美少女ゲームイズムと
反・イズムの
奇跡的両立

もりやん

正体不明!謎のエロゲーの真相を追え!

 今これを読んでくださっている方は、『Suger+Spice!』をすでにプレイしているだろうか。
 聞いといてなんだが、プレイしているものとして書き進めさせていただく。
 みなさんは、本作をプレイして、どんな印象を抱いただろうか。
 ぼくにとって本作は、なによりもまず「得体の知れない」作品だった。
 学園もの・純愛もののシナリオゲームに対して、得体が知れないというのは理解が得にくいだろうか。いや、似たような客層を狙った他の作品と比べ、本作がなにか決定的に異なることを行っているという印象は、小なりとも共有されうるものだとぼくは信じる。というか、それを出発点にしないと話が始まらないので、そういうことにしておく。
 さて、本作はとても変なエロゲーである。では、ぼくが“変”だと感じたのはどういったところなのか。
 それは、それなりにエロゲーをプレイしてきて、経験的に身につけてきた“予期”が、ことごとく裏切られる――というより、一顧だにされないといえるほどに、スルーされ続ける点にある。
 ふつうのエロゲーにおいてその魅力とされるものが、本作にはほとんど装備されていないのだ。
 では、ぼくは本作を楽しむことができなかったのか。そんなことはなかった。それがまたぼくを困らせた。面白いのに、なぜ面白いのかがわからなかったのだ。
 これはまずい。挑戦状を叩きつけられた気分だった。俺たちは羊じゃねえんだ。飼い慣らされるのはまっぴらごめんなのである。
 仕方ないので、ガリガリカタカタと書いては消し、書いては破りして、どうにかこうにか本作の面白さを説明できそうな気がしてきた。ERO-GAMERS始まって以来初めての前向きな努力といえる。
 で、とまれ。ぼくが本作を面白いと感じたのは、単に好き嫌いの問題ではない。ちゃんと構造的な理由がある。
 「好きになったら告白システム」・「オトメカイセキ」・アイテムシステムという看板ゲームシステムと、「日常」「コミュニティ」というシナリオ上の二大テーマについて確認することで、本作の全体像を明らかにできるものと思う。以下では、シナリオテーマに関連して、ゲームシステムの運用についても扱ってゆく。

2大テーマ――日常コミュニティ

日常――常に恋愛に発展しうるものとして

停滞を供給する日常

 本作は日常シーンに力を入れている。エロゲーにおける“日常”とはどういったものか――というのは、『てとてトライオン!』のときにやったので、そちらをご参照いただきたい。簡単にいうと、それは恋愛が始まる前、なにも起こっていない状態である。従って、これに力を入れることは、恋愛以外のことを積極的に描くことに繋がる。普通なら。

ゲームシステムがもたらす日常の変異

 さて、では本作の日常はどのように構成されているのだろうか。
 本作のゲーム進行は、非常に特徴的なスタイルを取っている。基本はマップ選択型のAVGだが、マップ上で選択するのはキャラクターや場所ではない。本作では、ひとつひとつのエピソードに独立したアイテムのシンボルが与えられており、アイテムのアイコンを選択することでゲームが進行する。
 これは、各エピソードがキャラ・場所に縛られないことを意味する。ひとつのエピソードに複数のキャラが参加することもあれば、同時同地点で複数のエピソードが発生する場合もある。
 こうしたエピソードの集積によって表現される彼らの日常生活は、通常のマップ選択式で表現されるそれよりも遙かに複雑で奥深いものとなる。特定のヒロインに限らず、複数のキャラが常に日常に参加しているし、「史実」としてのストーリーは単純に分岐するのではなく、曖昧なふくらみを持っている。実行されなかったアイテムイベントがときに「あったこと」とされるのは――フラグミスでなければ――「描かれなかった出来事」の実在を意味するものといえる。文芸的にも、「よくあること」とされるイベント(部活動や、藍衣との生活、夢路の家に遊びに行くことなど)によって、「描かれざる日常」の存在感が強調されている。
 これにより、「なにごともない日常」は、展開の多様性を飲み込む強度を持ち得ている。
 また、全てのアイテムは回想モードに登録される。ほとんどのアイテムイベントは、内容としては「なにごともない」、物語的な強度をほとんど持たないものであるにもかかわらずだ。同様の「全回想」システムはCircus作品でも採用されているが、固有のシンボルを持つアイテムイベントは、単に利便的な意味で参照可能とされているのではなく、それ自体が主要なコンテンツであり、作品において重要な意味を持つことを示していると解釈すべきだろう。
 ここにおいて、日常は非日常に至るモラトリアムとしての意味を超えて、それ自体に価値を与えられたものとなっている。
 さて、文芸面で見ると、モラトリアムは日常を語る上で外せない要素といえる。いずれ来る日常の終焉を忌避する心情は日常系作品の根底ともいえるものだが、本作においては、そうした心情は支配的なものではない。例えば、キャラクターの多くはかなり明確な将来の目標を持っているし、和真はボクシングの道を極められないことを受け入れた上でそれに打ち込んでいる。どのルートでもはねるは転校し、はねるがいない日常が続いていく。そして、日常にひとつの変化を加える選択権が、プレイヤーの手にゆだねられている。そう、「好きになったら告白システム」だ。
 「好きになったら告白システム」は、一定の好感度を条件に解放され、マップ画面において任意のタイミングで実行することができる。和真は対象のヒロインに告白し、好感度が足りなければフラれ、好感度が高ければ晴れて恋人同士となる。
 好感度を条件とする以上、告白実行と成立にはある程度時期的な制約があるが、これも好感度を引き継いでのニューゲームによってあっさりと破棄される。実際には、条件によっては特定のタイミングで逆告白を受けることがあるが、それとても断ることができてしまう。告白のタイミングは、全く、意味のあるものではない。
 自然、選択できるアイテムも、強制シナリオの内容も、告白前後でほとんど変化しない。もっと言うと、告白失敗の後、別のヒロインに告白することも、それを成立させることも可能だ。告白によって恋人関係という確かな変化はもたらされるが、たったそれだけともいえる。日常は、日常のままあり続ける。
 また、タイミングが任意であるということは、膨大なアイテムの集積によってなる一連の日常全体が、常に恋愛関係に至る、あるいはすでに至っている可能性を持つことになる。
 本来は非・恋愛の状態を意味するはずの日常が、恋愛という決定的な出来事とごく近しく隣接している。それでいて、この日常は恋愛そのものではないのだ。告白を断られるだけでなく、設定的にも、はねると司は最初から和真を好きなわけではないからだ。
 もうひとつ忘れてはならないのが、和真の記憶喪失だ。全てが未知の世界を生きる和真に、日常をただ日常として受け入れることはできない。常に恋愛に発展しうる可能性は、欠けた記憶に隠された思わぬ地雷を踏み抜く可能性と表裏一体だ。
 それでも彼は、目の前に投げ出された日常という名の非日常を、本物の日常として咀嚼していく。ここにおいて、慣れ親しんだ日常と、見知らぬ非日常は区別されず、曖昧に混じり合ったままにある。トゥルーEDにおいて、高島医師は、記憶が完全には回復しないままの和真に、治療の終了を告げる。
 本作における日常は、不変でも絶対でもない、曖昧なものとして描かれている。和真の生活は、非日常を含んだまま一生続いていくことになる。彼が生きているのがすでに日常であり、帰るべき日常などどこにもないと言われてしまうのだ。
 主人公のこのような特徴が、ゲームシステムとあいまり、「なにごともない」はずの日常を、異様な緊張感を持つものに変えてしまっている。本作に前座も肩慣らしも存在しない。最初からクライマックスなのだ。

コミュニティ――恋愛をタブーとしないもの

恋愛以外の繋がりを供給するコミュニティ

 近年のエロゲーの流行として、コミュニティ描写がある。ヒロイン個人を描くのではなく、その属するコミュニティ、周囲の人間関係をもまとめて描こうとする作品が多くなっている。もちろん、それらの作品にはヒロイン個別ルートがある。
 結局は個別ルートに収斂するのだから、目当ての女の子の尻だけ追っかけていればよさそうなものだ。その中でコミュニティ描写が発展してきたのは、個別ルートにおいて、攻略中のヒロイン「だけ」に焦点が当たってしまう問題に対処するためと考えている。
 従って、エロゲーにおけるコミュニティは、各ヒロインを含むのみならず、恋愛以外の繋がりによって成立している――言い替えれば恋愛以外の繋がりを供給するものである必要がある。ま、これも『てとてトライオン!』における獅子ヶ崎トライオンを想像していただくのがわかりやすかろう。

「恋人候補」そのもので成るコミュニティ

 本作がコミュニティもの作品に含まれるという認識からして、いくらか異論が出るだろう。主人公とヒロインが個々に関係するだけでなく、彼ら全員がともに日常を過ごしているという点では本作はコミュニティを描いているといえるのだが、このコミュニティは特定の名や機能、拠って立つ場などを持っていない。
 しかしそもそも、そうした要件がコミュニティの成立において必須とされるだろうか? 誰かが「われわれ」というとき、そこに特定の関係範囲がある程度の確度で想定されるならば、それは立派なコミュニティといえるだろう。というより、エロゲーにおけるコミュニティがそれを規定する特別な要件を必要としたのは、「恋愛以外」の関係性――美少女と関係する「いいわけ」を供給する必要があったからにすぎない。
 つまり、本作のコミュニティは「恋愛以外」の関係性を供給する目的で設定されてはいないのだ。むしろ、和真・歌・夢路・藍衣・はねる・司によってなるコミュニティは、和真の「恋愛可能圏」とほぼ一致するものといって差し支えない。
 ここでいう「恋愛可能圏」にはふたつの意味がある。ひとつは、男女恋愛がある程度の近しさを前提として――ドラマティックで運命的な出会いによらず――成立するとしたときの、近しさの基準値だ。もうひとつは、一定の関係範囲内(本作では「学園内」とほぼ等しい)における、和真の「タイプ」に属する異性の集合だ。
 言い換えればこうなる。和真が付き合う可能性があるのはこのコミュニティの内部に限られる。または、和真は付き合いたい異性を選んで近しく関係している。
 これは現実における若者の恋愛のあり方に極めて近い――というとさすがに語弊があるし、童貞なのがバレるのだが、現実における恋愛のある側面を切り出したもの、くらいは言ってもよかろう。そういう意味で、本作のコミュニティは「リアル」であり「リア充的」といえる。
 つまり、いわゆる朴念仁主人公と異なり、和真は最初からヒロインとの「お付き合い」を実現可能性のあるものとして捉えており、しかもそれを自他ともに認めているのだ。
 それを裏打ちするシステムが「オトメカイセキ」だ。これは物語上、和真の見る夢であり、そしてそれはそのままヒロインへの異性としての関心を意味するものとされている。
 「解析」とはいうものの、その内容はヒロインの本質を正確に捉えたものとは必ずしもいえず、相当な偏りがみられる。それは、「オトメカイセキ」が和真のヒロインへの関心、彼女たちを性的な「対象」として認識する態度が反映されたものといえるだろう。
 こうした態度は、エロゲーにおいては一般に、「優しさ」とかけ離れた、否定されるべきものとされがちだ。最終的にヒロインへの異性としての確たる認識、主人公の身勝手な欲望が物語上で求められるとしても、それ以前に「君が異性として魅力的だから」というザコ男子生徒Aのような態度ではヒロインとの関係自体が成立しない。
 しかし本作では、ヒロインがそうした態度に寛容を示すばかりか、自身そうした身勝手な欲望に基づいて和真に接しているのだ。藍衣と夢路は過去すでに和真への好意を明らかにしているし、歌の和真へのからかいには明らかな下心が見え隠れする。はねるが和真への好意と彼を「モノにできる」可能性を秤に掛ける様は、もはやイヤらしいとすらいえようものだ。ああ、司はなんてピュアなんだろう。こんな薄汚い欲望渦巻くコミュニティにいていいものか素で疑問だ。
 まあ司はともかくとして、このコミュニティにおいては、男も女も男女の付き合いに至る可能性を前提として参加している。もちろんそれだけではなく、彼らはちゃんと仲の良い、互いに篤い誠意を持った友人同士ではある。あるのだが、それがシームレスにホレたハレたの話に繋がってしまうあたり、エキセントリックと言わずしてなんと言うのか。
 このコミュニティが「恋愛以外」「恋愛以前」として区分けられた存在ではない以上、当然、告白成立後も決定的な変異は起こり得ない。夢路が和真への好意を「割り切」れていないように。逆にそれゆえ、コミュニティは役割を終えることなく、引き続き彼らの生活基盤としてあり続けることになる。逆に言えば、カップル成立という大事件を当然のように受容する、有機的な柔軟性とダイナミズムを持ち得ている、ということだ。
 これはもはや、ヒロインを描くために舞台としてのコミュニティを用意したというよりは、甘酸っぱい青春成分過剰なコミュニティ自体を描写の主題としている、ある意味で非常にラディカルなコミュニティものというべきなのではなかろうか。

浮かび上がる「性欲」というエンジン

 ここまで、日常・コミュニティという本作の二大テーマが作中でどのように展開されているのかを確認してきた。では、そこから導かれる本作の魅力とはなんだろうか。
 本作における日常・コミュニティは、ともに恋愛とシームレスに接続されている。恋愛を主題として描く上で発生する諸問題に対処すべく開発されてきた、非・恋愛、反・恋愛の作劇テクニックが、むしろ親・恋愛のものとして提示されているのだ。
 これが破綻なく成立しえたのは、恋愛という問題に立ち向かう動機、すなわち性欲を真摯に捉え直した結果だろう。ある面では、我々が求めているのは唯一無二の美少女キャラでも、矛盾のない安楽に満ちた世界でもない。女の子はわからない。我々男とは完全に理解し合えず、ときに裏切ってくる存在だ。それでもなお/それゆえに、我々は女の子との関係を求めるのではなかったか。

「女の子って何でできてる?」

 マザーグースの一節を引く彩弥は、ただ謎だけを残した。しかしそれゆえに、和真はその答えを求め、女の子と関係しようとする。それは決して、彼の特別な生い立ちや資質によるものではなく、男なら誰でも共感しうる態度だ。
 ゲームの本質とは結論ではなくそこに至る過程にあり、その魅力はプレイヤーを駆り立てるモチベーションそのものといえる。ある意味では、女の子と付き合うのが楽しいのではなく、付き合おうとすることが楽しいのだ。
 和真の女の子へのセクハラも、性欲というモチベーションそのものの表現といえる。それが結論としてのセックスよりもむしろ高い比重を置かれていることは、ポルノ「ゲーム」としてはごくまっとうなあり方だろう。面白いのは、そうしたモチベーションがプレイヤーだけに持たれるのではなく、作中で主人公によって表現される点だ。
 なんだか陵辱ゲーの主人公と大して変わらない奴みたいだが、そうともいえないのは、ヒロイン側の異性への興味=性欲と、男女間の相互作用がきちんと描かれるからだ。異性が思うままにならないのは女の子も同じ。互いに異性への興味を持つことが世界の不文律であるからこそ、日常とコミュニティは「恋愛以後」も存続する。
 SugarとSpiceの匂いにホイホイと釣られる男、和真。我々が己の代行者として求めていたのは、まさに彼のような男ではなかったか。
 女の子との関係を求める和真は、恋愛にまつわる全てのものを前向きに受け入れ、我々は彼と苦楽を共にすることになる。人物としての魅力云々ではなく、彼は我々のパートナーなのだ。

変化を包含する物語を終わらせるために

 さて、ここまで、文章を本作を誉めるために費やしてきた。しかし、本作について語るならば、やはり個別ルートの問題についても触れなければフェアとはいえない。
 本作の個別ルート、というかマップ画面進行終了後のシナリオは、はっきり言ってつまらない。鬱々しく、唐突かつ退屈だ。
 これについて語る前に、今一度、一般的なエロゲーにおける共通ルート/個別ルートの関係を整理してみよう。
 話を葉鍵系のシナリオゲームに限るなら、共通ルートはヒロインについて知る部分、個別ルートはヒロインを救う部分といえる。言い換えればトラウマの表出と解決。共通ルートは個別ルートに至る前段階としてあり、どちらに比重が置かれるかはともかくも、共通が個別の下敷きになっていることには違いがない。もちろん、普通は恋愛状態に至った時点か、あるいはそれ以前の段階で個別ルートに入る。
 対して本作はどうか。まず、恋愛以外の問題を無理矢理導入してクライマックスを作っているため、鬱展開となる。恋愛状態に至るポイントと個別ルート突入がズレているため、唐突に見える。また、比重がひとりのヒロインに偏るため、これまでの多人数間における緊張感が損なわれており、退屈だ。共通ルートを下敷きとして個別ルートを展開しているものとみれば、完全に失敗している。
 もちろん、終わりのない日常を続けていては物語が終わらないので、なにかしらオチをつける必要はある。しかしこう、もうちょっとなんとかならなかったのだろうか。
 擁護すべき点はある。本作の作品としての主題が結論ではなく過程、先の例によれば救うことではなく知ることにあるとすれば、個別ルートがただ和真に解決不可能な問題を突きつけるだけのものになってしまうのもテーマに沿っているとはいえる。それに対する和真の回答はもう完全にどーでもいいのだが、とにかく「うまくいかないこともあるけど付き合っていく覚悟を決める」というのが物語的に和真に求められるのは当然ではあり、まあ、いい話っちゃーいい話には違いない。焦点はひとりのヒロインに絞られてしまうとはいえ、ちゃんとコミュニティ全体がそこに関与するようにもなっていて、彼らの絆の表現にはなっているし。
 それを認めた上で、圧倒的につまらない個別ルートについてはせいぜい必要悪程度にしか評価できないのもまた事実だ。
 ではどうすればもっと面白くなったのか。ここが一番悩んだところで、まだ自信を持ってこうといえるものはないのだが、ここまでの話からして「性欲」を問うもの、てのが順当な結論ではあるだろう。
 個人的には、歌と夢路は横恋慕し、和真は浮気すべきだったとやはり思う。歌ひとりの問題として考える限り、歌ルートは和真がいつ覚悟を決めるかという問題でしかない。そこに「セックスできる二番目に好きな女の子」の存在があったとき、初めて物語的に有意な問いとなりうる、そういえはしまいか。
 結局のところコミュニティが致命的に崩壊・終焉するような出来事は避けられているわけだが、このコミュニティに永続性を求めるのは筋の違う話だとぼくは思う。グループとしては崩壊しても、互いにとっては大切な人であり続ける。それがむしろ本作の美しさではないのか。終わりのない戦いとしての日常が肯定されるように。
 そういう意味では、和真はちょっとパーフェクト主人公すぎた。藍衣ルートについても、「ボクシングと私とどっちが大事だ?」と言われて、ついつい女の子に甘くなってしまう弱さがあって、初めて物語としての盛り上がりを持ちうるように思う。こんなもん、「どっちも大事だ」以外の答えはハナっから存在していねえのだし、「性欲」を業として意味づけない限り、儀礼以上のものは見いだせないだろう。
 個別ルート全攻略後に出現する最終シナリオ「Everything nice!」も、先述の高島医師の台詞をテーマ的に重要な示唆を含んでいるとはいっても、全然面白くないしありがたくもない……よねえ。別にハーレムルートってわけじゃないし。
 ここで少々前置きをする。ラジオではウダウダと喋ったのだが、本作はポスト『Fate/stay night』作品としても特徴づけられる。ここでいうポストFateとは「ヒロインだけでなく主人公がトラウマを持つ」作品群を指す。和真が記憶喪失という「トラウマ」=物語を駆動するコンプレックスを持つことは明らかだが、これは華麗にスルーされてしまった。
 これまで概観してきた本作の共通ルートの特徴を見れば、主人公のトラウマが特別重視されるべきものでないのは確かだ。しかし、そも主人公にトラウマが与えられるのは、ヒロインのトラウマと拮抗し、主人公がまさに主人公として物語上必要な役割を果たすためだ。
 共通ルートでは主人公とヒロインが対等の関係にあるのに、個別ルートでは突然ヒロインの事情に振り回されるからバランスを欠いたように感じられるわけで、結局ヒロインのトラウマにツッコまざるを得ないのであれば、主人公のトラウマもまたフィーチャーされるべきだったのではないか。
 例えば、共通ルートで和真の悩みとそれに対するヒロインの働きかけを主題としていれば、まあ現状よりネクラでしんどいものにはなるだろうが、個別ルートでぎょっとせずには済んだはずだ。
 あるいは、最終シナリオで押し隠していた和真の不安が表出し、初めてヒロイン側の「覚悟」が問われることになれば、それはそれでけっこう納得感はあるような気がする。なんか『智代アフター』を思い出してすげえ微妙な気分になったが、なに、本作には日常とコミュニティという強力な武器がある。和真の記憶がボロボロ欠けていくたまんねえ展開になったとしても、明るい光を感じさせることは不可能ではないだろう。
 あ、なんかきれいにまとめられそうな気がしてきた。本作は最終的に、物語的にはなんかアレな印象を残すものではあった。逆にいえばこの点にはまだまだ工夫の余地があるはずだ。ヒントは歴史の中にある。エロゲーというジャンルの試行錯誤の歴史を軽やかに乗り越えてみせた本作という作品を見れば、そうした未来もまた、希望とともに迎えられるものではないだろうか。そう思うよ。