでいたの対し、夏海に告白した慎一郎が振られたと思い込むという対称的な構図が成立している。鈴姫だけが慎一郎に自ら告白しなければいけないことは、鈴姫がこの物語の最も外部に位置することを象徴しているとも言える。
両者ともpitaシステム関係でトラブルを抱えることになるが、夏海が過剰なアクセスという外部的な問題であるのに対し、鈴姫はトライオンによる心情の暴露という内面的な問題である。前者の解決方法が事実上存在しないのに対し、後者の解決が過剰なアクセスを伴なってしまうことは、注目すべき点である。
夏海の運命は七夕の伝説になぞられえられた名前にまつわる本人の意図を超えたものであり、場所としてはかささぎ橋と結びついている。鈴姫の運命は幼なじみとの再会という人為的なものであり、場所としては廃墟の遊園地と結びついている。前者は手鞠から全面的な肯定を受けるが、後者は慎一郎から否定されてしまう。
上記の要素の対比から浮かび上がってくるのは、鈴姫シナリオにおける獅子ヶ崎の見えざる強制力である。
恋愛という言葉の定義は多数あるにしても『新明解国語辞典』第5版によれば、恋愛とは「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。」とある。 *2、それが相互間の営みを意味することは一般に同意されることだろう。二人だけの時間の積み重ね、これが恋愛における重要な側面であるの間違いない。そして、これが鈴姫が求め続け、獅子ヶ崎に否定され続けたものではないだろうか。
平均二週間という短期間の恋愛の成就を可能させるのは、pitaシステムによる相互理解の促進である。しかし、相互理解の先に恋愛とは存在するものではないはずだ。むしろ相互理解と恋愛は交わらない平行線なのではないだろうか。幼なじみキャラにおいて、相互理解から恋愛への跳躍が問題になるのはお約束であろう。*3
そして、相互理解と恋愛という本来なら重なることのない線と線を重ねて、恋愛と友好の間を地続きにしてしまう性質、これこそが獅子ヶ崎を楽園たらしめる強制力であるようにボクには思える。
この意味において、鈴姫の恋愛は非・獅子ヶ崎的な性質を持って始まったものだ。彼女は相互理解の幻想によって傷ついたからこそ、それを飛び越えた場所で付き合うことに成功している。
またpitaシステムの暴走において意味されるのは、システムによる相互理解の促進が、恋愛において必ずしもプラスに転じないということだ。そして、鈴姫が慎一郎と距離を置こうと提案する理由は、二人の関係を獅子ヶ崎とを独立したものと捉えていることと密接に関係している。
それ故に、この騒動の顛末が、過剰なトライオンという夏海側の要素をもって終わることは示唆的である。これが示すのは、鈴姫の恋愛が結局は獅子ヶ崎の強制力に屈せざるえないということだ。
思い返せば明らかなように、鈴姫の恋愛は常に獅子ヶ崎性によって邪魔されている。慎一郎による再告白の際の聴衆もさることながら、ファーストキスのときに闖入する夏海の存在ほど、このことを象徴したものはないだろう。二人だけの思い出を獅子ヶ崎の象徴である夏海が一瞬のうちに踏みにじってしまうわけだ。それが悪意のないものであるからこそ、この構図には一種の恐ろしさがある。
これを踏まえれば、鈴姫シナリオのラスト付近に、全く遊園地が出てこない理由も見えてくるだろう。遊園地という二人だけの思い出に属するイベントを放棄して、代わりに演じられるのは、遊園地の電力を用いた思い出の聴衆の前での塗り替えである。そして、それが行なわれる場所は、あのかささぎ橋なのだ。つまり、鈴姫は二人だけの恋愛という形を諦めて、獅子ヶ崎における恋という形を選択したのだ。
前向きに考えるなら、これは鈴姫が本当の意味で獅子ヶ崎の輪に加わる物語なのかもしれない。だが、鈴姫が望んだのは、そんな大それたことだったのだろうか。恋人同士で一歩ずつ二人だけの世界を作っていくこと、それは決して否定されるべきものではないはずだ。
獅子ヶ崎の楽園の下には、恋に憧れる一人の少女の屍が埋まっている。ボクにはそう思えてならない。