終わらない
夏休みを
求めて

紅茶の人

目次

1.王の帰還

 「てとてトライオン!」は、サウロンのいない指輪物語である。
 ――そんな説を唐突に唱えてみる。
 獅子ヶ崎学園はゴンドールであり、「ひとつの指輪」は慎一郎の首輪だ。

三つの指輪は、空の下なるエルフの王に、
七つの指輪は、岩の館のドワーフの君に、
九つは、死すべき運命(さだめ)の人の子に、
一つは、暗き御座(みくら)の冥王のため、
影横たわるモルドールの国に。
一つの指輪は、すべてを統べ、
一つの指輪は、すべてを見つけ、
一つの指輪は、すべてを捕らえて、
くらやみのなかにつなぎとめる。
影横たわるモルドールの国に。

 ……あれ?
 そんな話だったっけ、という声が聞こえてきそうだがとりあえずこの方向で続ける。

 ――さて。
 獅子ヶ崎学園は明示こそされてはいないものの、慎一郎を王として迎えるべく用意された舞台である――と言って疑義のある人はそう多くないと思う。
 この明示されていない、と言う点こそが重要で。
 鷲塚・十倉父及び、学園理事長である夏海の祖母らが、子供たちの世代に合わせて学園を遊び場として築いた――そうした事実はビジュアルファンブックのインタビューや夏海・手鞠ルート、そして「獅子ヶ崎の声」のテキストからある程度読み取れる。
 しかしそれは劇中、世界設定としてきっちり語られることはなく、いくつか説明されている部分においても、作中人物に特にインパクトを与える情報としては扱われない。
 ここには、シナリオライターがそう言った裏設定はピックアップしないほうが演出上有効である、と感じた形跡が読み取れる――何故か。
 もりやん氏がラジオで言われていた「ずっと放浪生活だった慎一郎の嫁あるいは友達作りの場所としての獅子ヶ崎」という指摘はおそらく正しい。しかし、ゲーム内でもしあからさまにそう提示されていたら、我々はどう感じていたろうか。 
 学園の自由も混乱もテーマパークのイベントに過ぎず、楽しみも苦しみも学園制作者のすべて掌中――そんな箱庭では劇中の一般生徒たちがあそこまで学園生活を楽しむことはあり得ず、必然的に来訪者としてのプレイヤーも学園を素直に受け入れることは出来なかったのではないか。
 ここから見えてくるのは、シナリオライター陣の「語らなくてもいいことは、あえて語らない」――そんなスタンスだ。お仕着せの箱庭という印象を排除するための隠蔽がここにある。
 最も、物語内部における学園制作者もまた、単なる箱庭あるいはテーマパークからの脱却には相当自覚的だ。
 そのために導入されたイレギュラーこそ、すなわち生徒を危険な状況に落とし込むこともあり得る外部要素――「獅子ヶ崎の声」であり、その意味で「声」と学園制作者は確かな共犯関係にある。
「声」はコントロール不能なようでいて、ぎりぎりの所で学園全体を崩壊させるような事はしていないしする気もない――その理由についてはグランドエンドで語られた通りである。

 さて、王の帰還の話に戻る。
 慎一郎が王として認められるためのイニシエーションとして課題解決が存在し、その過程で同時に王妃の選定が行われている訳だが――学園制作者たちから託された鍵を持ち、彼女らと慎一郎のペアでなければ起動できないギミック・課題が存在する等の状況から見て、当初親たちが仮想していた王妃が夏海もしくは手鞠だった――そう考えることは不自然ではないと思われる。
 手鞠ルートにおける「三者」も、もしかすると最初はこの三人を想定していたのかもしれない。
 とはいえ、ここでもお仕着せ感を排除するために、PITAシステムは他の生徒にも開放されている。そして、それ故に会長と鈴姫はこの物語に参入することが出来た。
 会長と鈴姫は、学園が器として独自に発展し始めたために存在し得たイレギュラーであり、一般生徒たちもまたこの学園を満喫していること――学園制作者の思惑を超えて楽しまれていることを示すための存在と言える。
 その意味で、二人はよりプレイヤーに近い視点で獅子ヶ崎を見ているヒロインだとも言えるが、同時に学園制作者(あるいはシナリオライター)があくまで獅子ヶ崎学園の主人公は学生である、という擬制を維持するために擁立した存在とも見なせる。
 しかし、全ての個別ルートが「全校生徒への交際宣言&生徒たちからの受容」で終わるこの作品においては、王が王として迎えられたと同時に、彼女らもまた王妃にふさわしい者として祝福されているわけで、エンディング時点ではこの「王の帰還という物語」に彼女たちの物語もまた回収されることとなる。
 会長ルートは文字通り玉座を禅譲する話であり、鈴姫ルートは王子さまがシンデレラを再び見つけ出す話――そう言ってもいいだろう。
 そして上に祝福と書いたが、全てのルートで慎一郎の特権性を過剰にやっかんだり敵視する視線が慎重に排除されているのもまた特徴的だ。せいぜい冗談でフルボッコにされる程度であり、ここには王を待望していた王無き国の図式がある。
 この物語にはサウロンのみならず、デネソールや蛇の舌すら存在しないのだ。
(「声」はむしろトム・ボンバディルやエント的な役回りであることだし)
 最も、それが逆に気持ち悪いという人もおそらく居ると思う――けれど、慎一郎が高スペックながら癖のない朴念仁として描かれていることで、このような居心地の良さもさほど違和を感じることなくプレイヤーは受け入れることが出来る。
 そして、当然ながらこの恵まれた環境においては、慎一郎が指輪(首輪)の魔力に心捕らわれることもない。
 勿論「つながる、心」を割と簡単に受け入れてしまえる彼だからこそ、ではあるのだが――ぶっちゃけ凡人なら嫌がりそうな役回りではある。
 成程、そうした部分を含めても彼は王たるに相応しい主人公だし、慎一郎と心でつながることを厭わないヒロインたちもまた王妃に相応しい存在ではあるのだ――確かに。

2.語られない物語に終わりはない

 さて、ここまで見てきたところで、「語らなくてもいい事はあえて語らない」というスタンスについて改めて考えてみたい。
 本作にはしばしば「話が物足りない」「しかし」「物語空間は魅力的」という感想が見られる。
 何故こういった感想が多くなるのか?
 僕は、上記のスタンスがその答えになっているのではないかと思う。
 例えば、エピローグのない個別ルート。
 例えば、極めて短いゲーム内期間。
 夏休みの終わりすら迎えることなく、ただつきあい出して終了、なカップルたち。
 グランドエンドですら、終わりではなく学園生活の新たな始まりでしかない。
 それを尻切れトンボ、と思う人は確かに居るはずだ。
 だがそれは「終わりのない夏休み」を描くためには最適な締め方だったのだと思う。
 明確な「全ての問題への解答」を求める向きには確かに物足りなく映るかもしれない。
 しかし、終わって欲しくない物語を描くためには、終わりでなく始まりを一区切りとするしか無かったのだと――僕はそんな気がしている。
 ちょっぴり物足りない。でも、だからこそお腹一杯になることもない――そういう匙加減なのではないかな、と。
 PULLTOPはファンディスクを作らないブランドと見なされているが、それはすなわち「語りすぎない」ことについて自覚的であるとも受け取れないだろうか?
 まあ、この辺については多少贔屓目が入っていると認めざるを得ないが。

 ――ともあれ。
 結局のところ。
 宣伝に使われていたキャッチコピー。
 そこに全てがあるのだと思う。
『賑やかで、眩しくて、滅茶苦茶な――忘れられない日々。』
 僕たちはそれを求めて、彼の地へと赴く。
 ――そこに解決を求めず。
 明確な終わりを求めず。
 遊びに行く。日常を忘れに行く。
 夏休みという非日常を求めて。
 非日常の中で過ごす日常を求めて。
 ただ、楽しんだという記憶を求めて。
 終わって欲しくない夏休みを求めて。
 ――そう。
 僕たちは、夏休みを楽しむために、獅子ヶ崎へ行くのだ。